壱 ──廃都
この物語は、フィクションです。
その時、彼らの世界は僅かに静止し、揺らいだ。
そして微かな震動を伴って、ゆっくりと崩壊を始めた。
インフラが暴走した。電気の電圧はめったやたらに乱高下し、ガスが止まり、水の供給は急激に増加した。あちらこちらで水道管が破裂を起こし、街は水浸しになった。原子力発電所からはたちまち放射線が漏れだした。もっとも、目をおおいたくなるような大災害に、気を払う人などいなかったが。
交通が停止した。方々で列車や車が衝突し、地上交通は麻痺した。航空機は空港を離陸できなくなり、船舶は港の中で大混乱に陥った。人類の移動能力は、ほんの一瞬で縄文時代のそれまで低下した。
情報が消えた。企業の入居する巨大なインテリジェントビルは、たちまち単なる太い鋼鉄の柱と化した。出版物が瞬時に紙切れへと変わり、あらゆる報道が、芸術活動が、取引が、無意味なものへと転落していった。
光を落とした数多の街を、村を、人々は徘徊した。人々は個々の思考能力も会話能力も失っていた。そのさまは、もはや野生動物の動きと何ら変わらない、生存本能にのみ定義付けられた酷く醜いものだった。食物を奪い合い、安住の場所を奪い合い、そこらじゅうで戦いが始まった。
街は屍体に溢れ、凄まじい腐臭と灰塵が大気を汚していった。
その日。
東洋に浮かぶ木っ端のような島国から、その国の言語が消滅した。
◆
──これが、ことばを失った『人間』の末路か……。
暗い道を静かに進みながら、“それ”は思った。
戦いにおいても戦略性を失った人々は、互いに噛み合い、殴り合っての戦闘を各地で繰り広げた。無惨な緋色にまみれた敗者の屍体が、路上に散らばっていた。
電気がショートしたらしく、あちらこちらで火災が発生している。じきにこの街も、火に包まれるだろう。
ことばが消えてからたったの二日。原因の分からない現象に海外も援助を渋る中、この国は着実に、完全な滅亡への道を邁進している。
──ここにはもう、まともなニンゲンは残っていないんだろうな。
かぶりを振った……否、そのような仕草をした気分になった“それ”は、浅い溜め息をそっと残して後ろを向いた。
かつてこの国で用いられていた記号の書かれた看板が、激しい音を跳ね上げて背後に落下した。そこに書かれたことの意味を知る者はもう、どこにもいない。
この国からなくなったのは、文字ではない。
文字ならば今でも至るところに見ることができる。しかし人々は確かに、言語を失った。
なぜなら、本当に消えたのは文字ではなく、そこに意味を与える言霊だったからだ。
この国の言語のあらゆる言葉には、意思ある生物と同様に文字があり、言霊があった。意味を与えるのは言霊の囁きであり、文字は言霊の在処を示すものに他ならなかった。
だが今は、すべての文字から言霊が抜け出し、それぞれの文字には意味がなくなってしまったのだ。
人々は文字を見られなくなったのではなく、その意味を読み取れなくなった。結果、母国語を介して行われる思考は強制的に停止し、己を導く外部の言葉もすべて無くなり、すべての人々は無言語状態に転落したのだ。
なぜ、ことばが失われたのか。
その訳を知る人は、この国にはいない。
当の言霊たちを除いては。
“それ”は、蒼白い炎をまとった人のような姿をしていた。ぺかぺかと燃え盛り、時には火の粉を道に落としながら、彼は彼なりに肩を落として進んでいた。
そこへ、すうっと滑るように寄ってきた者があった。同じような姿をした、別の“それ”であった。
『よう、【憐愍】。相変わらず元気がねえな』
彼は挨拶を寄越す。憐愍と呼ばれた“それ”は、ああ、と適当に生返事を口にしたのみだった。
気に障った様子もなく、彼は楽しそうに話し続ける。
『聞いたところじゃ、山奥の馬鹿でかいダムで水の調整ができなくなって、派手に決壊したらしいぜ。じきにここにも大波が来る。さすがは偉大なる人類様だな、自滅の手段を最初から用意してやがるなんて』
『……皮肉はやめなよ、【厭忌】』
憐愍はようやく素直に言葉を絞り出せた。分かってるよ、と厭忌は軽くいなした。
『お前が奴等を庇うのは知ってるよ。けど、お前も分かってるだろ。お前みたいにニンゲンの肩を持つ奴は、少数派だ』
今度は憐愍も、口を挟みはしなかった。
ふたりは共に、言霊だ。
人の発する音声や記号のそれぞれのもとに言霊は一つずつ生まれ、寄り添い、適切な意味を与える。相手は言霊の囁く『意味』を受け取ることで、発せられた言葉を理解したことになる。この国の言語は古来より、そういう構造のもとに成り立っていた。
憐愍はあわれみの言葉に、厭忌はうらみやいかりの言葉に、それぞれ意味を持たせる役割を担っていた。──だからと言って、二人が名前の通りの性格をしている訳ではないが。
『いい加減、諦めろよ。俺達が離叛したからには、この国はもはやお仕舞いだ』
厭忌は優しく吐き捨てて、憐愍のそばをそっとすり抜けた。
憐愍は知らない。厭忌がそもそも何の言葉に意味を持たせるために生まれ、ここにいるのかということを。
誰かの残した言葉が相手の心のうちに残り続ける限り、意味を与える存在である言霊はいつまでも生き続ける。長く伝えられ、重みが増してゆくほど、言霊の力は強大になる。
誰かを癒すための言葉ならば、言霊は相手に常に寄り添い、そっとその心を温めようとするだろう。傷付ける言葉ならば言霊は鉈を持ち、相手の心に切りつけるだろう。憐愍は誰かを癒すために、厭忌は誰かを傷付けるために、何者かによってこの世に産み出された。はずなのだ。
今日まで生き残っている言霊たちというのは、言葉の主や受け取った人が、まだその言葉をはっきりと覚えている事の証なのである。
──まぁ、他人事と言ってしまえば……それまでなんだけどね。
嘆息した憐愍の向こうで、地がびりびりと震動するかのような音を轟かせ、建設中の建物が崩れ落ちていった。
◆
……かつてこの国は、言葉に支配された国だった。
はじめはただの音節だった『こえ』は、やがて各々が自立した意味を持つものになった。身の回りのものや気持ちを表すやり方として、言葉となった『こえ』は重宝され、そしてその力ゆえに畏れられた。
だが、時代は代わった。この国は偉大だった隣国から文字を輸入し、それまで用いていた話し言葉の入れ物とした。こうして自在な『交換』『保存』が可能となった言葉は、やがて国を動かす力として重用されるようになった。
物語は書き起こされ、文章へと変容した。あらゆる事物が書き表され、文章になり、書物になった。印刷技術の普及で書物は大量生産され、庶民に行き渡るようになった。
言葉を自由に使える能力は、もはや一部の上級者層だけの特権ではなくなった。あらゆる人々が自らの思いを口にし、書き、誰かに伝えられる時代が来たのだ。
言葉の進化と時代の進歩は共にある。考え方の違うもの、同じことばを共有しないもの同士は、何度も過酷な戦いを強いられた。幾多の血が流され、傷付いた人々は考えた。
言葉を交わし、互いを理解しあって戦いを無くすことはできないかと。
しかしそれでは戦いは無くならなかった。さらに数多の血が流され、人々は今度はこう考えた。
では、言葉を武器にするのだ、と。
◆
滅びへと転落してゆく街並みに、生きる人影は少ない。この二日間でどれほどの人間が命を落としたのだろうか。
たまに通りかかる人があると、憐愍はその人の心の中をちらりと覗いた。人の心に作用する言霊にとって、それは特に難しい業ではなかった。
だが、たいてい憐愍は力なく溜め息だけを漏らし、そっとその人から離れるのだった。
──駄目だ、この人も。どうしようもない野生の欲しか感じられない。
誰も彼もがそうだった。思考を失い、生理的な欲求や本能によってしか身体を動かせない彼らからは、かつてこの世界をリードする知的な民族であった面影など、微塵も感じることはできない。
それでも、と憐愍は歩き続けてきた。どこかに一人くらいはまだ、理性を保っている人がいてくれるような気がして。いや、今となってはそれももう、限りなく淡い期待に近いものとなってしまったが。
──「大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫なんだから……」
憐愍は歩きながら、いつか聞いた言葉をはっきりと思い出していた。
それは、いつか憐愍が産み出された時に発せられた言葉だった。憐愍が覚えているのはただそれだけで、それを誰が口にしたのか、どういう状況で誰に向かって口にしたのか、そういうことは何一つ記憶には残っていないのだった。
──いつか、いつかきっとその人を探し出して、相手に僕の『ことば』を届けてあげるんだ。僕はそう誓ったじゃないか。
アスファルトの小石を蹴飛ばしながら、昔つぶやいたことを反芻する。同時に、どうしようもなく不安になる。一億もの中から一人を見つけられるはずがない、見つかったとしてもその頃には、その人はもう死んでいるのではないか、そんな不安が穂首をもたげてくる。
廃墟のような仄暗い摩天楼を見上げ、憐愍は情けなくなった。
──僕が『憐愍』でなかったなら、こんな風に思うこともなかったのか。
そう、言った。
不意にその時、何かに引き寄せられる感覚が身体を走り抜けた──ような気がした。
予感と呼び換えてもいいものだった。野生動物と化した人間たちと、古代文明の遺跡のように佇む都市の中に、探しているものの感覚があったのだ。
無論、そこに確固たる根拠は存在しない。
──でも一応、探してみよう。
思い直した憐愍は、闇に閉ざされた空間を睨む。高いビルの一階部分、何重にも建造物が跨いだ下をくぐる道路が、不気味に点滅する照明に照らされた奥へと続いていた。
穢い身なりの人の死骸が、生活の跡が、無数に転がっていた。
ここは大都会の中心街だったはず。だが、かつてこの場所は、宿無しの浮浪者の溜まり場と化していたのだろう。
ここに期待するのは、やはり間違いだったらしい。まだ残る予感に後ろ髪を引かれながらも、そこを出ていこうとしていた憐愍は、……ふと進みを止めた。
違う。一人だけ、生きている。微かではあるが心の拍動が一人分、空気を伝わってきている。
──誰の……。
探そうとした憐愍の目の前で、屍体とばかり思っていたものが、ぴくりと動いた。
傍目には十五歳くらいであっただろうか。それは、大人にも子供にもなりきれぬ少女であった。
「あ…………」
それが身体を動かす合図であるかのように、少女は呻いた。まだ意識があるらしい。
憐愍はしばらく、周囲の有り様と少女とを見比べた。よくもこの環境で今日まで生きていられたものだ。探している人とは違うかもしれないが、少しばかり心を覗いていっても構わないだろう。そう思った。
失礼します、と小声で呟く。そうして、そっと心の壁をすり抜けようと、憐愍が少女の胸に近づいたときだった。
少女が、目を開いた。
はっきりとその両の瞳で、憐愍を捉えた。
──えっ?
少女は確かに、憐愍を見ていた。見えていた、という方が適切かも知れなかった。
霊魂の一種である言霊が人間に見えるはずはないのだ。意図的に姿を表すことはできるが、憐愍にそんなつもりは一切ない。
少女はその上、憐愍に向かってそっと微笑んだ。
──思考が、できている……?
そんなはずはないと思いながらも、憐愍はそう確信せざるを得なかった。心を覗くのが、急に怖くなった。
すると少女は、ふっと瞬時に意識を失ったように、背後の壁にぐったりともたれかかった。
──ま、待って! 死なないで!
憐愍は慌てた。こうなったら、いちいち中身を覗いて心を探る暇はない。一時的にでも意味を与えて、言葉を使えるようにしてから話しかける方が、ずっと早いだろう。
言霊は意味を与える存在だ。だから、その全体集合はすべての言葉の意味を知っているし、それを自在に与えることもできる。そこから言葉を使わせるようにするなど本来やってはならないことだったが、少しだからと言い訳をした憐愍は、実行に移した。
少女の頭に、心に、そっと仄かな炎が灯ったのが感じられる。
あれ。
私、ことばが分かる。
さっきまでは何も分からなかったのに。
言葉で回り始めた少女の思考に、憐愍は潜り込んだ。ああ、今は分かる。奥深くへと仕舞い込まれていた記憶が、ふたたび少女の心の表層へと現れてきているのだ。
少女に何も言わせぬまま、記憶だけを読み取ることもできる。でも憐愍は敢えて、心のうちへ囁いた。普段、言霊が人間に言葉の意味を語りかけるように。
──『僕が、見える?』
少女は身体を起こし、驚いた様子もなく憐愍の蒼白い炎を見つめ返す。
「……うん」
良かった、言葉を口にできるようになっている。
──『怖くないの?』
なぜ見えるのかと問うより先に、そんな疑問が口をついた。少女は少し首をかしげて、瞳を僅かに閉じた。
「悪いことをしにきたのでは、なさそうに感じたから」
──『僕が誰かも知らないのに?』
「知らないけど、雰囲気で分かるの。怖い人なら雰囲気も怖いの」
雰囲気。憐愍は知っているような知らないようなその単語を、何度か呟いてみる。
ことばの意味を司る言霊に、雰囲気を読むという所作の機会などあろうはずもないのだ。その行為がどういうものか憐愍には分からなかったが、そういうものかと一先ず納得することにした。
少女は首の角度をさらに斜めにして、尋ねた。
「あなたは何? わたしのこと、知っているの?」
言葉に詰まった。
だが、躊躇いを無理やり喉に押し込んで、憐愍は答えた。
──『僕は、言霊。二日前に君たち人間から、一切のことばを奪った』
少女が憐愍の伝えたことばを理解するまでには、やや時間がかかったようだった。
「あなたが……ことばを」
──『うん』
「言霊って誰なの? もしかして、神様?」
聞かれると分かっていた。憐愍は用意していた返答を、そのまま口に出す。
──『人間にはずっと昔から『霊魂』だって言われてきた。人間が意思を持って作り出した声や文字に、意味を持たせて相手に伝えるのが、僕たち言霊の役目なんだ。……最近の人間には、あんまり分からないかもしれないけど』
「ごめんなさい、あんまりよく分からない……」
──『仕方ないよ。君たちがそれを知っているなら、こんなことにはならなかったんだから』
「それは、あなたたちが言霊を奪ったっていうこと?」
──『そうだよ』
どういうこと、と言わんばかりに少女は瞳の光を歪めた。
こうして人間と意識で語り合うことになるなんて、二日前までは想像もしなかったに違いない。勢いに乗って語ろうとした憐愍だったが、ふと……口を閉ざした。
“どんなことがあっても人間に教えてはならない”
そう言われていたのを、思い出したからだ。
──『ごめん、僕の口からそれを話すことはできないんだ』
正直に告げる。少女はがっかりしただろうか、そう思いながら見上げた彼女の顔には、まだ微笑みが残っている。ただ少しばかり、その口元の傾ぎ方が変わっていた。
「……謝らないで、仕方ないよ。あなたたちが私たちから言葉を奪ったのは、ちゃんと訳があるんでしょ? そんなの普通、奪った相手に喋ったりなんかしないもの」
──『うん。ありがとう』
救われたような思いで、憐愍はそう返事をした。同時に、少女の口元に溜まっていたのは自嘲ではなく寂情だったのだと、今さらのように気付いた。
その時だった。
「ーー―ー~‥ー…~!!」
甲高い怒声が、一帯に響き渡ったのだ。
少女はキッと周囲を見回し、身を起こした。
「また、奪い合いが始まってる……」
少女の独り言は真実だった。少女に見えるのかは定かではなかったが、憐愍には見える。何百メートルも先、朧な電灯さえもが落ちた暗闇の先で、唾を垂れ流しながら何人もの人間たちが争っているのが。
少女は今や立ち上がっていた。ふらふらと頼りなく軋むその足に、憐愍が不安を感じたのも一瞬。
「言霊さん」
少女は憐愍に向かって、告げた。
「あなたと知り合えてよかった。でももう、ここにはいない方がいいの。私も逃げるから、あなたも逃げて」
──『待って、でも君は……』
言わんとしたことは、少女に先んじられた。
「大丈夫。ぜったいに絶対に、捕まったりしない。どんなにお腹が減っても、どんなに疲れても痛みが増しても、他の人は絶対に傷付けないって決めてるの。放っておいても、身体がそういう風に動いてくれる」
少女はその言葉通り、太い柱の林立する影へと消えていった。
頼りなげな足音の軌跡の上を、腕を食いちぎられ逃走する人が、鬼神の形相でそれを追撃する人の群れが、恐ろしい勢いで駆け抜ける。少女ならばひとたまりもないだろうと、憐愍は確信した。
──僕たち言霊は、本来なら人には見つからない。見つかったって実体なんて持たないんだから、痛め付けられもしないし、食べられもしない。……それでもあの子は、僕のことを心配してくれた。思い遣ってくれた。
黒一色の街を見つめる憐愍の炎に、微かな揺らぎが生じた。
──できることなら、守ってあげたい。真っ当にものを考えられるだけの力を、あの子に送ってあげたいけど……。
今はただ、少女が無事に危機を乗り越え、少しでも長く生き永らえてくれることを祈るしかなかった。
本作の更新時間は以下の通りです。
第六話:十二月三十一日 午後五時
完結は十二月三十一日、大晦日の予定です。




