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雪の降る迄

作者: 和音
掲載日:2025/10/18

あの日、主人が死んだ。

珍しく暖かい冬の日の朝のことだった。



驚きはなかった。

悲しみも我慢した。

ただ一言、

「お疲れ様」

そう言って主人を遠い所に送った。

主人は最期、少し微笑んだ、そんな気がした。



出会った時から、主人は、病弱だった。

だから、私より先に、虹の橋を渡ることは、分かっていた。

医者も再三、彼はもう長くないと、私に繰り返した。


果たして、主人は、若くして亡くなった。

けれど、医者が予想していたより、主人は長く生きた。



主人は、働くことができなかった。

すぐに息切れを起こしてしまうのだから、当然のことだった。

だから必然、仕事も、家事も、何もかも、私が全てのことをした。


辛くはなかった。

寧ろ嬉しかった。

主人の為に何かできることが、私の人生で、数少ない幸福だった。


主人はいつも、そのことについて、私に謝ってきた。

私が好きでしていることだと、何度説明しても、申し訳ないと言ってきた。

その度に、私は、主人が私のことを思ってくれてる、そう感じて、密かに嬉しかった。



葬式は小規模に行われた。

主人の顔見知りは、私と、少数の親戚だけだった。

誰一人として、涙どころか、悲しみを我慢する素振りさえ、見せなかった。

きっと、私以外にお墓参りをする人は、ここには誰もいないのだろうな、そう感じた。




その日から、私は、この無駄に広い世界で、孤立した。




主人が、三途の川を渡ってから、暫くが経った。

朝から曇り空の広がる、寒い寒い日だった。

私は、誰もいない河原を訪れた。

冬だからか、草花はあまり咲いていなかったが、それでも、綺麗な花が、逞しく咲いていた。

私は、その中から、数本を摘み取った。

左手に置かれた綺麗な花々を見て、この花の名前は何だろう、そう思った。

そして、もう戻らない過去を思い出した。


主人は、花が好きだった。

体調が良い日には、庭の花の話を、楽しそうに、私にしてくれた。

もし隣に主人がいたら、きっと、この花の事を、嬉しそうに、楽しそうに、教えてくれたんだろうな、そう思った。



ふと、空を見た。

相も変わらず、雲が広がっていた。

目を凝らすと、その白い海の中、一羽の鳥が、優雅に飛んでいた。

その綺麗な鳥は、冬に繁殖する鳥だった。

だから、近くにきっと、(つがい)がいると思った。

しかし、いくら探しても、周囲に他の鳥は、見当たらなかった。

亡くなってしまったのだろうか、寂しさを感じるだろうな、そう思った。

けれど、私には、その鳥から、寂しさを見出すことができなかった。

私は、その鳥に、親近感を抱いた。

そして、気丈に振る舞ってるのだと、そう信じた。



墓地についた。

閑散としていたが、それでも、私の他に、ちらほらと、人がいた。

しかし、主人のお墓の前で立ち止まる人は、私以外にいなかった。

きっと、この場所は、永遠に私の特等席なんだろう、そう感じた。

質素なお墓を彩るため、摘み取ったばかりの花を置いた。

そして、目を閉じて、心の中で、主人との記憶を思い出した。


その殆どは、家の中でのものだった。

主人は、いつも微笑んで、私の話を聴いていた。

言葉を発することは、あまりなかった。

きっと、口を開くことでさえ、億劫だったのだろう。

それなのに、私の話は、遮ることなく、いつも最後まで聴いていた。


そんな、病弱な主人との記憶の数々に、ほんの少し、野外でのものがあった。

大抵は、家の周りを、少しだけ散歩したという記憶だった。

しかし、一度だけ、少し遠くまで行ったことがあった。


私たちは、水族館にいた。

確か、私がペンギンの話を楽しそうにしたら、主人が、行こうと誘ってくれたからだと思う。

何度も止めたが、主人は、一度言ったことを、曲げようとしない人だった。

だから、医者が特別に許可を出した日に、二人で一緒に行った。


電車で二駅ほどの場所にある水族館だった。

たかが二駅でも、主人にとっては、大層な距離だったが、それでも主人は、確かに隣に立っていた。

私より、主人の方が、水族館を楽しんでいるように見えた。

幻想的な雰囲気の館内を、私たちは、亀にも劣る速度で歩いた。

平日だったからそれほど混んでいなかったが、それでも、私たち、特に主人にとっては、それほど居心地の良い場所ではなかった。

主人は人間が苦手だった。


案の定、帰路で病状が悪化し、医者に、何日間か寝たきりを命じられていたが、主人は、花の代わりに、その日のことを話す事が増えた。



主人に会いたかった。

もう会えないことは分かっていたが、それでも、もう一度だけでいいから、会いたかった。


目を開けて、主人の姿を望んだ。

しかしそこにいたのは、主人と私の苗字が刻まれた、簡素な墓石だけだった。

私は、それを、主人だと思い込んだ。

声をかけても、返事はない。

触っても、ただ冷たいだけ。

それでも、主人だと思い込んだ。

そうでもしないと、心が決壊する気がした。



ビュウッと、僅かに懐かしさを孕んだ暖かい風が、前から後ろへと、吹き抜けていった。

私は、無意識のうちに、その懐かしさの正体を探ろうとした。

しかし、答えを出す前に、風は止んでしまった。


突然、雨が流れ出した。

冬の景色をぼかす、暖かい大粒の雨だった。

滲んだ視界で周囲を見渡すと、誰一人として、傘をさしていなかった。


これは雨じゃない、そう改めて理解して、雨を拭った。



これが雨なら、そう考えた。

流れきったら、空に綺麗な虹がかかる。


そしたら私はどうするだろうか。


これが雪なら、そう考えた。

降り止んだら、否応なしに、やがて春が訪れる。


そしたら私はどうするだろうか。



心の中で、これは雨か雪か、主人に質問した。

当然、墓石からは、一切の返事はない。

けれど、主人がなんと答えるか、私には分かりきっていた。





その暖かな流体は、どうしようもなく、雪だった。

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