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伍 ──希望


 落胆したようにどっかりと座った厭忌は、しばらくして、口を開いた。

『……お前、分かってんの?』

『何が……?』

『お前のこと、俺がどんだけ心配していたかってことだよ』

 いや、と答えた小さな声が、深い排水溝の奥へと途切れ途切れになって消えてゆく。

『俺、今でも覚えてるよ。お前と初めて会った時のこと』

 懐かしそうに目を細めた厭忌は、なぁ、と憐愍を見た。その表情に笑みは欠片もない。

『俺たち、ほとんど同時に、同じような場所で生まれたんだったな。初めて見た他の言霊が、よりによってお前だった。お前がどうかは知らないけど……』

 その“よりによって”の真意を、憐愍は少し掴みかねた。

 憐愍の方を何度も見ながら、厭忌は記憶を辿るように言葉を続けてゆく。

『お前は本当、お人好しだったよな。俺が最初に、人間は嫌いか、って尋ねた時、お前こう答えたんだぜ。『嫌いになりたくても、なれそうにない』──って』

『そうだったかな……』

『ああ。俺が大嫌いだって言ったら、すげえ悲しい目をされた。それが何だか面白く思えて、だから俺、お前とつるむようになったんだよ』

 初めて知った事実だった。

 憐愍は厭忌を一瞥して、その瞳の中にかつての自分と厭忌を思い出そうとした。

 その厭忌が、すっと目を伏せた。

『……俺な、不思議だったんだよ。どうして俺たち言霊が、人間を好きになれるんだろうって。だってそうだろ? 俺なんか、そこに存在し続けるだけで、相手の人間を傷付けちまう。生んでくれやがった本人は、とうの昔に俺のことなんて忘れてやがるのによ』

『知ってるんだね、厭忌は。自分の持つことばの意味と、伝えた人』

ああ、と厭忌は何でもないことのように応じた。

『話したことはなかったっけな。……俺な、いじめっ子の言葉から生まれたんだ。文句は確か、『あんたみたいなの、この世から消えちゃえばいいのに』──だった気がする』

 憐愍は思わず嘆息した。

 厭忌が背負っている言葉の重みをようやく知ったことで、押し出されたため息だった。今の今まで知らなかった自分が、恥ずかしく思えた。

 気のせいか厭忌の声に、震えが混じり始めている。

『俺さ。お前のこと、羨ましかったんだ』

『……えっ』

『俺は嫌でも、人間を傷付けなきゃいけねえ。でも、お前は“憐愍”──誰かを憐れむために生まれた言葉だ。俺と違ってお前は、人間を傷付けないで済む。そんなお前の背中を見かけるたびに、羨ましくて、妬ましくて、仕方なかった。……なぁ、知ってるか、憐愍。人間を傷付ける感覚って、すごく重たいんだぜ』

『重たい……』

『ああ。重たいんだ。俺にはそれが、重すぎた。それを続けていくと、ずるずると()()嫌いの海に沈み続けていくような感覚がして、……心底、怖かった』


 そこまで厭忌が口にした時、ようやく憐愍は気付いた。

 厭忌は静かに、啜り泣いていたのだ。

 声には決して出すまいとしていたのだろう。厭忌は暗い天井を見上げながら、わざとらしいと思えるほどの低い声で、語っている。


『俺は“厭忌”なんて名前の言霊だけど、中身は他の言霊と何も変わらない普通の一人のつもりさ。人間のことは嫌いだけど、仲間の言霊のことは好きでいたい。お前や、それから他の連中と、普通に暮らして、普通に笑っていたかった。でも、いつまでも人間を傷付けていると、いつか他人を痛めつけることに無関心になっちまうんじゃないかって思って、毎日毎日、怯えてた。……だからこそ、人間の支えになってやれるお前が、羨ましかった。

俺が“厭忌”であることは、俺にはどうしようもない。だったら俺はどうやって人間を傷付ける運命から逃れたらいいだろうって、四六時中ずっと考えるようになった。そうしたら、思い付いた。たったひとつだけ、方法があるって』


──まさか。

 厭忌が空けた一瞬の間に、憐愍は悟った。証拠はまだないのに、それは確信に近かった。

 厭忌はこちらを見て、にやり、と口元だけで笑う。──お前、分かってんだろ。言ってみろよ。そう無言で伝えようとしているみたいだった。

 憐愍は唾を飲み込んで、答えを口にする。

『……言霊が人間への反抗を決めたのは、僕と厭忌が出会ってから、一ヶ月くらい経った時だったね』

『ああ』

『まさか、厭忌が発端だったっていうのか。意味を伝える仕事をもうしたくない、言霊は人間から離れてしまうべきだっていう主張は。言い換えるなら──言霊たちの総意が人間の絶滅に傾き始めたのは……』

『そうだな。俺さ』

 厭忌はすんなりと認めた。

『意外にも賛同者が多くて、すぐに考えは広まった。望んだ通りの結末になるまでに、二週間もかからなかった』

『…………』

『な、名案だろ。人間が滅んじまえば、俺もお前も平等だ。ただの言霊同士になるんだよ。そしたら俺にも、お前や他の奴らと楽しく過ごす日々が戻ってくるかなって思ったのさ……。今みたいな、言霊同士が意見の合わない相手を殺しちまうような状態になるなんて、考えてもみなかったんだ……』

『……厭忌』

『今は、後悔してる』


 厭忌はそこまで言ったきりうつむいて、もう何も語ろうとはしなかった。


 厭忌が憐愍を殴ってまで、自分を省みない憐愍の決心を止めようとした理由は、簡単だった。

──厭忌は嫌だったんだ。どんな理由があっても、僕や、他の仲の良かった言霊たちを失いたくなかったんだ。

 憐愍は胸の奥で、ごめん、と呟いた。 

 気付けなかった。厭忌がずっと抱えてきた葛藤にも、憐愍や他の言霊たちに感じてきた思いにも。そして、言霊の消滅が運命付けられたばかりか、互いに(しのぎ)を削るようにすらなった今に、自分が導いてしまったという後悔にも。

 厭忌が願ったのは、ただ、人間になど関わることなく、言霊たちだけで暮らせる平和な世界だったのだろう。

──僕には、厭忌は責められない……。

 憐愍も、うつむいた。何か言葉を厭忌にかけるたび、片っ端からそれらが欺瞞と化してゆく気がして。


 憐愍はまだ、追われている。いちど総意を敵に回してしまった以上、もはや許されることはないだろう。

 それならこれから、一体どうすればいい?

 憐愍には何ができる?

 いや、違う。地面を固く睨みながら、憐愍は思った。


──僕は、何を望む?



 

 その時、ふと、空気の感触が変化した。

『!!』

 反応したのは憐愍だけではなかった。厭忌も顔を上げ、周囲を見回している。

 二人の視線は、眼前に続く排水溝の暗闇でぴたりと止まった。


『来てるな』

 厭忌が囁いた。こくんと憐愍も首肯した。

 漆黒に沈む排水溝の前方から、追っ手の言霊たちが迫ってきているのだ。

 どうする。憐愍は上を見上げた。排水溝の頭上に、今は追っ手の姿はない。逃げようと思えば逃げられるかもしれないが、手間取れば命取りになりかねない。

 それに、ここには厭忌もいる。憐愍と一緒にいるのが発覚すれば、厭忌も同じ罪にされるかもしれない。

 そんなのは嫌だ。憐愍は声を潜めて、厭忌に告げる。

『一緒に行こう、厭忌』

 厭忌は首を振った。

『俺はここにいる。お前だけ、先に逃げろ』

『どうして? ここに残ったら厭忌まで……』

『お前なぁ』

 呆れたように厭忌は囁いた。

『そもそもどうして俺がこんな所にいるのかって、不思議に思わなかったのかよ』

──…………!

 さあっと顔が青ざめていく感覚が、憐愍を襲った。

 そういうこと、と厭忌は笑う。同情にしては、あまりにも儚い笑みだった。

『『お前は憐愍と仲がいいだろう。ならばお前も怪しい、よって捕まえる』──昨日、いきなりそう宣告されてさ、意味も分からずに逃げてたところだったんだ』

 その瞬間ほど、憐愍が後悔の思いを強く抱いたことは、きっと、ない。

──僕はあの女の子だけじゃなく、無関係の厭忌までも巻き込んでしまったのか……!

 歯を食い縛った憐愍に、厭忌は背中を向けた。そして、行けよ、と低い声で促した。

『で、でもっ』

『お前、あの女を助けるんだろ?』

 ……憐愍は言葉に詰まった。

『どうせ助けるなら、悔いのない助け方をしろよ』

 厭忌は顔を見せずに言った。その前方に、ちらりと言霊たちの放つ炎が見えてきている。

『いたぞ!』

『厭忌だ!!』

 はは、と厭忌は笑う。『ちょうどいいな、憐愍。お前には気づいてないみたいだぜ』

 それから笑いをふっと止めて、言った。

『……なぁ、憐愍。世界中のあらかたの言語は消えちまったけど、まだ一部には、人間と一緒に仲良くしている言霊がいるんだってさ。いつかそいつらはきっと発展して、その言語を使う社会を巨大化させるだろう。──その時、また俺たちのようなことになったら、つらいよな』


 その言葉だけで、憐愍には厭忌の言いたかったことが全て、伝わった。


『早く行け』

 厭忌はその言葉で、憐愍の背中を静かにそっと押した。

 音を立てないように憐愍は排水溝を押し上げて、外へ出る。誰もいないのを確認して、厭忌を改めて振り返った。厭忌が、押し寄せてきた言霊たちに取り囲まれていた。

『──厭忌、もう逃げられると思うなよ』

 凄んだ一人の言葉を、はっ、と厭忌は鼻で笑い飛ばしていた。『逃げねえよ。お前らとは違って、俺は繊細だからな』

『憐愍はどこだ。知ってるんだろう』

『知ってるさ。けど、あいつを追うのはやめた方がいいぜ』

『なぜだ』

『無駄だからだよ。……それより、俺を捕まえな。奴を反抗するようにしたの、俺だからな』

──!?

 憐愍は耳を疑った。

 本当か、と追っ手も聞き返している。『近頃妙に多いと思ったら、お前が元凶か!』

『へへ。“厭忌”なもんでな。野放しにはしない方が、賢明だと思うがな』


 厭忌が身代わりになろうとしてくれているのだと、憐愍は理解した。

 厭忌の思いを、無為にしてはならない。絶対に。

 憐愍は駆け出した。涙が溢れそうになっても、足が止まりそうになっても、無我夢中でそこから逃げ続けた。逃げて、逃げて、疲れ果ててもまだ逃げた。

 あの場所から遠く離れて、ようやく憐愍は後ろを振り返った。

 追っ手の姿も厭忌の姿も、そこにはなかった。


『厭忌……』




──ありがとう。


 そこだけは言葉にできなくて、憐愍は心の中にそっと、その声を置いた。







 先刻の台詞が、憐愍の頭を何度も過った。

──『いつかそいつらはきっと発展して、その言語を使う社会を巨大化させるだろう。──その時、また俺たちのようなことになったら、つらいよな』

 厭忌は恐らく、憐愍の少女への思いを理解していたに違いない。……そして、あの状況下で厭忌が伝えたかったのは、字面通りの意味ではないはずだ。


──僕もあの女の子も、追われている。どんなに遠くへ逃げても、追っ手はどこまでだって来ようとするだろう。捕まれば僕は殺され、女の子は……。

 憐愍は考えに考えた。

 そして、思い付いた。

 たったひとつ、悲劇を防ぐ方法がある。憐愍の思いを遂げ、少女を救うための方法が。


 言霊は言葉を司る霊だ。

 あらゆることばの意味を人間に与えるため、言霊はすべての言葉に精通し、それを自在に理解・使用する力を持つ。人間にはそれがなく、その代わりを務めるために言霊は存在していた。

 そしてそのことを応用すると、言霊は自分の意志で、人間に言葉の力を与えてやることができることになる。自分の持つ全ての知識や情報を、人間へと送り込むのである。

 ではもしも、少女にその力を与えたら……?


──やるしかない。一か八かだ。

 憐愍の思いは固まっていた。厭忌の示唆しようとした事柄がその先に見えていると、分かっていたからだ。




 固まった決意をエネルギーにして、憐愍は走った。

 昼とも夜ともつかなくなった街の中を、懸命に走り続けた。

 何度も言霊たちに見つかりそうになった。けれどそのたび、憐愍は咄嗟の判断で遭遇を避け、或いは素早く逃げ出して、追っ手を巻いた。

──早く、早く。あの子のもとへ……!

 叫びにも似たその願いが、どれほど何度も憐愍の心をよぎったか知れない。焦れば焦るほど不思議と力が湧いて、憐愍は足を止めることなく走り続けた。

 厭忌のもとを離れて、半日が経った。ふと見上げた先で、そびえ立つ巨大なビルが闇夜にぐったりと体躯を晒していた。

 見上げた憐愍は、ここだと確信した。それは、かつて少女と別れた、あの地下の防災倉庫のあるビルだった。

──頼むよ。君が、僕の希望なんだ。

 後は、祈ることしかできない。そこらじゅうに言霊たちの探し回った痕跡が残っているのを目にしながら、憐愍は中へ分け入った。


 もはや、迷いはない。

 すべき事はもう、決まっているのだ。


 憐愍の捜索は、一時間に及んだ。

 防災倉庫の近くに少女はいなかった。いや、きっと近くにいるはずだ。そう自分を奮い立たせ、最上階から一番下の層まで、ありとあらゆる場所を探し、見回し、目を凝らした。

 だが、少女の姿はなかった。

『ダメだ……』

 途方に暮れ、憐愍は立ち止まった。自動車や機械設備が打ち捨てられ、地上の光の届かない真っ暗闇の中で、憐愍の他に息をするものはいなかった。

 もしも、万が一──。思わず最悪の事態を思い起こし、憐愍は首をぶんぶんと振った。違う、駄目だ。その想像をしてしまうことが駄目なのだ。諦めたら、そこで全てが終わる。

 こんな形で終わるなんて、御免だ。せめてヒントだけでも見つかるなら……。憐愍はくたびれた身体を押して、再び防災倉庫の元へ向かった。


 

 人間たちも、こんな思いを噛み締めたのだろうか。

 

 そんな思いが、ふと頭の隅でぽっと灯った。


 言葉による戦いを覚えるよりも前、人間たちは互いに傷付け、互いの力を知り、それによってしか分かり合うことができなかった。

 その代わりに人間は、行動を何よりの拠り所にした。何かを伝えるのも、何かを訴えるのも、全てが行動の先にあった。

 言葉がまだ神聖で、迂闊に使えるような代物ではなかった頃のことだ。──いや、今もそれは同じなのかもしれない。

 きっといつの時代も、人間たちは必死だったのだ。伝わらない、享有できない何かを、それでも相手に届けたくて。だから、人間たちは言葉を工夫し、使いやすくし、皆が使えるように広めていった。伝えようという思いが空回りしたから、言葉は人間を傷付けるようになった。

 その結果として、言霊たちが人間に軽んじられていると考えるようになったとしても、言霊たちに一概に人間を非難する資格はあるのだろうか。

 人間だって、人間なりに懸命だったのではないか──。


 無惨に儚い跡を見せる、かつての人々の営みの生んだ光景が、憐愍の心をいっそう苦しくした。

──伝えるって、大変なんだな……。

 そう、思った。

 泣き言は言っていられない。次は防災倉庫のある地下一階だと考えつつ、憐愍は雑念を振り払おうとして、目をつぶった。




──「…………神様?」


 聞きたかったあの声が物陰からしたのは、その時だった。


『!?』

 憐愍は振り向いた。

 そしてそこで、ぼろぼろに塗装の剥げた防災倉庫の裏から静かに出てきた、あの少女を目にした。

「神様……、ですよね」

 少女はふらりふらりと、朧気な足取りで歩み寄ってきた。うんとうなずきたかったが、憐愍の口から真っ先に出てきたのは、別の言葉だった。

『どこにいたの……? 僕、その辺りをさっきも探したばかりなのに……』

「隠れていたんです。神様以外の何かに、見つかりたく、なかったから。でも、通り過ぎたのが神様だって、気づいたから……」

 少女は既に鼻声だった。

「よかった……。わたし、信じていてよかった……。神様は絶対また来てくれるって、信じていて……」

 同じことをそっくりそのまま、憐愍も返してあげたかった。よかった、君がまだ生きていて。信じていて、よかったって。

 けれど時間がそれを許さない。

 上のフロアにある入り口が開く音が聞こえ、二人は顔を見合わせた。よもや、と憐愍は歯軋りした。気づかれたか……。

「……時間がない。こっちへ行こう!」

「ええっ、ちょっと、待ってくださいっ……!」

 戸惑う少女を引き連れ、憐愍は一番下の階へと駆け下りた。

 言霊が来たような形跡があるぞ! ──階上から途切れ途切れに聞こえてくる言霊たちの言葉が、ひどくおどろおどろしかった。でも、ここならばまだ、安全だ。

 少女は未だ、なぜこんな所へ連れて来られたのか分からないといった顔をしている。憐愍はくるりと向き直って、少女の正面に立った。

 そして、ずっと溜めていた台詞を、口にした。それが少女の期待するものでないことは、分かった上で。


『突然、こんなことを申し出ると、君は驚くかもしれないね。──君に、僕の力をあげようと思う』


 少女は、えっ、という形に口を開いたまま、憐愍の言ったことを自分なりに咀嚼しようとした。

「力って……何ですか」

『言葉を自在に用いる力だよ』

 憐愍は笑ってみせた。

『僕たち言霊の持つ、特別な力だ。かつて君たち人間は、僕らからその力を借りて言葉をしゃべっていた。でも、今日から君は、自分の力で言葉を使えるようになる』

「わたしが、言霊になるんですか……?」

『そうだよ。君は言霊と同じ力を持つんだ。言霊に邪魔をされても、──もしも言霊がこの世からいなくなっても、自分自身の力で言葉を使って、生きていけるんだ』


 そう。

 それこそが、憐愍の目論見であった。


 少女が言葉を自分の力で使えるようにする。それはすなわち、どんな言霊にも妨害されることのない絶対的な言語能力と思考力を手に入れるということ。

 これで少女は安全になるのだ。思考力を失わない限り、言霊たちに心を侵略されることは有り得ないからだ。

 そして同時に少女は、他の人間たちに任意で言葉を与えることができるようになる。もしも彼女が望みさえすれば、何年か後にはこの国の言葉は復興するかもしれない。

 それほどの可能性が、これから憐愍が与えようとする力にはある。


 少女はまだ事情を飲み込めてはいないようだった。憐愍は、少女の暖かな胸にそっと手を当て、そっと念を送り始めた。こうして少女の心にリンクし、後は自分の持つ全ての知識を、経験を、少女へと送り込むのだ。

 憐愍の身体はやがて、ぼんやりと白く光り始めた。

「──待ってください!」

 少女が叫んだ。「どうしてですか? どうしてわたしにいきなり、そんなことをするんですか? わたしが言霊の力を持ったら、神様はどうなっちゃうんですか!?」

『僕のことは、構わないで』

 憐愍はなるべく優しい口調で、そう答えた。

 教えたくはなかったし、教えなくとも少女は予感しているだろうと思った。──人間に言語能力を移したら、力を失った言霊は消えてしまう、だなんて。

 言霊とはつまり、言葉の力が顕現した姿なのだ。力を人間に渡してしまえば、当然、そこに留まり続けることなどできない。

『僕たち言霊はね、もうすぐ死に絶えてしまう運命にあるんだ。そうなったら、今の君たち人間に何があったのか、語り継ぐ人は誰もいなくなる……。だから、誰かが力を受け継いでくれなければいけない。僕はそれを、君に任せたい』

「で、でも……っ。どうして……」

『君は今までの誰よりも良き言葉の理解者に、伝導者になるんだ』

 遮るように憐愍は続けた。

『今まで一度も話さなかったけどね。僕たち言霊は、人間にいちど絶望して、人間から離れようとした。その結果、人間は考える力を失って、滅びようとしている。そして人間が滅びた時は、僕たちも滅びる時なんだ。伝える人が、誰もいなくなるから。

でも僕は、いや僕たちは、人間に完全に絶望したくない。いつかきっと、他の言語が発達して、その言霊たちと人間が上手くやっていけるようになる日が来るって信じたいんだ。……でも、その時また、今回みたいな悲劇を繰り返さないように、誰かが僕たちの間に起こったことを覚えていなきゃいけない。語り継いで、伝えて、戒めにしていかなきゃいけないんだよ』

「……それを、わたしが……?」

『君なら、信じられる』

 そう答えてから、ね、と憐愍は胸の中の親友に語りかけた。

 厭忌もそれを望んでいるはずだった。自分たちのような存在を、もう二度と産み出さないでほしいと。言霊が人間を、人間が言霊を傷付けることのない、安らかな世界が生まれることを。

 この少女ならば信じられる。少女はあんなに純真で、心が優しくて、真っ直ぐな子なのだ。戒める人が誰もいなくても、きっと言葉を悪用したりなどせずに、言葉の力を大切にしていってくれるだろう。そんな自信が、憐愍にはあった。

「わたしにそんなこと、できるのかな……」

 涙を拭う少女は、哀れなほどに不安げだった。憐愍は、大丈夫、と囁いてから、──付け加えた。

『それに、僕は消えないよ。姿も意思もなくなってしまうけど、確かな意味を持つ言葉になって、君の中で生き続ける。だから、寂しがらないで。君は決して、独りじゃない』

 それを聞いた少女の表情は、少しだけ、和らいだ。こぼれた一滴の涙が、光を弱めてゆく憐愍の刹那の姿を映し出して、地面に消えていった。

 憐愍も表情を和らげた。自分を、そして少女を騙したという意識が、涙になって流れ落ちてゆく。


 この何週間かが、思い出された。

 少女と過ごした日々は、本当に楽しかった。人間を知らなかった憐愍と、周囲の世界を知らなかった少女は、互いに語り合うことがたくさんあった。与え合う刺激も、たくさんあった。

 厭忌にかけられてきたからかいの言葉も、今は懐かしく胸に染みた。憐愍の前では絶対に煩悶の姿を見せなかった厭忌の優しさが、今さらのように自覚された。

 厭忌だけではない。たくさんの仲間が、昔は憐愍にもいたものだった。人間を見棄てるよりも前、強硬な姿勢を取る前の『大いなる意志』は、どんな言霊ともおおらかに接する豪胆な“人物”だった。不満や不平は誰の胸にもあっただろう。でも、あの頃はまだ、それを隠して生きる余裕があったのかもしれない。

 だが、うねるように激動する運命の中へ、みんな、消えていく。

 残るのは少女だけだ。


 少女は本当は、憐愍といつまでもいることを望みたいのだろう。

 憐愍だってそうだ。できるならずっと、そうしていたかった。




「あ……もう消えちゃう……!」

 悲鳴のような少女の言葉に、憐愍は自分の身体を眺めた。ああ、どんどん光が薄れていく。もうほとんど暗闇と判別もつかない。

『お別れだね』

 憐愍は笑った。さっきの厭忌と同様、儚い笑みだったのだろうか。

「神様…………!」

『ずっと言いたかった。ありがとう。僕はね、君に出逢えて、すごく……すごく、嬉しかった』

「……っ……っ!」

 もうだいぶ前から、少女は泣き通しだ。

 憐愍は唐突に、心残りをひとつ思い出した。

──そうだ。結局、誰が誰に対して僕を生み出したのか、分からず終いだったな……。

 どだい、あれだけの人間の中から探し出すのは無理な話だったろう。あの口調だと厭忌は知っていたのかもしれないが、今となってはもう遅い。

 その願いも、ついでに少女に託しておこうか。

 憐愍は伸ばした手を見た。胸の前にあったはずの手が、先からゆっくりと光の粒に変わり、弾けて消えてゆく。腕が消え、足も消え、胴も消えていく。

 どうやら、少し遅かったらしい。




『さようなら。……言葉を、心を、大切にね』


 憐愍が最期に残せたのは、その言葉だけだった。










次回:第六話(最終回)は、本日(大晦日)午後五時に更新され、それをもって本作は完結する予定です。

どうかあと少し、お付き合いください。




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