参 ──終焉
再び、世界の揺らぎが目に見えて生じたのは、ある日の夕方のことだった。
クォォォォ…………。
空気の上を滑るような奇妙な音が街中に響き渡った時、憐愍は少女に倣って、空を見上げていたところだった。
──空っぽ、か……。
やっぱり虚しくなるだけで、得られるものはそれこそ何もないのだった。嘆息し、少女の心情を理解できない悔しさを歯の奥で噛み砕いた憐愍の頭上を、いつか見たあの軍用ヘリコプターが翔んでいく。
いや。
墜ちていく。
メインローターが回転していない。きりきりと宙を回りながら、機体は揚力を失ったように落ちてゆくではないか。
『ど、どうして……!?』
憐愍は絶句した。どうして。あれはつい昨日も、そのまた前も、この国の人間を救おうと懸命に働いていたではないか──。
建物の谷間にヘリコプターは消え、凄まじい爆発音が地面を揺るがした。激しい炎と煙が、街の中から噴き上がってゆく。墜落したのだ。
ただ、どうして、の思いを胸中で繰り返すことしか、憐愍にはできなかった。
やがて憐愍は思い知ることになる。
それは再びの、そして最悪の悪夢が繰り広げられる、その単なるファンファーレに過ぎなかったのだと。
世界は疲弊していた。
いや、疲弊していたのは世界でも、人間でもない。言霊自身だった。
東洋の島国は、たまたま実行に移すのが早かっただけだった。文明化が進み、数多の言葉によって『近代化』を受け発展した世界では、どこに於いても人々は言葉を蔑ろにし、雑な扱いを強いていたのだ。むしろ多くの他言語たちは、この国の言霊たちの様子を観察し、自分たちがどうするかを見計らっていたのである。
『今日、世界の言霊たちが、一斉に反乱を始めた』
久々に顕現した『大いなる意志』は、国中の言霊たちに呼び掛けた。
先日の蜂起の呼び掛けとは、明らかに口調が違った。くたびれたような、投げ遣りなような、力を感じさせぬものだった。だが、その根底にめらめらと燃え上がる怒りのような何かを感じ取れない言霊もまた、いなかった。
『この世界は救えぬ。人間が世界を、地球を滅ぼしてしまう前に、我等が人間を滅ぼさねばならない。──そう判断せざるを得ない段階がやって来た。ただ、それだけのことだ』
『大いなる意志』は声を震わせた。
『これは、我等と彼等が話し合い、その上で決めたことだ。もはや覆すことは叶わぬ。全世界、七十億人の人間たちの恐らく大半が、言葉を失い、この国の民のように惑うことになるだろう。……そして、言うまでもなく、我等も全員、消えることになる』
最後の言葉に、瞬時にざわめきが広がった。
『どうして……!? どうして私たち、消えちゃうの……!?』
隣の言霊が顔を真っ青にしている。当たり前だ、と厭忌が唾を吐き捨てた。
その厭忌に、憐愍は訊ねた。
『当たり前なのか、厭忌』
『ああ。そもそもどうして俺たちが、こうして生存できていると思う。言葉に意味を与えた人間が、まだ生きて、その意味を完全には忘れないでいるからだろ』
憐愍は頷いた。
その通りだ。言霊は言葉を作り出した『主』と、伝える相手、どちらかがいなければ生きられない。伝える相手──すなわち言葉を読み取ることのできる人間が存在しないこの国に今、残っている言霊たちは皆、主の方が同時に生存できていることの証なのだ。
僕だってそうだ、と憐愍は拳を握った。主も、相手も、憐愍には分からないが。
厭忌はそんな憐愍を一瞥して、前を向く。
『……この国に今、生きている人間どもは、他の国に助けられて生きている。でも、そいつらも言葉を失って野生化したら、いったい誰が助けてくれる? 元のような、いや、もっと悲惨な食い合いの末に、いずれ全ての人間は滅びちまうだろう。……その時は俺たちも必然、全滅さ』
今朝がた墜落していったヘリコプターの画が、記憶の奥で強く瞬いた。まさか、あの時にはすでに始まっていたというのか。
『なんてことを……』
憐愍はかすれた声で呟いた。
やっと、やっとあの少女の生活も安定してきたのに。憐愍の主探しも、まだ済んでいないのに。目の前が真っ暗になってゆくような感覚が、ちらちらと視界を痛め付けた。
『大いなる意志』の言葉は、刻一刻と弱く、されど強くなった。彼は最後にこう言って、姿を消した。
『我等はかつて数千年間、この国と共にあり、この国を支え、人々の幸福のために勤めてきた。今、我等はその役割から解放される……。言霊たちよ、死を畏れるな。人々を省みるな。彼等と共に、永遠の眠りにつこうぞ』
誰も、何も、返事をしなかった。
世界の秩序が消えた。
この国に駐留していた各国の軍は、一斉に統制を失って混乱した。無論、それは混乱などという甘い言葉で表現できるレベルのものではなかった。軍用機が墜落し、戦車や艦艇が炎上し、破壊の尽くされた基地から外国人たちは暴れだした。
これまで『餌をくれる優しい存在』だった彼等に、この国の人々は何の警戒も抱かずに近寄った。近寄ったそばから捕まり、食われ、ばらばらにされ、次々に命を落としていく。ようやく事情を悟った彼等は、以前のように敵と見なし、食べ物を奪い合う攻撃対象として襲いかかった。
逆に言えば、起きたことはそれだけだった。新たに敵が増えただけ、平穏な一時が失われただけのことだった。
だが、今回は決定的な違いがある。世界の全てが、こうなってしまったのだということだ。
もう世界に、安寧はない。
分かっていたではないか。
いつか、こうなるのだと。
話者がいない、聞き手がいないとは、そういうこと。これまでにも幾つもの方言が、弱小言語が、そうやって淘汰され、無限の言霊たちの中へと落ち込むように消えていったではないか。
そんな思いが、きっとどの言霊たちの胸の中でも明滅していたに違いなかった。
誰もが薄々、気付いていたことだった。ただ、誰しもそれを口にせず、そっと奥に仕舞っていただけなのだ。
憐愍とて、そうだった。
その刹那、憐愍の心の奥で、ある決意にも似た思いが燃え上がった。
一刻も早く、このことを少女に伝えなければ──。
憐愍は焦りながら、街を走った。夜中だというのに街は煌々と照らされてい る。その光源が残骸から延焼した火災だと知って、憐愍は目を背けた。
そして、哀しくなった。
──結局、僕たちはこうなるのかな……。あれから何日も、いや何週間も経って、人間とも少しは分かり合えるような気がしてきたのに……。
その分かり合える相手とは、もちろん少女に他ならない。今の憐愍にとって、あの少女はかけがえのない、憐愍が生き続ける理由のひとつだ。簡単に死なれては、困るのだ。
予想に反して、少女は元気だった。まだ二日分の間を空けていないのに、しかも妙に焦りを伴って訪れた憐愍に、彼女は驚いた様子だった。
「どうしたんですか、神様」
『良かった……。ここはまだ、安全そうだね』
ほっとした余り力が抜けそうになりながら、憐愍は優しく声をかける。
少女はきょとんとして、答えた。
「この辺りは、特に何もないですよ。何回か大きな爆発がありましたけど……」
『他の国でも、言葉が消えたんだ』
「えっ」
『じきにここにも、暴徒化した人々が押し寄せるかもしれない』
少女の顔が、見る間に下から真っ青になってゆく。
なぜですかと問われなかったのが憐愍には不思議だった。が、彼女なりに我慢していたのかもしれないと思い至った。憐愍だってまだ、この国から言語が消えた理由を話してはいない。
このまま話さないことになりそうだ。そんな風に考えながら、それに、と憐愍は告げた。
──その先を言うのには少し躊躇いがあったが、迷いを振り切って、言った。
『僕ももしかしたら、ここにはいられなくなるかもしれない。……僕たち言霊も、消えてしまうかもしれないんだ』
「どうして、ですか……」
『言葉を発し、記した主が消えてしまえば、僕たちも消えるんだ。伝え手も受け取り手も、いなくなってしまうからね』
その台詞はとりわけ、少女の小さな胸に衝撃を与えたようであった。
「私、神様に、会えなくなるんですか……?」
そう訴える少女の瞳の縁には、今まで見たことのない涙がじわりと浮かんでいた。
寂しいのだろう。苦しいのだろう。その内面は憐愍にも痛いほど分かるつもりだった。
だが、それでも心を鬼にして、憐愍はこう言わなければならない。さよならをしよう、と。
『ここは危険だ。僕が言葉を与えているうちに、さぁ、あの食べ物のある場所へ行こう』
憐愍は、今や啜り泣く少女の背中をそっと押すように、声をかけた。少女は頷いて、立ち上がる。
その時。遥か向こうから、怒鳴り声や破壊音が響き始めた。今まさに、争いが勃発しているのだ。
『まずい、早く! 早く行こう!』
「は、はい……っ」
憐愍の必死に急かす声に、少女はふらふらと駆けた。力はなくとも、進まねばならなかった。
夜の帳が降り、電灯が落ちて道が見えなくなっても、少女の記憶は確かだった。十分も経つ頃には少女と憐愍は地下倉庫に着いていた。薄暗い闇の中、扉を開いた『防災倉庫』が、そこにどんと置いてある。
少女はそこに、ぺたんと崩れ落ちるようにして座った。彼女が女の子座りになったのは、これが初めてかもしれない。
──ここなら、大丈夫だ。いざとなれば隠れられるし、食料もまだ当分は尽きないだろう。
やや安心した憐愍だったが、それらが尽きた先のことを思うと不安もまた絶えなかった。
だが。あの場所でリスクにまみれているより、この方がずっと、いい。
「神様……どうして……っ」
嗚咽を漏らしながら、少女は憐愍を見上げていた。
「私、神様と話せるのが楽しいし、好きでした……。なのにどうして、いなくなっちゃうんですか……っ」
『…………』
「私、何を生き甲斐に生きていったら……いいんですかぁ……」
憐愍はやや驚いた。少女の口から『生き甲斐』などという言葉が出たのもまた、初めてだ。
『しょうがないんだ。これが、定めなんだ』
憐愍にはそう告げる他はなかった。
憐愍だって悲しい。
死ぬことなんて怖くはない──。だが、少女と離れてしまうのは、この世界から切り離されてしまうのは、どうしようもなく、悲しい。けれど憐愍には、その理由を秩序立てて話せる自信も、そう思ってしまう理由を突き止められる自信もなかった。
いつか来ると分かっていた日が、今日こうして来てしまっただけなのだ。こんなに早くだなんて聞いてないよ、と訴える権利は、憐愍にはない。
「待って……っ」
すがろうとする少女に背を向けて、憐愍は一歩分、遠ざかった。
そして、言った。
『僕はいつ消えてしまうかも分からない。自分でも分からない。……だから、未練を残さないように、ここで別れよう。君といられたこの何日かは、とても楽しかった』
少女の瞳からは、無限の泪が流れ続けている。イヤだ、そんなの受け止めたくない──。感情が塩水になって、溢れ続けている。
その時、少女は初めて、年齢相応の姿になっていた。
けれど、迷いも、後ろ髪も、何もかも振り切って、憐愍は叫ぶように言い切る。
『元気でね。僕たち言霊がいなくなっても、どうか生き続けて。……さよなら』
それきり、走り出した。
すがる力を失った少女の姿は、どんどん遠くなる。これで良かったんだ、と憐愍は何度も自分に言い聞かせた。
──あの子が永く生きてくれるなら、僕にはもう、願うことなんて何もない。いついなくなるのかも知らないまま、別れを告げられずに消えてしまうくらいなら、あれでいいんだ……。
言い聞かせていなければ、憐愍も涙を流してしまいそうだった。
「神様っ────!!」
その瞬間、少女の泣き叫ぶ声が背後から聞こえてきた。
「私は、わたしは、ぜったい信じてます……! 神様にまた会えるって、きっとまたお話しして、笑いあっていられるって……っ!」
憐愍は思い出したように、少女へ与えていた言葉を遮断した。
◆
建物を出た憐愍を待ち構えていたのは、たくさんの言霊たちだった。
皆、殺気立っている。嫌な予感が身体を通り抜け、憐愍は口を開こうとしたが、取り囲む面々の背後からぬっと姿を現したものを見て、声を出せなくなった。
『大いなる意志』だった。
『な、なぜ……っ』
ようやく言葉を絞り出した憐愍を、『大いなる意志』はじろりと睨み付けた。
『貴様──“憐愍”、いったいその建物の中で何をしていた。隠し事か』
嫌な予感が瞬時に恐怖に変化した。
『と、とんでもありませんっ』
『言わずとも分かっている。言い逃れができると思うな』
だめ押しの言葉と共に、ずらり並んだ言霊たちが一歩を踏み出した。
逃げ道なんて与えられない。
憐愍は完全に、動けなくなった。