2-1
穏やかな日の光が、石畳の道を歩く少年の横顔を照らす。
表通りの喧騒が嘘のように静まり返った裏通り。ここが活気づくのは日が落ちてからだ。酒場や娼館が所狭しと立ち並ぶ、通称《常夢通り》。貧民街からほど近い場所にあるこの一角は、とても子供が一人でうろつくような場所ではなかったが、彼にとっては店の裏口から路地裏の落書きまでばっちり把握済みの『勝手知ったる遊び場』だ。
「ああもう!」
苛立ち紛れに道端の小石を蹴飛ばせば、通りがかった黒猫が迷惑げにニャアと鳴いた。
「あれ、なんだノアル、またミラベルのところから逃げ出してきたのか?」
ちょいちょいと手招きすると、普段は人懐こい顔馴染みの黒猫は、ぷいとそっぽを向いて軽やかに去っていく。
『猫は心を読むのが上手いから、不機嫌な人間の傍には決して近寄らないのよ』
黒猫の飼い主である酒場の女主人がよく口にしている言葉を思い出して、ラウルはけっと毒づいた。
(……悪いのはあいつらの方じゃねえか)
彼が養父の執務室まで怒鳴り込んでしまったのには、勿論理由がある。
神学校の休み時間に、いつもの如く上級生達に因縁をつけられた。それ自体はしょっちゅうだったし、最近は相手にするのも馬鹿馬鹿しいと頭から無視していたのだが、その態度に業を煮やしたらしい上級生は、因縁のつけ方に捻りを加えてきた。曰く――。
『エバスト高司祭の『趣味』にも困ったものだ。それともお前の方から誘ったのか?』
『生きるためには手段を選んでいられないもんなあ。この浮浪児が』
正直、この手の暴言を吐かれるのは初めてではない。ダリスが少年を引き取った詳しい事情を知らない者達は事あるごとにこうやって少年を――その背後にいるダリスを――嘲笑ってきた。
しかし、よくあることだからといって、心穏やかにいられるわけもない。
今回は殴り合いの喧嘩に発展したため、ほどなく騒ぎを聞きつけた教師が止めに入ってその場を収めたのだが、一方的にラウルが悪いと決めつけられ、昼飯抜きの上に罰当番まで言い渡された。それもまたいつものことで、余計に怒りが収まらない。
「くそっ!」
再び湧き上がってきた怒りに、手近な建物の壁を殴りかけて、少し離れたところからこちらをじっと見つめる黒猫の視線に気づく。ばつが悪くなって拳をひっこめると、猫はよく出来ましたと言わんばかりに一声ニャーと鳴いて、すたすたと近寄ってきた。
「……なんだよ。慰めてるつもりか?」
足にすり寄ってきた猫の艶やかな毛並みを軽く撫でてやってから、ひょいと抱き上げる。
「ったく、あいつが嫁さんでももらえば、俺もとばっちりを受けずにすむのになあ」
本人は独身主義を謳っているが、そんなダリスを慕う女性は意外と多い。救済活動でこの辺りに来るたびに、あちこちの女から商売抜きの秋波を送られている。いつもは軽くあしらっているが、もう少し粘ってもらえばちょっとは真剣に考えるかもしれない。
「なあ。お前のご主人、うちのくそじじいとくっついてくれたりしねえかな」
真剣な眼差しに、しかし猫は答えない。くああ、と大あくびをして、ラウルの腕の中で眠る気満々だ。
「お前なあ、少しは真面目に聞いてくれよ」
猫にそんなことを言っても仕方ないと分かってはいるが、ついついぼやきたくもなるというものだ。
「ミラベルは……この時間だとまだ寝てるかな」
そう見当をつけて、猫を抱えたまま歩き出す。ノアルの飼い主である女主人が取り仕切る『山猫亭』は、この先の角を曲がってすぐの店だ。今の時間なら仕込みが始まっているだろうから、裏口から訪ねていけば誰かいるだろう。
「ついでに賄いでも食わしてもらえないかな……ん?」
都合のいいことを呟きつつ角を曲がりかけて、突如響いてきた女声にぎょっと目を剥く。
「お願いですわ。もう一度、兄と付き合っていただきたいんです!」
「ですからドロテアさん、何度も申し上げた通り、私はあの方と恋仲というわけでは……」
いかにも寝起きという様子で戸口に立ち、困り顔でそう答えているのは、誰であろう黒猫の飼い主ミラベル。対峙しているのは、少なくともこの界隈では見かけたことのない女性だった。年の頃は三十後半か、仕立てのいい旅装に身を包み、きっちり結わえた焦茶色の髪には羽根飾りのついた帽子を乗せている。
「それでしたら、これから恋人になってくださいませんか。兄には、あなたのようなしっかりした女性が必要なんです! お願いです!」
頭を下げるたび、ゆらゆらと揺れる羽根飾り。その動きに、さっきまで眠りかけていた黒猫がカッと目を見開き、次の瞬間にはラウルの腕を蹴って飛び出したものだから大変だ。
「うわっ、やめろノアル!」
慌てて取り押さえようとしたものの、猫の俊敏さには敵わない。しかし、声に驚いて一瞬動きを止めてくれたおかげで、女性の顔面に飛びつくという事態だけは避けられた。
「きゃあっ!?」
「ノアル!」
うまいこと女性を避けて着地した黒猫をひょいと抱き上げ、ミラベルは嬉しそうに頬をこすりつける。
「もう、どこへ行ってたのよ。ちょっと目を離すとすぐにどこかへ行っちゃうんだから」
ひとしきり喋ってから、ようやく少し離れたところに立つラウルの存在に気づいたミラベルは、あらあらと声を上げた。
「あなたが連れてきてくれたのね。ありがとね、坊や」
「坊やはよせよ」
つい顔をしかめて抗議するが、この抗議が聞き入れられたことはない。ミラベル曰く「坊やと呼ばれて怒るうちは子供」なのだそうで、そう言われるとぐうの音も出ないのだ。
「驚かせて申し訳ありませんでした、ドロテアさん。すみませんが、店の準備がありますので……」
ごきげんよう、と優雅に一礼し、そそくさと引っ込んでしまったミラベルに、飯の当てが外れたラウルだけでなく、ドロテアと呼ばれた女性もまた、がっくりと肩を落とした。
(おいおい、一体何なんだ?)
気になる会話内容だったが、どうにも不穏な気配がするから、おいそれと関わらない方がいいだろう。そう判断して、そっと踵を返そうとした瞬間――。
「んもう!!」
がっくりと項垂れていたかと思えば、一転してげしげしと石畳を蹴りつけるその様子は、まるで駄々をこねる少女のようで、思わずくすりと笑ってしまったら、ばっちり聞こえてしまったらしい。
「あら、いやだ。恥ずかしいところを見られちゃったわね。……見なかったことにしてくれる?」
怒られるかと思いきや、それこそ悪戯を見咎められた子供のように顔を赤らめて、そう拝んでくるものだから、ついいつもの調子で軽口を返す。
「別に恥ずかしいってことはないけど、往来であんな話をしてたら、あっという間に野次馬に囲まれちまうぜ」
あら、と辺りを見回し、野次馬らしき人だかりができていないことを確認して、ほっと息をつく女性。
「聞こえちゃった?」
「そりゃあもう、ばっちりと」
折角戻った顔色を再び林檎のように紅く染め上げて、女性はきゃあ恥ずかしいと身を捩った。
「本当にもう、恥ずかしい限りだわ。……でも、今度ばかりは恥なんて気にしていられないの。何が何でもお兄様に身を固めてもらわないと!」
拳をぐっと固めて息巻く女性は、よほどの決意でミラベルを訪ねてきたらしい。
「どこも大変なんだな」
神妙な顔で相槌を打つ少年の姿を見て、女性はあら、と意外そうな声を出す。
「あなた、その恰好はユークの神学生さん?」
「そうだけど……」
神学生だということは制服を見れば一目瞭然だが、宗派まで言い当てるとは驚きだ。
「よく分かるね。ユークはあまり人気がないのに」
「兄がユーク神殿に勤めているのよ。これから直談判に向かうところなの! その前に外堀を埋めてしまおうと思ったのだけど、うまく行かないわねえ」
苦笑交じりのため息を漏らし、どすんと壁に背中を預ける。せっかく綺麗な格好をしているのに、服が汚れるとか髪が乱れるとか、そういうことには頓着しない性格らしい。
「ねえ神学生さん、ちょっと聞いてもいいかしら」
「何?」
「……ユーク神殿って、神官の結婚を禁じたりしていないわよね?」
「いつの時代の話だよ」
思わず吹き出すラウル。確かに、かつては厳格な掟を定めて、結婚どころか異性との接触自体を禁じるような宗派もあったと聞く。しかしそれは昔の話だ。
「ま、俺の知ってるユークの高司祭は、女に言い寄られるたびに『自分は神にこの身を捧げているから』とかほざいて、のらりくらり逃げ回ってるけどな」
「それよ、それ!」
がばっと身を乗り出し、同意を示す女性。
「うちの兄も、まさにそれなのよ! 今時そんなの流行らないわよねえ。ユーク様だって、五十過ぎの男に身を捧げられたって困ると思うのよ」
直截的な物言いだが、まさにラウルが常日頃思っていることと同じだったから、つい勢いに乗せられて、うんうんと大きく頷きを返す。
「だよなあ。体のいい断り文句にされて、きっとユーク様も迷惑してるぜ」
どうせ身を捧げてくれるなら断然女の子がいいよな、という言葉だけはどうにか飲み込んで、やれやれと壁にもたれかかる。
「困ったもんだよなあ」
「ほんとよねえ」
女性はあーあ、と盛大にぼやき声をあげた。
「なんであんなに頑ななのかしら。理由を聞いても「何となく」の一点張りで、どんなに問い詰めてもニコニコ笑ってるだけなんだもの、たちが悪いったらないわ! お父様はもうとっくに諦めてらっしゃるけど、私は諦めないわよ!」
今にも口から炎を吹き出しそうな勢いだが、その熱意は一体どこから来るのだろうか。
「……ちなみに、どうして諦めないんだ?」
「私の子供達がね、いとこが欲しいって散々ごねるものだから」
けろっと言い放つ女性に、がくりとよろけそうになるラウル。
「そんな理由かよ!?」
「もちろんそれだけじゃないわよ? いくら神官だからって、いつまでもお勤めができるわけじゃないのだし」
「そうだよなあ、神様の声が聞こえなくなったら、どんなに有能な高司祭だろうが『ハイさよなら』だもんな」
「いざ職を辞して一人になったら、誰が世話してくれるっていうの?」
「そうそう、ましてそれまで秘書におんぶにだっこじゃ、いざ独居老人になった時の部屋の荒れようが恐ろしすぎるぜ」
「それに、お兄様ったら独り身なのに養子を迎えたのよ? あのずぼらなお兄様がたった一人で子育てなんて無茶にもほどがあるわ!」
「ホント、いい迷惑だよなあ。なんで俺、あの時「うん」って言っちまったんだろう」
「……あら?」
「……お?」
妙にかみ合う会話に、きょとんと顔を見合わせる。
「――まさか、あなた」
「あんたの言ってる『お兄様』って――」
ごくりと喉を鳴らし、互いの言葉を待つ。
沈黙に耐えきれず、先に口を開いたのは女性の方だった。
「ごめんなさいね、名乗りもしないで。私はドロテア。ダリス=エバストの妹よ」
「俺はラウル。ダリス=エバストの養子だ」
澄ました顔が、揃って笑み崩れる。
こうして、血の繋がらない叔母と甥は思いがけない初対面を果たしたのであった。