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第1話 告知

第1話 告知


 診察室の目の前の長椅子に私は座って順番を待っている。

 大病院の外科のところだから、いつも人が多い。今も私の前後左右には沢山の人だ。付き添いの人と話したり、家族に連絡をしたりと、待合室とは言ってもひどく騒がしい。私は診断室が並んでいる壁の上にある大きなモニタを見つめる。私の受付番号が隅の方に載っていた。私が診察室に呼ばれるまで後3名待たなければならないとそれは示している。

 一年前、私は人間ドックを受けた。40歳なのだから、オプションで乳がん検診もしてくれと言われて私は基本のコースに追加した。すると返ってきた結果が「要精密検査」だった。思わず、家に届いた結果を何度も見返した。全然違和感もないのに、まるで「気づいていませんか」と言われたかのような結果にひどく動揺した。

 私は一人で生活をしていた。だから、この結果について特別に相談したり、慰めてくれたりする人はいない。遠い実家で弟家族と同居している両親に伝えたが、「何かの間違いでしょう」という感じだ。どうせ、検査をしても異常なしで戻ってくるに違いないと信じているようだった。けれど結果は違った。結果は悪かった。そして最終的に細胞診をしようと先生に言われた。固いベッドに横たわり、異常が認められた右乳房に太いストロー状の器具を入れられる。鈍い痛みと共にバチンと大きな音がした。器具が乳房から出ていくと赤い血がしたたり落ちる。

「2週間後に結果がでますから」

 先生は簡単そうに言った。私は職場にはこのことを話していなかった。結果は簡単なものだと思っていたから、深刻な話を上司にしなかった。けれど、細胞診とまで言われた以上、今後どうなるか分からない。ネットで調べると、がんの程度によって変わることが分かる。診察医は結果が分かるまで何も言えないと言って、私に詳しい説明をするのを避けた。だから、分からないまま、上司にもしかしたら乳がんかも知れないことだけを伝えた。

 女性の上司は驚いた顔をしていたけれど、身内に手術した人がいるから、よく分かると言って、私に職務より病院の予定を優先するよう言ってくれた。そんなに大きな会社ではないが、こんな寛大な対応をしてくれるとは恵まれているなと私は思って、珍しくうれしい気持ちになった。

 そして今日はその細胞診の結果を聞く日である。

 10時に予約していた。今は受付を済ませて、10時ちょうどである。3人待ちだからと分厚いダウンコートを丸く折りたたんで私はお腹の上で抱きしめるように座っていた。病院の中は温かいはずなのに、緊張で手足が冷たくなる。受付番号が光ったので、ドキリとしてモニタを見つめると、私と同じ診察室の患者が一人呼ばれたところだった。2人待ちに変わる。心拍数が上がる感覚が全身に行き渡る。私は大きく深呼吸した。緊張してもしなくても結果はもう出ているはずだ。今更ドキドキしてあれこれ今後を想像しても変わらない。

 私は「たいしたことない。手術するほどではなかった。単なる勘違いだったですね。」という先生の言葉が聞けたらいいと望んでいた。ネットでも、悪いと先生に予想されたのに、異常なしでしたという投稿もあった。私もそうなる可能性が高い。だって、今まで大病していない。お酒だってちょっとだけだ。食事もほとんど自炊。何も原因となるようなことをしていないはずだ。 

「ありがとうございました」

 診察室から一人出て行った。私ははっとする。扉が開いて、自動で音もなく閉じていく。うっすらと先生の姿が見えた。次の患者の資料を読もうとしているのか、クリアファイルに入った紙を顔面近くに持っていた。

 次の人がすぐに呼ばれた。私は腕時計を見る。10時18分だった。予定時間より遅れている。病院ではいつものことだ。朝一に行かない限りどんどん遅くなる。私の横に座っていた年配の女性が疲れたようにため息をついて、通りかかった看護婦さんを呼ぶ。生理検査が終わったのにまだ呼ばれないと愚痴を言っていた。私は丸くしたダウンコートを抱きしめていたが、だんだん気持ちが落ち着かなくなり、肩付近が寒くなってきた。動悸が激しくなり、胸を上下にさせながら、荒い息をつく。様子が変だと思ったのか、愚痴を言っていた年配の女性が私を横目で見た。私はコートを広げ、袖を通して身につけた。ふわりと肩に柔らかいダウンの膨らみが当たると、温かく感じる。私はうれしくなって、ぐっと襟元を引っ張って身体に密着させた。

 カチャンと音を立てて目の前の診察室の扉が開いた。終わるのが早かった。患者が「先生ありがとうございました」と言って、頭を下げる。私がふと見つめると、患者の背中の向こうで先生が会釈を返していた。

 そのときだった。先生が私に気づいて目を向けた。私もはっとする。

 先生はびくっとしたように目をそらした。患者が振り返り、扉の外に出ると、扉は自動で閉まっていく。先生はうつむいたまま、私を見ることはなかった。

 もしかして

 私はぞっとした。ダウンコートで温かくなったはずの身体が急に冷たくなった。

 しばらくすると、私の前の患者が中に入る。モニタを見ると、私が次に呼ばれる患者となっていた。ドキドキというより、心臓がやっとのことで私の血液を動かしているというような弱々しい心拍に変わっていた。怖くなって、コートのジッパーを上げる。周りの待合の人々の声は全く耳に入ってこなかった。目の前の診察室の扉だけが光っているような感じだった。この世には私と事実を知る先生だけしかいないような、そんな静寂した感覚に襲われた。

 扉が開き、患者が去って行く。私は前を見なかった。うつむいてスマホを触っていた。とりとめもないニュース記事を見ようとしていた。字面だけを見つめるばかりで内容が入ってこなかった。

 次に呼ばれる。そして聞く。そして将来なにをすべきか聞く。

 そう何かのお題目のように心の中でそればかり叫ぶ。

「次の方」

 病院の呼び出し音と共に、扉が開き、看護婦が出てきて、私の前に立った。私ははっとして立ち上がる、スマホを鞄にしまうのですら、手が震えた。そして、不器用な様子でよろよろと診察室に入る。

「お名前と生年月日をどうぞ」

 いつもの質問に答える。私は鞄を抱きしめたまま、先生の方を向いた。先生は大きな画面に私の情報を開き、マウスを苛立ったように音を立てながら動かすと、深呼吸する。

「異形成がありました。がんということです」

 私は。口をぎゅっと閉じたまま、静かに鼻から息を吐いた。楽観視していた将来がすべて打ち崩された。その反面急に心臓が落ち着く。細胞診の前に、告知は大丈夫だと先生に言っていた。だから、事実として結果を目の前にさらされても、私は耐えなければならない。

 私は、自分は強いんだと信じていた。どういう結果にも動じずに将来をしっかり見つめられるんだと。だから、事前にネットで情報を入手していた。最悪の結果でも、心の準備ができるようにと。

 けれど現実はやはり厳しいものだった。すぐには言葉が出てこなかった。

「がんと言っても初期ですから、そんなに心配しなくてもいいですよ」

 あわてて先生が取りなすように付け加えた。私は変に緊張感を失った笑顔を先生に向けた。

「そうですか。今後はどうなるんでしょうか」

「手術をします。どれぐらいの大きさで、どこまで転移しているのか調べます。そして放射線治療となります」

「…大きさですか」

「予想だと小さいと思うのですがね。リンパまで転移しているかどうかは手術しないと分からないですね」

 ネットで事前に調べた時に見慣れた専門用語が次々と先生の口から出てくる。

「手術ですか」

「次回は精密検査をしましょう。今日はこれでお帰りになってかまいませんよ」

「え、もうですか」

「今日は結果をお知らせするだけですから」

 先生はすぐに、告知を受けた後、平常心を保てないものだから、一度家に返って落ち着いて次回来て欲しいというようなことを付け加えた。

「そうですか」

 私は落ち着いているつもりだった。とりあえず、次回に日付を決め、私は診察室を後にした。

「これをもって会計課へ」

 外科の受付の人からクリアファイルを渡され、私は会計へ向かうため、病院内のエスカレーターへ向かった。しかし、途中にあるソファが空いているのを見て、倒れ込むように座る。

 急にほてりだした身体に気づいた。そして手先が震え出す。脚がふらついているようで、歩けそうになかった。まるで貧血を起こしたような気持ちになって、私はソファに身体を沈めて深く何度も深呼吸をする。そしてはっと思い出したようにスマホを取り出した。

 いつもならLINEで済ませる母への連絡を、私は電話に変えた。

「どうしたの」

「今日、病院で診察結果聞いたよ」

「それで」

「がんだった。私、乳がんだった」

 私は喘ぐように言った。電話の先で母がとまどったように何か口にするが言葉になっていなかった。

「また病院行くことになった」

 今日で終わりの予定だったのに。何ごともない健康な毎日が続くと思っていたのに。私の目から何かがつたった。

 やっと心の中に悲しいという気持ちが湧いてきた。


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