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「やあねえ私ったら。前に細密画を送ってもらってたのに気づかないだなんて」
「こっちこそ、妹がいたなんて初耳だよ。もっとも、あいつは自分のことなんかてんで話さないもんな」
「お兄様ったら相変わらずねえ。こっちには年に一度、業務連絡みたいな箇条書きの手紙しか寄越さないし、困ったものだわ」
「それ多分、秘書がガミガミ言って書かせてるヤツだ」
「オーロさんのことね! 是非ともお会いしてお礼を言わなければならないわ。あの方がこっそりお兄様の予定を教えてくださらなかったら、こうして直談判に来られなかったんだもの」
石畳の道を歩きながら交わされる会話は、まるで十年来の知り合いのようにぽんぽんと弾む。
「そういや、手紙なんてろくに読まないで引き出しに突っ込んでるもんなあ」
「やっぱりね。じゃあ、この間送った釣書も見てないんでしょうね」
「それらしきゴミなら屑籠に放り込んであったのを見た」
「ああもう……これだから心配なのよ。あなたも、もう五年? それだけ一緒に暮らしていたら分かるでしょう。あなたやオーロさんがいなければ、今頃は本と書類の山に押し潰されて圧死してるわよ」
「……だな」
執務室の惨状を思い返し、肩をすくめるラウル。
「実家にいた頃からそうだったんだ?」
「ええ。お兄様の部屋は『魔窟』と呼ばれてたわね。何がどこにあるか分からないから、使用人達も掃除が出来なくて困っていたわ」
裕福な商家の長男として生まれたダリス=エバストは、後継ぎとして将来を嘱望されていたが、成人を迎える直前に突如、まるで散歩にでも出るようにふらりと家を出て、そして戻ってこなかった。
突然の出来事に誰よりも驚き、そして誰よりも激怒したのは、すぐ下の妹であるドロテアだ。嘆き悲しむ母を励まし、幼い弟妹達を慰めながら、無我夢中で父の手伝いをして家業を盛り立てた彼女は、やがて婿を取って正式に父の後を継ぎ、そして持ち前の才覚を如何なく発揮して、エバスト商会の名を中央大陸中に知らしめたのである。
「まったくもう、家のことは全部私に押しつけて、自分はちゃっかりユーク様の声を聞いて神官になるだなんて、本当にひどいわ!」
幼子のように頬を膨らませるドロテアだが、ラウルはさもありなんと肩をすくめた。
どんなに重大なことでも、まるで卵の焼き方を注文するような軽いノリでやってのけるのが、ダリス=エバストという男だ。何しろ、貧民街の抗争に巻き込まれて死にかけた孤児を「何となく」引き取り「何となく」養子にするような人間である。商才ある妹に跡目を譲るため、ふらりと家出するくらいは朝飯前だろう。
「それじゃあ、あいつはそれ以来、実家と縁を切ったってわけか?」
「勘当されたわけじゃないし、お父様達は『好きにさせてやろう』って仰っていたけど、お兄様は縁を切ったつもりだったみたいね。でも、そうは問屋が卸さないわ。何としても戻ってきてもらおうと、手を尽くして探しましたとも!」
とはいえ、冒険者としてあちこちを放浪している人間の足取りを追うのはとても難しい。ようやくドロテアが兄の居場所を押さえたのは、彼がそれまでの功績を認められ、ユーク本神殿勤めとなってからだというから、まさに執念の一言に尽きる。
「……今でも、あいつに戻ってきてほしいのか?」
彼が家を出て、すでに三十年以上が経過している。すでに跡目はドロテアが継いでいるし、彼女には子供もいるのだから、今更ダリスを呼び戻す意味があるとも思えない。
そんな問いかけに、ドロテアは静かに首を横に振った。
「今更、実家に戻って家業を継げなんて言わないわ。でも、どんなに離れていても家族は繋がっているんだってことを忘れないでほしいし、できたら早いところ結婚して、お父様達を安心させてあげて欲しいの」
それにね、とドロテアは琥珀色の瞳をきらりと輝かせた。
「……なんとなくだけど、お兄様にはどなたか心に決めている方がいるんじゃないかって思うのよ」
「はあ?」
意外な言葉に、思わず目を丸くするラウル。その反応に気をよくしたのか、ドロテアはあのねえ、と声を潜めた。
「いいことを教えてあげる。お兄様は昔から追及を躱すのが上手いけど、本心と違うことを言おうとする時は決まって目を伏せるのよ」
これは初耳だった。今度じっくり観察してやろう、と心に決めるラウルを横目に、ドロテアは『感動の再会』秘話を得々として語り出す。
「あの日は、今日みたいに風が穏やかで、気持ちの良い日だったわ。初めて訪れた首都は驚くほど人が多くて、道の端っこをこわごわ歩いたものよ」
どうにかユーク本神殿に辿り着き、ようやく兄と再会を果たしたドロテアは、感動の涙も乾かぬうちに見合い話を切り出したのだという。
「いきなりかよ!?」
「だって、その時はまだ、お兄様も四十手前ですもの。本神殿勤めという箔もついたし、是非ってお話がたくさんあったのよ」
しかし、あのダリスが素直に了承するはずもない。例の『この身は神に捧げて云々』でやんわりと拒絶されたが、ドロテアとてその程度で引き下がるわけもなかった。
「その時『そこまで嫌がるってことは、もしかして心に決めた方がいらっしゃるの?』ってかまをかけたら、一瞬言葉に詰まったあと、すっと目を伏せて『そんなわけあるか』って答えたのよね。もう、これは絶対いるなって確信したわ」
自信満々に言い切って、ドロテアはぐっと拳を握りしめた。
「お兄様にどなたか心に決めた方がいて、それでも面倒がって行動に移さないでいるのなら、いっそ私が代わりに頼み込みに行くわ。今回はそう言いに来たのよ」
『面倒がって』と断言するあたり、ダリスの人となりを実によく理解している。
「心に決めた人、ねえ……」
はてと腕組みをして、ダリスの交友関係を思い返してみるが、神殿内はもちろんのこと、把握している限りの人間関係を総ざらいしてみても、それらしき女性に心当たりがない。
(ミラベル姐さんじゃないってことは、もっと前からの知り合いってことか……?)
うんうん唸りながら歩いているうちに、いつの間にやら目的地へと到着していたらしい。
「随分と仲良くなったようだな」
聞き慣れた声にはっと顔を上げると、白亜の神殿を背に佇むダリスの姿が目に飛び込んできた。
「あらお兄様、お久しぶり。お元気そうで何よりだわ」
にっこりとほほ笑む妹とは対照的に、兄の方は苦虫を噛み潰したような顔を隠そうともしない。
「ドロテア……せめてもっと早く手紙を寄越したらどうなんだ」
「そんなことをしたら逃げてしまうでしょ」
ずばりと一刀両断されて二の句が継げないダリスに、後ろの方から爆笑をかみ殺したような呻き声が響く。
「……オーロ。隠れてないで出てきたらどうだ」
「感動の兄妹対面を邪魔するのは無粋だと思ったんですが」
腹を抱えながら柱の影からよろよろと出てきたオーロは、ドロテアの前まで進み出ると、優雅に一礼してみせた。
「お会いできて光栄です。クリスト・バル=オーロです」
「ドロテア=エバストですわ。是非直接お会いしてお礼を言わなければと思っておりましたのよ。兄の面倒を見ていただいて本当にありがとうございます。不束者の兄ですが、どうぞ見捨てないでくださいまし」
「おい、ドロテア――」
「お兄様は黙ってて」
顔すら向けずにぴしゃりとやって、爆笑寸前で震えているオーロの手を強引に握りしめるドロテア。
「あなたのおかげで、こうして逃げ回る兄を捕まえることが出来ました。どんなに感謝しても足りませんわ。聞けば、執務室の片付けをしてくださっているのもオーロさんだとか。昔から、ちょっと目を離すとすぐ、机の上どころか部屋中がゴミだらけになって――」
「ドロシー!」
天下の往来であれこれ暴露されてはたまったものではない。大慌てで遮るダリスの脇腹を、ラウルが肘で突く。
「しっかり者の妹で何よりだな、じじい」
「小僧……。嵐のように去っていったと思ったら、なぜ更なる嵐を連れて戻ってくるんだ」
「町で偶然会ったんだよ。大体、こんな美人の妹がいるなんて聞いてないぞ」
「おや、言っていなかったか?」
しれっと答えるダリスに、あらいやだ、と何故かオーロを叩くドロテア。
「この子ったら口が上手いんだから。褒めても何も出ないわよっ」
「あ、あの……なぜ私を叩くんです」
どう反応していいか分からずおろおろする秘書を見かねて、ダリスはごほんとわざとらしく咳ばらいをした。
「やめなさいドロテア。まったくお前は、いくつになっても落ち着きのない」
あらいけない、と手を止めて、こちらもこほん、と真面目な顔を取り繕うドロテア。
「お兄様。今日こそははっきりさせていただきます」
長口上の気配を察したダリスは、さっと手を挙げてそれを制した。
「分かったから、せめて場所を変えよう」
ユーク本神殿の前で派手に言い合っていたら、それこそ野次馬に囲まれてしまう。実は先程から門番達が胡乱な目付きでこちらを窺っているし、怒られる前に移動した方がよさそうだ。
「執務室にお茶を用意いたしましたので、どうぞこちらへ」
こうなることを予見して茶の用意を整えておいた優秀なる秘書は、どさくさに紛れて逃げ出そうとしていたラウルの襟首をひょいと捉まえて、満面の笑顔でこう囁いた。
「昼食抜きでお腹が空いたでしょう? 美味しい茶菓子も用意してありますから、あなたもおいでなさい」
冗談、と答える前に、腹の虫がぐうと返事をしてしまったから、どうにもしまらない。
「ちっ……分かったよ」
観念して歩き出すラウルを先頭にして、ぞろぞろと神殿に吸い込まれていく面々に、少し離れたところで様子を窺っていた門番達がこそこそと言葉を交わす。
「……先輩、誰でしょう、今の美人」
「エバスト高司祭の知り合いだろ。下手に関わるなよ。揉め事に巻き込まれるのは御免だ」
古株の門番はそう答えて、ひょいと肩をすくめてみせた。
「まったくあのお方は、面倒事ばかり持ち込みなさる……」