第1章 北辺の報告
璃宋――
大河の南に都を構えるこの国は、豊かな中原を治めながらも、均衡の上に立つかりそめの静けさの中にあった。
皇帝は長く病に伏し、政務の大半は皇太子・允成が取り仕切っていた。
朝廷は三家――王家・楊家・石家――の力でかろうじて均衡を保ち、外には絶えず北辺からの風が吹きつけている。
その風は時折、血の匂いを運ぶ。
都・芳都の宮城、その東側にある承陽殿。
紫宸殿に比べれば小ぶりな建物だが、今や政の重心はこの場所にある。
承徳王――それが允成に与えられた封号であり、同時に背負うべき重さの象徴だった。
春先の朝。
重い帳を上げた東宮房の窓から、風が一筋、書簡の山を揺らした。
香の煙がゆるく漂い、朱の筆を握る允成の指先が一度止まる。
「殿下、石将軍がお見えです。お通ししてよろしいでしょうか」
取次の小宦官の声が、慎ましく空気を割った。
「通せ」
背筋を正した允成の声は落ち着いていたが、その瞳の奥には、未だ薄ら寒さが残っていた。
紙の香と、鉄のにおいは、どちらも彼にはよく馴染んでいた。
ほどなくして、姿を現したのは北辺防衛総司令・石仲安――
齢を重ねながらも背を真っすぐに伸ばしたその風貌には、戦場の塵と静かな剣気が宿っている。
「承徳王殿下、再立太子なされたばかりにて、このような……。北辺の件、報告に参りました」
「世辞は要らぬ。父帝の治世では、北の風を紙で防ぐことができたかもしれぬ。だが、今はどうだ? 騎馬の民は、文字よりも刃のほうが通じやすかろう」
微かに眉をひそめた石仲安が、静かに口を開いた。
「仰せの通り。現在、北辺に接する鉄騎国では、首長が交代しております。
粗暴にして猜疑心が強く、後宮に入れるために部下の妻を召し上げては、男を斬る。
処刑は一日に十人を超え、兵らは恐怖に縛られ、軍は崩れかけております」
允成の指が、机の端をトンと一度叩いた。
その目が一瞬だけ細くなる。
「女を奪うために、男を斬るか……」
小さく息を吸ったその音に、明玉の名はなかった。
けれど彼の思考の片隅には、風にそっと揺れるように、確かにその姿があった。
――ああいう者が、奪われる側にいてはならない。
声にしなくても、骨の奥に刻まれたような感覚だった。
石仲安の声が続く。
「このままでは、彼の国は内から崩れましょう。
しかし――それゆえに、目を逸らさせるために外へ向けて軍を動かす可能性もございます。
この種の暴政は、刃の向かう先を見失えば即座に外へ溢れ出す。いずれ必ず、侵攻してまいりましょう」
允成は、筆先で机上の文書を軽く叩いた。思考の音のように、静かに。
「援助は必要か?」
「いまはまだ、当家で対処可能です。ただ――それも限りがございます。とくに……」
「禁軍か」
「はい。いざという時、殿下の御旗の下に動くかどうか。禁軍の中にも、さまざまございますからな」
允成は短くうなずいた。
「柴将軍はいかなる人物か。石家と対立はないか?」
「むしろ、私とは付き合いが長うございます。ただし、柴将軍が動いたところで、全ての将兵が従うとは限らぬのが禁軍の常」
沈黙の中に、煙の香がまた揺れた。
石仲安はふと柔らかな口調で続ける。
「殿下のもとにお仕えしている石鼠。あやつは柴将軍の直弟子でございます。
いずれ、お考えを深められる際は、耳を傾けられるとよろしいかと」
允成の目が細くなる。
想定していなかった線が、どこかで一本つながったような感触だった。
「……わかった。話は以上か?」
「は。今のところは」
允成は再び筆を手に取った。
だが紙を見下ろしても、書き出す言葉はまだ下りてこなかった。
机上の書簡たちが、紙の白さの中で無言を保っている。
その静けさの中で、允成の中に、うっすらと“戦”という文字が根を張りはじめていた。




