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絵空事の現実

作者: 都湖琉

 真夜中の小洒落たオフィスには、キーボードを打つ無機質な音とエアコンが風を送る音だけが響いている。今日も残業だ。

 昇格してからは急に仕事が増え、一日ではとてもこなせない量にまでなってしまっている。今の生活スタイルになってから半年以上経つが、いまだに慣れることはない。

「部長、いつもお疲れ様です。ではお先に失礼させていただきます。どうかお疲れのでませんように」

「ありがとう」

 部下からの上辺だけかもしれない言葉を受け取り、愛想笑いを浮かべる。どんなに疲れていても、笑顔だけは上手に作れているだろう。

 給料が大幅に増えたのはいいが、いくらなんでも忙しすぎる。家には寝るために帰っているようなものだから、いつも先に寝てしまう妻とはしばらく会話をしていない。ただラップのかかった手作りの晩ご飯に、俺を思いやってくれる短い手紙が添えられているのだ。

 寂しい思いをさせているし、次の休暇にはドライブでも連れていってやるか。もっとも、いつになるかは見当がつかないが。

 やけにエアコンの風の冷たさが身にしみる。夜になるとさすがに気温が下がるから、面倒だが少し温度をあげるか。



 アブラゼミの輪唱が耳に心地よい、夏の昼過ぎ。

 俺と正吉(まさよし)夏紀(なつき)の三人は、毎日のように近所のひまわり畑や空き地で虫採りをしたり、駆け回ったりして自由に遊ぶ。この地域は田舎だから、俺達の他には子どもが一人としていない。しかも大半を高齢者が占めているから、俺たち子どもが可愛がられること可愛がられること。嬉しいが、この年になると少し照れ臭い。

 今日は炎天下の中、どれだけ多くの虫を捕まえることができるか勝負していた。

「いつき、こっちこっち! 大きくて綺麗なアゲハチョウがいるんだ!」

 正吉が指さす先には、俺たちでも今までに数回しか見ていないだろうかというくらいの大きさのアゲハチョウ。これをこの俺が追わないはずがない。

「待てよー!」

 捕まえるために必死になり、つい気配を消すのを忘れた。全速力で駆け寄りながら虫取り網を大きく振り回すと、あっというまに虫はひらひらと遠くへ飛んでいってしまった。

「逃げちゃった……」

「クッソー、すばしっこい奴だな!」

「いつきは大事なときにいっつもコレだよね。普段はプロみたいに上手なのにさ。ホラ、見て見てー! 私、もうこんなに捕まえちゃった」

 首から提げた虫かごを得意そうに揺らすのは、真っ白いワンピースを着た見た目は清楚な夏紀。

「すごっ……て、ああ! そんなに詰め込んだら虫がみんな死んじゃうよ」

「どうせ夕方には逃がしてあげるんだから大丈夫でしょ」

「相変わらず夏紀はいつもすげーなー、女の子なのに」

「ぶー! 女の子だからって馬鹿にしないでよー!」

「すまんすまん」

「ところで僕、もうお腹ペコペコ。ちょっと休むね」

「あ、そういえば私の家に、親戚の叔母さんが送ってきてくれた夏ミカンがたっくさんあるの! 皆で食べよ!」

「やったあ!」

「夏紀の母ちゃんがむいてくれるミカン、毎年楽しみなんだぜ! 甘酸っぱくてとにかく美味いよな!」

「じゃあ行こっか! というワケで、今回の勝負は私の勝ち!」

 夏紀は勝ち誇った顔をしながら、虫カゴのフタをスライドさせて虫を放す。

「ずるいよ、ナッちゃん。そういうの勝ち逃げって言うんだよー!」

「聞こえないもーん、アハハ!」

「うぅ……」

 ペタペタとサンダルの音を響かせながら畑の小道を走りだした夏紀の背中は、あっという間に遠ざかる。

「僕たちも走ろう、いつき!」

 鹿のように軽快に走りだした正吉を追うかたちで、俺も必死に足を動かす。相変わらず、正吉は走るのが速い。


 ちりん、と心地よい音を鳴らす風鈴を横目に、夏紀の家の縁側で夏ミカンをかじる三人。表面に水滴がついていて冷たく、瑞々しくて甘酸っぱい。

「明日は川で遊ぼ!」

「おぉ! 楽しみだな!」

 俺と夏紀の二人で、顔を見合わせてニヤニヤとしながら正吉を見る。

「嫌だよー! 僕がカナヅチなの、二人とも知ってるでしょ?」

「もちろん!」

「泳ぎなら私たちが教えてあげるからね」

「嫌な予感しかしないけど……」

「異論は認めなーい!」

 示し合わせたように二人の声が揃う。

「うぅ……わかったよ。行けばいいんでしょ、行けば!」

 正吉はヤケになったらしく、涙目になりながら顔を真っ赤に染める。

 そこでちょうど、チャリンという軽快なベルとともに、通りかかった自転車が俺達の前で止まる。

「鶴吉おじさん、こんにちは!」

 この三人は気が合うからか、声も揃うことが多いとつくづく思う。

「おぉー! 三人ともうまそうなミカン食ってるな! おじさんの分はあるか?」

「もちろんあるよ。取ってくるから待っててね!」

 タタタと走りながら家に入る夏紀。彼女の足音が完全に消えたのを確認した鶴吉おじさんはニヤリとして、声を落として話し始める。

「いつきと正吉は、将来ナッちゃんと結婚したいと思うか?」

「……えっ」

「なに言ってんだよ鶴吉おじさん。俺たちまだ考えてねぇもん」

「じゃあナッちゃんに、どっちと結婚したいかきいてみるか」

 それを聞いて途端に真っ赤になる正吉。俺の顔面が熱いのは、真夏の太陽の仕業だけではないだろう。

「にゃっ……そんなの――」

「ハハっ。冗談だ! 本気で考えるのは、もう少し先だろう!」

「なんだ驚かすなよ……」

「おじさ~ん、ミカン持ってきたよー」

「ありがとよ! ……うおー、やっぱうまいな! ナッちゃんトコの夏ミカンは最高だ! これで明日も畑仕事を頑張れそうだ! お、そうそう。そろそろトマトの収穫の時期だから、またもぎたてを食べにこいよ!」

「やったあー、おじさんのトマト、甘くって果物みたいで最高だよね! 畑の全部食べ尽くしたいくらい」

「がっはっは! いいとも! 三人にはサービスだ!」

 一方で俺は、無邪気に笑う三人を見て、いつまでもこの日常が続いて欲しいと願うのだった。

 いっそのことこのまま時が止まればいいのに。

「いつき、そのミカン酸っぱかった? 取り替えようか?」

 苦笑いで、自らが食べようとしていたのを俺に差し出す夏紀。

「んにゃ。ウマイぞ。」

「もぅー! いつきらしくなくボケっとしてるから心配したでしょー!」

「すまんすまん」

 気がつけば夏ミカンを手にしているのは俺だけになっていたから、大慌てで口に放り込む。ああ、本当においしい。

「そーんな急がなくても良かったのに。ま、いいや。今日は解散! 明日は川で集合ねー」

「おう!」

「……はーい」

「正吉、だいじょうぶかー! 確かお前泳げないよな!」

「つ、鶴吉おじさんっ!」

 顔を真っ赤に染める正吉を見て、俺たちは大爆笑する。

「正吉は何回も顔を真っ赤にして、忙しいな」

「なっ……! いつきだってたまに真っ赤っかになるでしょう!」

「え? いつきにも恥ずかしがるときがあるの?」

「夏紀ー、それは俺に羞恥心がないとでもいいたいのか?」

「だってないじゃん。この前の――」

「おっと、それ以上はいわせねえよ?」

「ホントおめーら仲良しだなー! 将来お笑いトリオでもやったら売れるんじゃねえのかー!」

 おじさんの一言でもう一度その場がわく。“解散”といわれてからしばらくたっても、その場には笑い声が響いていた。いつまでもいつまでも、賑わっていた。


「こわいよ……」

「だーいじょうぶだって! 正吉は運動神経がいいんだからすぐに泳げるようになるよ!」

「ナッちゃん、分野というのがあると思うよ」

 三人の家の近所にある川は少し浅めで流れも緩やかだ。それに岸から岸への幅が広めだから、泳ぐのには最適な川だと思う。大人たちもよく、子供の頃はこの川で遊んでいたという。

 俺は夢中になっている二人を尻目に、土手で空を仰ぎウトウトとしていた。正吉をからかいながら一緒に泳ぐつもりだったのだが、今日はやたらと眠たくてどうしても動く気になれない。

 不意に視界でなにかが舞うのが見え、眠気は一気に吹き飛んだ。“なにか”の正体は、昨日見た蝶々――いや、それよりも一回りは大きいカラスアゲハ。

 その漆黒の翅は、ブラックホールのように俺を惹きつける。俺は二人に声すらかけず、一人で立ち上がるとチョウに引き寄せられていった。

 チョウは畑の小道を抜け、集落を抜け、俺を導くように森へと入っていった。

 決して入ってはいけないといわれている森だった。森の雰囲気は外から見た限り普通の雑木林と変わらないから、幼い頃に一度だけ入ろうとしたらその後にひどく叱られたのを覚えている。

 この森に入ったら化け物に喰われるだの、永遠に彷徨う羽目になるなどと大人たちから散々脅された。今考えると、それはただの脅しだ。そんな簡単なことが、この年齢にもなってどうしてわかっていなかったのだろう。

「いつきー! 戻ってきなさい! その森はダメだっていわれてるでしょ、いつき! 聞きなさい!」

「もし僕たちのせいで怒ってるなら謝るから! お願いだから戻ってきてよ!」

 ああ、夏紀と正吉か。なにか必死そうに喚いているな。二人になにをいわれようが、構うものか。あのカラスアゲハは俺が絶対に手に入れてやる。

 大きく口をあけた森は、綺麗な蝶々に魅入られた一人の少年を飲み込んでしまった。それきり、中からの声はもうない。



「過労ですってね……職場で倒れて、そのまま……」

「まだ若かったのに、お気の毒です」

「これからだ、て時にそんな……そんな、なんで!」

 無数の百合や菊といった花に囲まれた、写真と棺。亡くなった男の部下や親族、友人の数が、男がいかに慕われていたかを物語っている。

「でもね、みてください。彼の顔はこんなに穏やかで……まるで童心にかえったかのような笑顔をしてらっしゃるでしょう? いい夢をみながら、お静かに昇天されたのでしょうね…………今まで、本当にお疲れ様でした」

 花や線香の香りが漂う葬場。人々が涙を流して見守るなかで、棺の蓋は静かに閉じられた。

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