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白い結婚を申し込みましたが、辺境伯は最初から逃す気が無い

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/02/04

 婚約破棄を告げられたその場で、私は泣かなかった。


 泣く理由が、すぐには見つからなかったからだ。


 王城の謁見室は、いつも通りだった。磨き込まれた床、天井の装飾、壁際に並ぶ文官たち。どれも何一つ変わらない。変わったのは、私の立ち位置だけだ。


「アリア・フォン・ヴェルナー。君との婚約は、ここで解消する」


 王太子殿下は、そう言った。


 声は穏やかで、いつもと同じだった。責める調子も、迷う様子もない。あらかじめ決まっていた文章を、順番に読み上げているような口ぶりだった。


「本命が、別にいる」


 続く言葉は、それだけだった。私は一度だけ、瞬きをした。


 その程度の理由で、ここまで来たのかと思ったのだが、口には出さなかった。出しても、場の空気が変わるわけではないことは分かっていた。


 周囲の視線が、ゆっくりと私に集まってくる。哀れみ。興味。あるいは、ようやく終わったか、という安堵。それらを一つずつ数える余裕が、なぜかあった。


「異論はないな」


 殿下がそう言った。確認ではない。宣告だった。


「……ございません」


 声が掠れなかったことに、少し驚いた。


 そのまま頭を下げる。礼の形は、最後まで崩さなかった。ここで崩れたら、後が面倒になる。長い時間をかけて、そういう判断だけは体に染みついている。


 退出を命じられ、扉を出る。廊下に出た瞬間、膝が少しだけ笑った。転ばなかったのは、たまたまだ。私は歩いた。止まらなかった。立ち止まったら、何かを考えてしまいそうだったから。



 その日の夜、実家に戻る気にはなれなかった。


 公爵家の令嬢として用意された部屋は、広く、静かで、整っている。けれど、今の私には、あまりにも余白が多すぎた。


 公爵家の令嬢として、恥をかいたまま長く家に留まるわけにはいかない。


 侍女に一晩だけ休ませてほしいと告げ、最低限の荷だけをまとめる。鏡を見るのは、避けた。映った顔が、自分のものに見えなかったからだ。行き先は、決めていた。


 辺境伯ルーカス・フォン・ヴァルトシュタイン。


 冷徹で、合理主義で、感情を表に出さない男。そう評されている人物だ。白い結婚の提案を受け入れる可能性がある相手を考えた時、他に名前は浮かばなかった。夜会で何度か会った事はある。私に悪い顔はしていなかったと思う。


 夜の馬車は静かだった。揺れに身を任せながら、私は指先を握ったり開いたりを繰り返す。


 怖くなかったと言えば、嘘になる。けれど、王城に戻るよりはましだった。


 誰かの本命ではなかったという事実より、誰かの都合で立場を失うことの方が、ずっと現実的で、ずっと重かった。



 辺境伯の城は、思っていたよりも質素だった。


 装飾は少なく、色味も抑えられている。人の気配はあるが、ざわめきはない。必要な音だけが、必要な分だけ存在している。


 通された応接室で、私は一人、椅子に座った。背筋を伸ばす。指先を膝の上に揃える。ここでは、泣くわけにはいかない。扉が開き、男が入ってくる。


 彼は背が高く、無駄のない体つきだった。視線は鋭いが、突き刺すようではない。ただ、逃がさない。


「話は聞く」


 それが、最初の一言だった。


「……ありがとうございます」


 そう答えた声は、少し遅れた。私は深く息を吸い、用意してきた言葉を口にする。


「感情抜きの結婚を、お願いしたく存じます」


 彼は、すぐには返事をしなかった。私を見ている。顔ではなく、姿勢や、声の調子や、言葉の選び方を。


「条件は」


 短い問いだった。


「互いの領地経営への不干渉と、私生活の独立を」


 言い切るまでに、ほんの少し時間がかかった。


 拒絶される覚悟はしていた。それでも、ここまで来た以上、途中で言葉を濁すつもりはなかった。


 沈黙が落ちる。私は、俯かなかった。俯いたら、ここに来た意味がなくなる気がした。


 やがて彼は、椅子に腰を下ろした。


「理由は聞かない」


 それだけ言って、机の上に一枚の書類を置く。


「代わりに、条件を詰める」


 白い結婚。逃げだと思っていたその言葉が、この瞬間、少しだけ形を持った気がした。


 私はまだ知らない。この男が、最初からどこまでを見据えていたのかを。



 辺境伯の城に滞在することになったと告げられた時、私は反射的に断ろうとした。


 けれど、その言葉は喉の奥で止まった。断る理由が、すぐには見つからなかったからだ。


「部屋は用意してある」


 ルーカス様は、淡々と言った。


「今日中に帰るつもりでしたが……」


 そう答えながら、自分の声が少しだけ遅れていることに気づく。


「馬車を出すことはできる」


 否定でも引き止めでもない。選択肢を並べただけの言い方だった。私は、返事をしなかった。その沈黙を、彼は待たなかった。


「食事の時間だ」


 そう言って、立ち上がる。話は、終わったらしい。



 用意された部屋は、思っていたよりも簡素だった。


 公爵家で使っていた部屋より、ずっと狭い。調度も控えめで、色味も落ち着いている。けれど、妙に息がしやすかった。


 窓が低く、外の景色がよく見える。遠くに連なる山の稜線と、城下の灯り。荷を解きながら、私は指先を止めた。ここにいていいのだろうか。


 契約結婚の話をしに来ただけだ。条件を提示して、断られたら帰る。そのつもりだった。


 なのに、部屋があり、食事が用意され、時間が流れている。拒まれていない。それだけで、胸の奥が少し緩んでいることが、怖かった。



 夕食は、長いテーブルの端で取った。向かいではなく、斜め。視線がぶつからない位置だ。


 料理は素朴だったが、温かい。量も多すぎず、少なすぎない。気を遣われている、という感じがしない。


「口に合わなければ言え」


 そう言われて、私は首を振った。


「……いえ、とても」


 その言葉に、彼は頷かなかった。ただ、食事を続けた。沈黙は重くない。


 公爵家での食卓は、いつも静かだったが、それは緊張が張り付いた静けさだった。ここでの沈黙は、ただ音が少ないだけだ。


「条件の話を続ける」


 食事が半分ほど進んだ頃、彼が言った。私は背筋を伸ばす。


「私生活の独立。互いの領地経営への不干渉」


 彼は、昼と同じ言葉を繰り返した。


「追加は」


 一瞬、迷った。けれど、ここで迷っている姿を見せたくなかった。


「……互いに、過度な干渉をしないこと」


 自分でも曖昧だと思う条件だった。


 けれど、これ以上具体的にすると、何かが壊れそうな気がした。


「了解した」


 即答だった。


 あまりにもあっさりしていて、拍子抜けする。


「それで、よろしいのですか」


 思わず、聞き返していた。


 彼は、ようやくこちらを見た。


「不都合はない」


 それだけだった。


 私は、それ以上何も言えなかった。条件を詰めるはずだった。利害を並べて、線を引くはずだった。けれど、線を引く前に、場が整えられている。それが、どういう意味を持つのかを、私はまだ考えないことにした。



 翌朝、目が覚めると、既に日が高かった。慌てて身支度を整え、部屋を出る。廊下で侍女とすれ違い、軽く会釈される。


「朝食は執務室で」


 そう告げられ、案内されるまま歩く。


 執務室には、既に彼がいた。


 机の上には書類が積まれている。私の分、というわけではないだろう。けれど、空いている椅子が一つ、自然な位置に置かれていた。


「座れ」


 短い指示。


 私は、躊躇いながら腰を下ろす。


「これを見てほしい」


 差し出されたのは、領地の帳簿だった。私は、思わず目を瞬かせた。


「……私が?」


「他に誰がいる」


 言い切りだった。拒否する理由は、やはり見つからなかった。


 帳簿に目を落とす。数字を追う。流れを見る。いつの間にか、食事のことも、白い結婚のことも、頭から抜け落ちていた。


 言葉にしないまま、指先でページをめくる。


「ここ、少し歪です」


 気づいたことを、ぽつりと漏らす。彼は、何も言わない。けれど、私の言葉を遮らない。それだけで、続きを話してしまっている自分に気づいて、少し戸惑った。私は、まだ客のはずだ。けれど、扱いは、既に違っている。



 昼過ぎ、帳簿を閉じた時、私は深く息を吐いた。


「……すみません、長くなってしまって」


「構わない」


 それだけだった。私は、椅子から立ち上がる。


「本日は、ここまでで」


 帰るつもりで言った言葉だった。彼は、首を横に振らなかった。ただ、机の上の書類を片付ける。


「今日は泊まれ」


 命令ではない。けれど、選択肢もなかった。


 私は、一瞬だけ迷ってから、頷いた。逃げてきたはずなのに。条件を詰めるはずだったのに。気づけば私は、この城で、次の一日を受け取っている。それが、少しだけ怖くて、少しだけ――。


 それだけは、確かだった。



 私が辺境伯の城に滞在していることは、思っていたよりも早く知られるようになった。理由は簡単だ。人の出入りが少ない城で、見慣れない顔が長く留まれば、自然と話題になる。


 噂は、整えられて伝わった。


「白い結婚だそうだ」


 そう囁かれる言葉は、ひどく便利だった。事情を知らなくても、勝手に納得できる。深入りせずに済む。誰にとっても、都合のいい形だ。


 私自身も、訂正しなかった。訂正するほどの言葉を、持っていなかったからだ。



 城での生活は、一定の距離を保ったまま続いた。


 私の仕事は、書類を見ることだった。帳簿、報告書、倉庫の記録。目を通し、気づいた点を紙に書く。それだけだ。


 提出すれば、必ず次が来る。良いとも悪いとも言われない。ただ、修正された形で進んでいく。それが、不思議と落ち着いた。


 誰かに褒められることも、否定されることもない。ただ、私の書いた線が、翌日には別の線と繋がっている。


 その繰り返しだった。



 ある夜会でのことだった。


 領地の小規模な集まりで、私は形式的に同席していた。壁際に立ち、必要な時だけ口を開く役割だ。


「白い結婚とは、珍しいですな」


 そう声をかけてきたのは、年配の貴族だった。笑みを浮かべているが、目は笑っていない。


「若いご夫婦には、酷な話だ」


 私は、どう返せばいいか分からず、曖昧に微笑んだ。


「まあ、辺境伯様も合理的なお方だ。感情より有能な方を選ばれたのでしょう」


 その言葉に、胸の奥がわずかに縮む。何か言うべきか、考えた瞬間だった。


「話は終わったか」


 低い声が、すぐ背後から落ちた。振り返ると、ルーカス様が立っていた。いつからそこにいたのか、分からない。


「妻を引き止める理由がないなら、これ以上は不要だ」


 声は穏やかだった。怒っているようには聞こえない。


 けれど、その場の空気が変わる。


 年配の貴族は、一瞬だけ言葉に詰まり、それ以上何も言わずに下がった。


 私は、その背中を見送った後、ルーカス様を見上げる。


「……ご迷惑を」


 そう言うと、彼は首を振った。


「私は夫だ」


 それだけだった。


 形だけの夫なのでは?とは、聞かなかった。



 その夜、部屋に戻る途中で、侍女に呼び止められた。


「奥様、本日の面会ですが」


「本日は、予定はありませんが」


「はい。すでにお断りしております」


 淡々とした返事だった。


「……私が、ですか?」


「いえ。辺境伯様が」


 その一言で、会話は終わった。


 私は、廊下に一人残される。


 誰かと会う予定を立てていたわけではない。それでも、胸の奥に、妙な余韻が残った。


 断られたのは、私の代わりだった。それだけのことのはずなのに。



 食事の席で、その話を切り出そうとして、やめた。

 何を言えばいいのか、分からなかったからだ。代わりに、皿の上の料理に手を伸ばす。


「足りないか」


 突然、そう聞かれた。

 驚いて顔を上げると、彼がこちらを見ている。


「いえ、十分です」


 そう答えると、彼は何も言わなかった。けれど、その後、追加の皿は出なかった。丁度いい量を見られていたのだと、後から気づく。



 私は守られているらしい。


 けれど、それが結婚の取り決めのおかげなのか、それとも――。


 考えないようにして、仕事に戻った。考えなくても、帳簿は待ってくれる。数字は、嘘をつかない。人よりも、ずっと扱いやすかった。



 城に、王都からの使者が来たのは、雨の朝だった。


 石畳を叩く音がやけに大きく聞こえて、私は執務室の窓から外を見た。灰色の空に、山の稜線が溶け込んでいる。


 呼びに来たのは侍女ではなかった。侍従だった。


「奥様は、本日は同席なさらなくて結構です」


 そう告げられて、私は頷いた。


 理由を聞かなかったのは、聞いても意味がない気がしたからだ。



 使者の声は、廊下越しでも分かった。


 低く、落ち着いた調子で話しているが、言葉の端々に、探るような色が混じっている。


「……あの方の今後の扱いも――」


 そこまで聞こえたところで、声が途切れた。代わりに、聞き慣れた声が落ちてくる。


「その話は、私が聞く」


 静かな声だった。怒気も、威圧もない。ただ、続けさせないという意思だけがあった。それ以上、会話は聞こえなくなった。


 私は、机の前に座ったまま、手を動かさずにいた。紙の上には、途中まで書いた数字が並んでいる。


 続きを書こうとして、やめた。少しだけ、息を整える。



 昼過ぎ、使者は帰った。城の中は、また元の静けさに戻る。


 私は廊下で、ルーカス様とすれ違った。足を止めるべきか迷っているうちに、彼の方が先に立ち止まった。


「話がある」


 そう言われて、頷く。


 案内されたのは、いつもの応接室だった。初めてここに通された時と同じ場所。椅子の位置も、変わっていない。


 彼は、向かいには座らなかった。あの時と同じ、斜めの位置だ。


「白い結婚という呼び方を、やめたい」


 前置きはなかった。


 私は、一瞬だけ、瞬きをした。


「……それは」


 言葉を探している間に、彼が続ける。


「外で、便利に使われている」


 それだけだった。


 白い結婚。

 便利な言葉。

 勝手に想像して、勝手に納得するための言葉。


 私は、その言葉に守られていた部分もあった。踏み込まれないための、薄い壁として。


「不都合が、ありますか」


 ようやく、そう聞いた。


 彼は、少しだけ視線を逸らした。


「私にはある」


 短い答えだった。


 私の方を、もう一度見る。


「君にはないのか?」


 理由は、続かなかった。


 私は、膝の上で手を組み直す。


「……私は、今の形に、不満はありません」


 そう言うと、自分の声が思っていたよりも低かった。


 彼は、否定しなかった。


「それは残念だ」


 彼は、目を伏せる。その態度が、何をどこまで示しているのかは分からない。



 沈黙が落ちる。私は、その沈黙を破らなかった。破ってしまうと、何かが崩れる気がした。


 彼が立ち上がる。距離が、少しだけ縮まった。


「こんな関係は、終わりだ」


 断定だった。


 命令ではない。けれど、揺らがない。


「代わりに、本当の夫婦になる。いや、なってほしい。私は、最初からそのつもりだった」


 その言葉は、重かった。


 私は、すぐには返事ができなかった。

 拒む理由も、受け入れる理由も、言葉にできなかった。


 ただ、ここに来てからの時間が、頭の中を静かに流れていく。


 断られなかったこと。

 遮られた言葉。

 用意されていた部屋。

 見られていた食事の量。


 それらが、一本の線になる。


「……私は」


 声が、少しだけ揺れた。

 それを、止めなかった。


「私は、あなたに、選ばれたと思っていいのでしょうか」


 彼は、すぐに答えなかった。代わりに、一歩、近づく。

 触れない距離。けれど、もう逃げ道はなかった。


「夜会で会っていた時から、そうなればと思っていた」


 それだけだった。多くは語らない。

 けれど、その言葉は、ここに来てからの全てを、まとめていた。


 私は、ゆっくりと息を吐いた。そして、自分から一歩、前に出る。


 その距離が縮まったことに、彼は何も言わなかった。

 ただ、そこに立っている。



 白い結婚は、終わった。


 けれど、何かが壊れたわけではない。


 形が変わっただけだ。


 私は、相変わらず帳簿を見る。

 彼は、相変わらず多くを語らない。


 ただ、一つだけ違うことがある。


 夜、部屋に戻ると、隣に人がいる。


 触れあう距離だ。

 もう、離れる心配はいらない。


 私は、彼の横で眠る前に思う。


 逃げた先が、こんな場所だったとは、考えていなかった。


 考えていなかったが――。


 それでも、ここにいる。

 それだけで、十分だった。


完。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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