井戸の男
遠い昔、赤レンガが敷き詰められた、小さな町に、内気で優しい男がいた。
町には広場があり、そこにはいつも、ピエロや花売りやりんご売りが商売をしていた。
男は町のエントツ掃除屋だった。
男は穴が好きだった。内気な男らしいといえば、らしかった。
男は内気な性格なので、まわりに自分の意見が言いづらいたちだった。
男が住んでいる町は、やたらと井戸のある町だった。
一家にひとつは井戸があった。森の中にも井戸があった。
もう使われなくなった枯れ井戸が、町のあちこちにほおって置かれたままになっていた。
使われようが、使われなかろうが、井戸は、町にはなくてはならないものだった。
そして男にも井戸はなくてはならないものだった。
男は枯れ井戸を好んだ。男はいつも、そこに気持ちを放つのだった。
男は内気だったから、自分の意見をなかなかまわりに言えなかった。
なので男は、枯れ井戸に自分の意見を言うようになった。
枯れ井戸に向かって話すようになった。
あるときは嬉しかったこと、あるときは辛かったこと。
あるときは悲しみを、あるときは怒りを。
男はありのままに言葉を出した。
男が井戸に向かって話す内容は、気持ちばかりでもなかった。
あるときは、自分の考えを話した。自分の思い出を話した。この町の感想を話した。
色んな事を、男は井戸に向かって言い続けた。
枯れ井戸に、男の言葉がたまることはなかった。
言ってそれまで、言葉は井戸のどこにも残ることはなかった。
だんだん、男は、物足りなさを感じ始めた。
言葉がなんにも残らない。そのことが、いつしか男に変化をもたらした。
夜、男は、ベッドの上で、うんうん考えるようになった。
どうして俺は、こんなに毎日毎日、枯れ井戸に向かって声を出しているんだろう。
本来、誰かに伝えてこそ、意味が出てくるのが「言葉」なのに。
それは確かに、男の思う通りだった。
男はますます考え始めた。
じゃあ、俺はどうして、枯れ井戸に声をはり上げるんだ?
誰にも言えないから、言いたくないから、井戸に向かって俺はさけんでいたのか?
いや、ちがう。男は思った。
それだったら、きっと「言葉」にもしないはずだ。
男はようやく気づき始めた。
俺は言いたかったんだ。
井戸に向かって話したすべてを。
出した言葉のすべてを周りにも本当は伝えたかったんだ。
伝えないと、言葉の意味がないじゃないか。
男の考えは、ひとつを除いて正しかった。
男が今まで、井戸に向かって出していた言葉にも、ちゃんと意味はあったのだ。
男が井戸に向かって話していたのは、けっして無意味なことではなかった。
言葉と言うのは、どんなときでも、どこでも、誰に対しても、なんらかの影響を与えるものなのだ。
内気な男は、男自身がはなった言葉から、じゅうぶんな影響を受けていた。
男は実は恋をしていた。
朝一番に、広間の噴水前でパンを売る、近所の娘が好きだったのだ。
いつもなら枯れ井戸に、その気持ちをぶつけるのだが、今日は井戸のフタを閉めた。
男は初めて井戸を捨て、広間に向かってかけていった。