雪の降る迄
あの日、主人が死んだ。
珍しく暖かい冬の日の朝のことだった。
驚きはなかった。
悲しみも我慢した。
ただ一言、
「お疲れ様」
そう言って主人を遠い所に送った。
主人は最期、少し微笑んだ、そんな気がした。
出会った時から、主人は、病弱だった。
だから、私より先に、虹の橋を渡ることは、分かっていた。
医者も再三、彼はもう長くないと、私に繰り返した。
果たして、主人は、若くして亡くなった。
けれど、医者が予想していたより、主人は長く生きた。
主人は、働くことができなかった。
すぐに息切れを起こしてしまうのだから、当然のことだった。
だから必然、仕事も、家事も、何もかも、私が全てのことをした。
辛くはなかった。
寧ろ嬉しかった。
主人の為に何かできることが、私の人生で、数少ない幸福だった。
主人はいつも、そのことについて、私に謝ってきた。
私が好きでしていることだと、何度説明しても、申し訳ないと言ってきた。
その度に、私は、主人が私のことを思ってくれてる、そう感じて、密かに嬉しかった。
葬式は小規模に行われた。
主人の顔見知りは、私と、少数の親戚だけだった。
誰一人として、涙どころか、悲しみを我慢する素振りさえ、見せなかった。
きっと、私以外にお墓参りをする人は、ここには誰もいないのだろうな、そう感じた。
その日から、私は、この無駄に広い世界で、孤立した。
主人が、三途の川を渡ってから、暫くが経った。
朝から曇り空の広がる、寒い寒い日だった。
私は、誰もいない河原を訪れた。
冬だからか、草花はあまり咲いていなかったが、それでも、綺麗な花が、逞しく咲いていた。
私は、その中から、数本を摘み取った。
左手に置かれた綺麗な花々を見て、この花の名前は何だろう、そう思った。
そして、もう戻らない過去を思い出した。
主人は、花が好きだった。
体調が良い日には、庭の花の話を、楽しそうに、私にしてくれた。
もし隣に主人がいたら、きっと、この花の事を、嬉しそうに、楽しそうに、教えてくれたんだろうな、そう思った。
ふと、空を見た。
相も変わらず、雲が広がっていた。
目を凝らすと、その白い海の中、一羽の鳥が、優雅に飛んでいた。
その綺麗な鳥は、冬に繁殖する鳥だった。
だから、近くにきっと、番がいると思った。
しかし、いくら探しても、周囲に他の鳥は、見当たらなかった。
亡くなってしまったのだろうか、寂しさを感じるだろうな、そう思った。
けれど、私には、その鳥から、寂しさを見出すことができなかった。
私は、その鳥に、親近感を抱いた。
そして、気丈に振る舞ってるのだと、そう信じた。
墓地についた。
閑散としていたが、それでも、私の他に、ちらほらと、人がいた。
しかし、主人のお墓の前で立ち止まる人は、私以外にいなかった。
きっと、この場所は、永遠に私の特等席なんだろう、そう感じた。
質素なお墓を彩るため、摘み取ったばかりの花を置いた。
そして、目を閉じて、心の中で、主人との記憶を思い出した。
その殆どは、家の中でのものだった。
主人は、いつも微笑んで、私の話を聴いていた。
言葉を発することは、あまりなかった。
きっと、口を開くことでさえ、億劫だったのだろう。
それなのに、私の話は、遮ることなく、いつも最後まで聴いていた。
そんな、病弱な主人との記憶の数々に、ほんの少し、野外でのものがあった。
大抵は、家の周りを、少しだけ散歩したという記憶だった。
しかし、一度だけ、少し遠くまで行ったことがあった。
私たちは、水族館にいた。
確か、私がペンギンの話を楽しそうにしたら、主人が、行こうと誘ってくれたからだと思う。
何度も止めたが、主人は、一度言ったことを、曲げようとしない人だった。
だから、医者が特別に許可を出した日に、二人で一緒に行った。
電車で二駅ほどの場所にある水族館だった。
たかが二駅でも、主人にとっては、大層な距離だったが、それでも主人は、確かに隣に立っていた。
私より、主人の方が、水族館を楽しんでいるように見えた。
幻想的な雰囲気の館内を、私たちは、亀にも劣る速度で歩いた。
平日だったからそれほど混んでいなかったが、それでも、私たち、特に主人にとっては、それほど居心地の良い場所ではなかった。
主人は人間が苦手だった。
案の定、帰路で病状が悪化し、医者に、何日間か寝たきりを命じられていたが、主人は、花の代わりに、その日のことを話す事が増えた。
主人に会いたかった。
もう会えないことは分かっていたが、それでも、もう一度だけでいいから、会いたかった。
目を開けて、主人の姿を望んだ。
しかしそこにいたのは、主人と私の苗字が刻まれた、簡素な墓石だけだった。
私は、それを、主人だと思い込んだ。
声をかけても、返事はない。
触っても、ただ冷たいだけ。
それでも、主人だと思い込んだ。
そうでもしないと、心が決壊する気がした。
ビュウッと、僅かに懐かしさを孕んだ暖かい風が、前から後ろへと、吹き抜けていった。
私は、無意識のうちに、その懐かしさの正体を探ろうとした。
しかし、答えを出す前に、風は止んでしまった。
突然、雨が流れ出した。
冬の景色をぼかす、暖かい大粒の雨だった。
滲んだ視界で周囲を見渡すと、誰一人として、傘をさしていなかった。
これは雨じゃない、そう改めて理解して、雨を拭った。
これが雨なら、そう考えた。
流れきったら、空に綺麗な虹がかかる。
そしたら私はどうするだろうか。
これが雪なら、そう考えた。
降り止んだら、否応なしに、やがて春が訪れる。
そしたら私はどうするだろうか。
心の中で、これは雨か雪か、主人に質問した。
当然、墓石からは、一切の返事はない。
けれど、主人がなんと答えるか、私には分かりきっていた。
その暖かな流体は、どうしようもなく、雪だった。




