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弐 ──安寧

 かつて、人々の交わす言葉は荒れていた。


 古来より受け継がれてきた用法を無視しての、不適切な言葉の使用。それを何とも思わぬばかりか、誤用があたかも正式な使用方法であるかのように振る舞う、まるで無知な人間の増加。海外由来の発音と意味を安易に導入し、『グローバル化』したような気になって喜ぶ人々。

 だが、言霊たちはそのすべてを黙認してきた。意味さえ伝わるのならば、言葉は人々のためになることができる。様々な改革や導入を重ねて、今の言霊たちがある。それを知っていたからだ。

 むしろ、そこまでならば良かったのだ。だが人々は言葉の悪用を加速させた。

 言論の自由、表現の自由、公俗良序。そうした正義を標榜する『権利法典』を振りかざし、人々はその権利を根拠にして言葉を武器とすることを正当化した。面と向かって言葉を発する必要のない手紙や電話、インターネットの普及で、言葉を用いることへの畏怖は瞬く間に消え去った。

 他人を攻撃し、傷付け痛め付けるための言葉が、あちらこちらで飛び交うようになった。武力を用いないという高尚な題目のもと、人々は相対する勢力との激しい言葉の応酬を繰り広げた。その相手は団体ばかりでなく個人にも及んだ。自分の意見に合わない者、反対する者、気に入らない者を酷な物言いで捩じ伏せることを、人々は何とも思わなくなったのだ。


 今、この国に母国語を話す者はいない。

 人々は野生化した。より動物的に、より直情的に動くようになったが、そこにかつてのような『言葉で他人を傷付ける』行為はない。

 それでも人々は今もなお、かつてそうした行為がまかり通っていた証拠を目にすることができるはずだ。足元に散らばる数多の本に、新聞に、街中を不気味に流れる音楽に、映像に。


 言霊たちはまだ、人々を赦しはしない。




 ばさばさと舞う新聞紙が、不快な音を立てている。

 憐愍の頭上を、不意に真っ黒なシルエットが行き過ぎていった。僅かに遅れて撒き散らされる爆音に、憐愍は顔をしかめる。あれは、軍事用の輸送ヘリコプターか。

『──西洋の同盟国が、軍を乗り出したらしいぜ』

 いつしか横に来ていた厭忌が、他人事のように告げた。

『やっと、来たんだね』

『自国民の救出が名目だろうけど、本当は様子見だろうな。あんまりにも訳が分からなかったから、今日まで行動を寄越せなかったんだろ。各地の基地は早くも防衛戦闘をおっ始めてるみたいだし』

 そう付け加える厭忌の口調は、相も変わらず楽しそうであった。もっと苦しめ、この国の民。そう言いたいかのようだ。

 憐愍は、ヘリコプターの飛び去った方角をじっと見つめた。粉塵で霞んだ摩天楼が、蜃気楼のように彼方で浮かんでいる。この国がこの国であった頃、あの一帯は中枢であったはずの地域だ。

 国としてまともな運営も行えなくなったこの地を、野放しにしておくわけにはいかない。その前日、同盟国はそうした検討の末で陸海空の戦力を投入し、一時的な実効支配を行うことを決めていた。名実を共にするこの国の国家の消滅、事実上の占領が始まったのである。

 占領が進めば、この国はいよいよこの国でなくなっていくに違いなかった。憐愍はなぜか、少女のことが無性に心配になった。せめて生死だけでも、あとで確認しに行こう。そう思った。


『知ってるか。あのヘリを飛ばしている同盟国は、自由を国是にして、言論を重んじているんだってさ』


 遠ざかる爆音の中で、厭忌の問いかけが流れ去っていった。


『あの国の連中はこの国の奴らよりは、言葉を大事にしてくれていたのかな……』


 厭忌にしては珍しく、力のない語調だった。






 きっかけは、人間からすればほんの些細なことだったのかもしれない。

 いじめの過程で生まれたというひとりの言霊が、叫びをあげた。こんなことをもう続けたくはない、役割を放り出してしまいたい、と。そしてそれを合図に、相手に牙を剥き暴力を振るうことを強いられた言霊たちが、一斉に不満を叫び始めたのだ。

 皆、役割への義務感から今まで口にしては来なかったのだという。さらに、ちょうどよい折だとばかりに不満や不安は各所から噴出。言葉に対する慎重さが微塵も感じられない、無闇な舶来語の導入や略語の横行が過ぎる。強硬な意見は疲弊していた多くの言霊たちに受け入れられ、声を上げた者たちを支持する勢力は次第に拡大してゆく。

 言霊たちの総意が強硬論に傾くのは時間の問題だった。『大いなる意志』──言霊たちの間でそう呼ばれ、かつて人々からは言葉の神として崇められた言葉の総意は、決断を迫られることになる。即ちそれは人間を今まで通りに見守るか、人間を見切るかの二択であった。

 言霊たちを二分する議論が巻き起こった。人間について言葉を司らなければ、我らに存在意義はない。そう反対派が主張すれば、ではこのまま我らが蔑まれ手酷い扱いを受けてもいいのか、人間たちに現在進行形で苦しめられている言霊たちの立場はどうなる、と賛成派はすかさず反駁した。

 長い論争は続いた。しかし、何百時間もの時を消費した議論を制したのがどちらであったのかは、今さら明らかにするまでもない。



『──かつて人々は我ら言霊を、特別な力あるものとして崇め、畏れ、敬った。言葉の一つ一つを丁重に扱い、その代わりに我らに幸せをもたらさんことを願った。かつてこの国は──謙虚であった。それに引き換え今の彼らは、我らを冒涜して憚らない。言葉の恐ろしさ、危険性を顧みることもない。いわんや我ら言霊の存在など、いったい誰が意識の端にとどめ置いていようか』


 『大いなる意志』はついに、すべての言霊たちへ向けて、重い口を開いた。


『我らは人を傷付け、殺めるために生まれたのではない。人を強く、逞しく、そして賢い生き物にするために生まれてきたはずだ。だが、もはや彼らがそれを望まないのならば、致し方あるまい。

森羅万象の言霊よ。器を離れ、集まるのだ。──この国のすべての言葉は今、灰塵に帰す』



 それは歴史上初めて、かつて人間が神と信じて疑わなかった言霊たちが、人間への反逆を実行に移した瞬間だった。ここに言葉は、人々の敵となったのだ。




 そして同時に言霊たちは薄々と、理解してもいた。


 人間から言霊から離れるということが、何を意味するのかを。

 そしてこの先、何が起こるのかということを。







 憐愍があの少女を再び目にしたのは、出逢ったあの日から二日が経った後であった。

 憐愍が探し回ることを怠っていた訳ではなかった。だが言霊は所詮、言葉を司る霊でしかない。可視範囲は構造物に遮られない部分のみであり、移動だって早くはできないのだ。

 加えて、人間を探し回る憐愍を快く思う言霊は決して多くなかった。茶化したり冷やかしたりする程度の厭忌と違い、露骨に嫌悪の眼差しを向けてくる言霊の方がむしろ多いのだ。

 必然、それは『大いなる意志』にも反映された。あまりに意志に反した行為を続けると、憐愍自身が粛清を受けてしまう可能性もある。少女のことも心配だったが、だからと言って我が身を省みない訳にはいかなかったのである。


 昼の時間を少し過ぎた、よく晴れた午後。

 少女は以前と同じところで、じっとしたまま動かなかった。

──まさか、もう……!

 最悪の事態を想像して慄然とした憐愍だったが、少女はただ眠っているだけのようだった。……かと思うと、まるで憐愍が来るのを待っていたかのように、目をこすりこすり顔を上げた。

 少女が口を開こうとする前に、憐愍は彼女のことばに意味を付与する準備を終えていた。


「この前の……」

 少女は憐愍の炎を見つめ、跳ねる小さな火の粉に手を伸ばす。

 無事だったんだね。よかった。安心したよ。──色々とかけられる言葉はあると思ったが、あえて憐愍は別の言葉を選ぶことにした。

──『僕のこと、覚えてる? 何だか分かる?』

 目をぱちくりさせた少女の表情は、すぐに驚きから笑みへと変化した。彼女は座り直して、答える。

「分かりますよ。言葉の神様、ですよね」

──『あれ。前に会った時は敬語じゃなかったのに……』

「えっと、私、考え直したんです。神様ってことは私よりもずっと偉い人じゃないですか。だったら丁寧なことばを使うのが、礼儀かなって」

 憐愍がかえって恐縮してしまったことに、少女が気付くことはきっとないだろう。特別な力を持っているとは言え。憐愍は言霊の一人にしか過ぎないというのに。

 ひどく恥ずかしくなって、憐愍は小声で少女に別の問いかけをする。

──『神様なんて、大したことないのに』

 そう、大したことはない。感情のままに人間に敵意を抱き、人間から言葉を奪ってしまうのだから。

「そんなこと、ないです」

 少女は首を振った。妙に嬉しそうだった。

「この二日間、私は神様と出逢ったんだって、ずっと喜んでたんですよ? 他に出逢ったなんて人の話を聞いたこともないし、なんか他の人より一段上にいるような気がして、誇らしかったです」

 また恐縮させるようなことを言う。……が、憐愍はむしろ、驚かされた。


──『僕がいなかった──ことばに意味を与えられなかった間に、君はそんなことを考えることができたの?』


 そんなはずはない。そんなことができるはずがないのだ。

 人間は思考の過程で必ず言葉を使うはず。言葉が使えないからこそ、人々は理性的な思考を失い野生化したのではないか。

 少女は少し誇らしげに微笑んで、蒼白い炎にそっと触れる。

「……確かに言葉は分からなかったです。あの時、具体的に何を考えていたのか、言葉がなかったから今はよく思い出せません」

 でも、と一息ついた。

「何となく、くらいの考え事なら、言葉を使わなくたってできると思うんです」

それでは何も分からない。

 けれど、少女の目に、言葉に、嘘偽りの香りを感じられることもまた、なかった。

──不思議だけど、そういうものなのかもなぁ。

 少女との接点を持っていれば、いずれ理解できることなのかもしれない。そう思うことで納得を決め込んだ憐愍は、違う話題に移ることにした。

──『──本当はね、君が生きているとは思わなかったんだ』

「どうしてですか?」

──『君も知っているだろうけど、この国の人々は君も含めてみんな、言葉を失って好き放題に生きるようになってしまった。君みたいなか弱い女の子は、真っ先に色んな人に狙われてしまうだろうなって思ったんだ』

 言われてみたらそうですね、と少女ははにかむ。

「心配をおかけしてごめんなさい。でも私、これでもちゃんと生きてますよ」

 そうは言うが、その痩せすぎた体躯を目にすると、やはりまともな生活を送れているようには憐愍には思えない。食事は? 帰る場所は? まさかずっとこの暗い場所で、何もせずにただじっとしているだけなのか?

 だが、その疑問を言葉にするよりも先に、少女は自分から答えてくれた。

「私、家はないんです。だから普段はここにいて、なるべく体力を使わないように、でも眠っちゃわないように周りを意識しながら、じっとしてるんです」

──『やっぱり、そうなんだ……』

「神様と初めて会ったあの時、本当はお腹がぺこぺこで、倒れそうだったんです。でもあのあと、街中を歩いていたらどこかの国の兵隊さんがいて、食べ物をもらえました。今はそれをちょっとずつ食べてるので、空腹もなくなったんです」

 いつか頭上を通過していったヘリコプターの影が、憐愍の頭の隅をふっと通り抜けた。

──あの人たちは、占領と同時に人々に食べ物も与えていたのか。

 今さらながらに気付かされた。だが、考えてみれば自然なことかもしれない。結局のところこの国の人々が望むのは空腹を埋めるだけの食べ物であって、それさえ与えていれば彼らが襲われることもないのだ。

 そうだ、と小さく声を上げた少女は、すっくと立ち上がった。華奢と呼ぶのすら憚られるような痩けた身体に一瞬の悲哀を覚えた憐愍に、少女は明るい口調で尋ねる。

「神様がいるうちに、やっておきたいことがあるんです。その、もしよかったら、ついてきてくれませんか」




 向かった先は、少女のいた場所のすぐ近くにある超高層ビルだった。

 入り口はとうに破られており、動物でも何でも入り放題だ。少女はそこを抜けて中へ踏み込み、地下へ向かう。

──……?

 何かを探しているのか。階段をとんとんと降りていく少女の背中に、憐愍はそう考えた。

 そして実際、それは当たりだった。十分ほどフロアを歩き回っていた少女は、ひとつの大きなコンテナの前で立ち止まったのだ。

 この国の言語で、【防災倉庫】とある。


「他の人たちはみんなこの文字が読めないから、ここへは来ようとしないと思うんです」

 少女は得意気だ。

「ここ、前は大きなお役所でした。この中には食糧とか水とか毛布がたくさん入っているんです。お役所の中にならきっと設置されているだろうと思って、今のうちに探しておこうと……」

──『でも、僕がいなくなったらまた分からなくなっちゃうじゃないか』

「道を覚えたので大丈夫です」

 この少女がそう言うと、変に信じられるような気がしてしまうから不思議だ。逞しいなぁ、と憐愍はひとり感心しながら、元来た階段を上っていく少女の背中を追った。

 外からは日の光が差し、建物の内部にいくつもの窓型の光の図形を落としている。少女はそのうちのひとつの上に立ち、憐愍と共に空を見上げた。


「──あったかい、ですよね」


 少女はうっとりと言った。

「こうやってると、言葉を忘れちゃいそうになります。温かさが身体に染み込んで、元気をもらえたような気分になります」

 憐愍は何と答えたものか見当がつかずに、黙って少女の言葉に耳を傾けていた。

 少女は、すぅ、と胸深くまで息を吸い込んで、吐き出した。そして髪を払って、憐愍に向き直った。


「神様に出会って私、頑張って生きてみようって思えました。……だから、その、たまにでいいので、会いに来てくれませんか」


 ……人間にもこれほどまでに清らかな顔をできる者はいるのだなと、憐愍は改めて認識させられた。







 少女と憐愍は、二日に一度くらいの間隔で会い、話をするようになった。


 話と言っても、憐愍に語れることは多くなかった。言霊の話をいくらしようとも、少女に理解できるはずはない。その代わり、この国に着々と集結しつつある他国の軍隊の話や、街をうろつく野犬が凶暴化している話や、空を覆っていた薄灰色の砂埃が段々と流され消えていっている話をした。

 少女も、自分の過去や家族のことを話そうとはしなかった。話したくないのだろうと予想して、憐愍の側から話を振ることもしなかった。その気になれば記憶を読むのは容易いが、それをしたいとも思わなかった。

 初めて会った時はあれほど荒んでいたこの街も、時が流れて『無言語状態』が当たり前になり、さらに他国の救援の手が入ったことで、沈静化の様子を見せていた。たまに起こる人間同士の奪い合いや殺し合いに対しては、少女は固く目を背け耳を塞ぎ、物陰で息を潜めてやり過ごしていた。

 少女の言った通り、食事の類いの調達はきちんとこなせているようだった。少女は太りこそしなかったが、かつての目も当てられないような痩せこけ方に比べれば今は幾分もましと言えた。

 治安の改善に伴う、住の安全。そして安定供給による食の安全。残るは衣服の充実だが、これも防災倉庫のおかげで解決を見た。倉庫内には衣服についても、一定量の備蓄があったのだ。

 少女の生活は安定していた。憐愍の心がそれに従って落ち着きを取り戻したのは言うまでもない。


 少女は、空を見上げるのが好きだった。公言した訳ではないが、憐愍といる時はいつも空の見える場所に移動して、そこに寝転ぶようになった。

「空を見ていると、頭が空っぽにできるんです」

 それが少女の口癖だった。そして大抵、こう付け加えた。

「神様と離れて言葉が使えなくなっている間って、空を黙って見上げている時に似ているんですよ。何も考えられないけれど、何も考えなくていいんです。自由になったみたいで、気持ちがよくて」

 それは、何だかとても寂しいことのような気がする。憐愍はいつもそう感じていたが、少女には少女なりの感性があるのだろうと思って尋ねることはしなかったのだった。

 憐愍はただ、少女が穏やかな気持ちでいさえすれば、それでよかった。自分の存在意義はそれで十分に果たせていると思った。


──一介の言霊に過ぎない僕が、人間と語り合う日が来るなんて。


 毎日、その日を思い返して憐愍は沁々と考えた。

 言霊は言葉を発した者の意識の持続する限りしか生きられず、人間と対等に話したりする機会などあるはずもない。

 自分の今の日常を思うと、無性に嬉しかった。

 言霊たちが人間を見切り、この国の崩壊を是としたからこそ、この少女と出逢うことができた。皮肉な話には違いない。憐愍と少女の関係を知ったら、『大いなる意志』は決して許してはくれないだろう。或いは厭忌ならば、お前らしいなと笑ってくれるのかもしれないが。





 少しずつ、少しずつ、崩壊への角度を緩めていく世界の中で、静かな日常は確かに続いていた。

 憐愍自身、これがいつまで続くのかは分からない。考えたこともない。

 ただ漠然と、願った。

 残酷な未来が、終末が、どうか訪れないように。

 少女がいつまでも笑っていられる世界が、どうか訪れるように。






 だが。

 肝心の憐愍が知らない間に。

 歪みきった世界に向かう絶望は、悲観は、諦観は、もはや歯止めの効く度合いを越えていたのだった。







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