番外編 承徳王妃宣言の裏側
その日、簡略な文書が一枚、机の上に置かれた。
承徳王の署名と印璽が押され、蘭明玉を承徳王妃とする旨が記されている。
儀式も祝宴もなく、ただそれだけで決まった。
允成は朝議を終えると、午後にはいつも通り承陽殿東宮房にこもり、書類の決裁を進めていた。
側近の宦官・李少監は、片付けた文書を束ね、吏部へと届けに走った。
戻ってきたのは日が傾き始めた頃だった。
承陽殿の門をくぐった瞬間、背後からか細い声がした。
「……李少監さま」
呼び止めたのは明玉だった。
日頃から言葉少なな彼女が、自ら声を掛けるのは珍しい。
李少監は足を止め、慎重に頭を下げる。
「このようなところで、いかがなさいました、明玉さま」
明玉の表情には困惑が浮かんでいた。
いつも毅然としている彼女にしては珍しく、目が揺れている。
「承徳王妃ともあろう御方が、なにごとでしょう」
促され、明玉は小さく息を吐いた。
「……殿下のお耳には入れたくない話があります」
李少監は思わず眉をひそめる。
「わたしなどにお話しになってよろしいのですか?」
「はい。李少監さま以外に、相談できる方がおりません」
その声は、決意と諦観の間を揺れていた。
「わたくしが宮城を去ることになったときの……働き先を考えていただきたいのです」
一瞬、空気が止まった。
李少監は思わず言葉を失い、やがて低く問い返した。
「それは……」
「殿下は、わたくしを手放すおつもりがないのは、よくわかっています。ですが、どこまで通じるか。先がどうなるかはわかりません。万が一の落ち着き先は必要です」
「楊家ではなく?」
「元々お世話になっていた楊家からは、受け入れると再三言っていただいております。けれど……わたくしは行きたくないのです」
李少監は沈黙したまま、彼女の顔を見つめた。
やがて小さく頷く。
「……それは、楊家が殿下への交渉材料として、明玉さまを利用するからですか」
「たとえ、楊家にその気がなくとも……殿下は配慮なさいます。そういう方ですから」
明玉の声は淡々としていたが、そこには允成への深い理解と、切ない思いやりがにじんでいた。
「王家の方も放ってはおかないでしょう。確かに、考えるべきことかもしれません」
李少監は低く言った。
「ですが、殿下への裏切りであることは……ご承知のうえですか」
「……はい」
明玉は迷いなく答えた。
その瞳には、愛する人を守るために自らを切り捨てる覚悟が映っていた。




