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さよなら

ほんの少しの決別

翌日目が覚めると部屋の中がいっそう冷えていることでいつもよりも早く目覚めた。昨日殴られた頬はどうなっているか確認をしようと手で触れると頬に昨日は無かったものが貼られている。

絆創膏だ。

殴られて頬を冷やしそのままにしておいたため勿論自分で貼ったものではない。すぐに襖を見て僅かに聞こえる寝息に声をかけようとしたのを慌てた止めた。

(カズさん)

彼が絆創膏を貼ってくれたのだろうか。きっとそうだ。この部屋には自分と彼以外いないのだから。

音を立てないようにゆっくり立ち上がり外へと出るとまだ早朝の空が目に飛び込む。夜から朝へと変わるこの色を見たのはいつぶりだろうか。小学生の頃の夏休みのラジオ体操でスタンプカードをぶら下げながら家を出た頃と同じものだ。その時と違うのは体は大きくなり、大人になり今自分がいる空は夏の朝ではなく冬へと移り変わる空だった。

誰もいないかと思っていたがすれ違う人間はいた。健康的な習慣なんだろう、早朝ジョギングをしている男性とすれ違うかと思えば朝からご苦労様ですと言わんばかりのスーツを着た男性。犬の散歩をしている眠たげな目の女性などこれから出勤や登校で慌ただしくなる前の静かな活動の時間に溶け込んだ。

「いらっしゃいませー」

早朝に溶け込みながらコンビニへと向かう。食べないかもしれないがカズさんの分の朝食も購入してレジへと向かう。人は少なく店員もこれからどんどん来るであろう客のために品だしをしていた。邪魔にならないように避けて歩く。相変わらず名前しか知らないアーティストのライブ告知ポスターや何やら通信講座の宣伝もあった。時間もあるので何か興味のある資格でも取ってやろうかと思ったが費用がそれなりにしたので止めた。

日に焼けて一部色が変わっている部分もあったがこのポスターもあと何日かすれば剥がされてまた新しいものに変わるのだろう。イベント類のポスターは細かく見ないと日付が過ぎているのにそのままにされているのもたまに見かける。特に何も思うことはない。店員も忙しいのだろうと思うぐらいだ。ならもう剥がす必要の無いものにしてしまえばいいのではないか?例えばいつ捕まえるかも分からない者の顔写真を。客にも周知出来るように出禁になっている客の顔写真なんて。

「…?」

レジに向かう途中足が止まる。

二人分の朝食を抱えたまま止まった自分を怪訝な表情をして店員が呼ぶ。一度、二度と瞬きをしてレジに進みレジ袋を貰い忘れてしまい二人分の朝食を抱えたままコンビニを出ることになった。

すれ違う人間が増えた帰り道を歩く。歩いては止まり歩いては止まり、終いには誰もいない遊具も殆ど無い公園で一人座り込む。一旦何か口に入れようと買ってきた缶コーヒーを開けて飲んでみるがまったく味を感じることが出来なかった。

(思い出した)

自分と同年代だったためニュースで見た時に自分が同じ立場ならどうするかと考えたことがある。閑静な住宅街で起こった事件に地元の住民は騒然としたと言っていた。

しかし一月も過ぎると別の事件が流れて世間の関心は新たな事件へと移っていく様に無関係ならこんなものかと何故かひどく悲しくなったのを覚えている。それだけ強烈な記憶だったのを今再びよみがえった。

息を整えて深呼吸をする。体をあの廃アパートに向けて歩き出させた。一歩一歩進んで前に近付いていく。今なら引き返せると思うこともあったが引き返してどうするのか、何をするのかと頭の中の問いにカズさんの声が浮かぶ。

進め、自分にやれることをやれ。

傷つくのが怖くて逃げていた自分を奮い立たせて二人でいる廃アパートの一室に入る。

「おかえりなさい」

「…起きたんですね」

「寒くて、あんまり寝られなくて」

「カズさん」

「ん?」

「……」

「何ですか?」

「絆創膏、」

「…あぁ」

「絆創膏ありがとうございます」

「たいしたことじゃない」

「でも嬉しかったです」

「大袈裟だよ」

「それでも嬉しかったです」

「……」

おかえりなさい、ただいまが返ってくるこの廃アパートでこの人と何度言葉を交わしただろうか。外と変わらぬ室内の温度に吐く息が白くなっていることに気づいた。僅かに開けられた襖を覗かないように背中合わせになっていると信じて座る。

「朝食買ってきたんです」

「こんな朝早いとあんまり商品ないでしょ?」

「好きなのは…ありませんでした」

「やっぱり」

「カズさんも好きか分からないですけど…食べませんか?」

「え?」

「一緒に食べませんか?」

「んじゃ俺も買ってきたやつ開けますよ」

「俺も買ってきたんですよ。カズさんに」

「俺に?」

「はい」

何年か振りに早く起きてコンビニに行ったこと、こんな朝早くからジョギングしている人がいた。散歩をしている犬が柴犬で尻尾が輪っかのようになっていた。

そんなことを話しながらあなたと向かい合って話をしたいんです。

「……襖が開きません」

「ぶっ壊せばいいじゃないですか」

「隣が起きる。また殴られますよあんた」

「…そうですね」

それよりもほら、見てくださいとカズさんが差し出して来たのはコンビニ限定だと言っていたあの甘過ぎるパンだった。

「…気に入ったんですか?」

「かもね」

二度と買わないなんて言ったじゃないですかと笑う。それなのにカズさんは何だかまた食べたくなってしまったと笑う。半分にして差し出されたそれを受け取って食べるとやっぱり甘い。体が甘さで悲鳴を上げそうなほどに口の中に広がった。

「カズさん」

「ん?」

「やっぱり甘い、甘過ぎる」

「だよな」

「まだ、売ってたんだ」

「うん。スーパーでまだ売ってました」

「……」

「半額だった」

「やっぱり売れ残ってる」

「好きな奴には好きな味です」

「…カズさん」

「ん?」

俺、実家に一度戻ります。

そう告げるとカズさんの纏う空気が一瞬変わったが、すぐに言葉を返してくれた。

「それがいいですよ」

「…カズさんは」

「俺は帰りません」

「…ここにいるんですか?」

「無職で帰れる家じゃないんです。タナカさんは…ちゃんと帰れる家があるなら帰った方がいい」

「なら…カズさんも来ませんか?家族には俺から説明します」

「見ず知らずの人間を居候させるなんて無理ですよ。俺も…そこまでされたくはない」

「…すみません」

「いいですよ。俺の自尊心の話」

「すみません…」

「だから、いいって」

「……カズさん」

「…おぉ…」

襖の向こうに手を差し込む。

カズさんが驚いていた。今まで幾度と無くカズさんがこちらに手を差し出してくれることはあったが自分からはあまりなかった。

「…手を」

「……」

襖の向こうにいる隣人が自分の手を握る。緊張からなのか汗をかいていてお互いの手が触れても静電気は起こらなかった。そのまま離さずにいてゆっくり下に降りる。畳の敷かれた床にお互い握ったままの手を降ろして、特に何も言っていないのに一度ほどいて手のひらを降ろすとそこにカズさんの手が重なる。襖越しの背中合わせでも触れ合えるように。

(カズさん)

冬が近くなってきたためこの寒い部屋で過ごすには眠りが浅かった。だから、自分が眠っている間にカズさんが自分を跨いで外に出かけるようなことがあれば気づいていたと思います。

それなのに、あなたは買い物に行った風にしていたことがありました。実はそんなこと一度もなかったでしょうね。

その限定のパンは確かにスーパーでも売っていました。ただ、そのスーパーで取り扱い始めたのはここ最近で売れ残りだと分かるほどの長い期間をまだ置いていません。

この町に来る途中に大きなショッピングモールがあります。そこならあの近くのスーパーより早く売り始めていてこれはもう売れないなと半額シールが貼られていました。

それ、いつ買ったものですか?

あなたは一度も出掛けてなんかいなかった。

きっとここに来る前に大量に買い込み、その記憶を辿りながらあたかも俺と同様に前からここに住んでいた風に装っていたのでしょうね。

襖に頭をつける。古い襖は実家にあるようなものではなくて触れると痛い。

カズさんはこの向こうで何を思っているのか。

明日自分はここから出る。荷物を持ってこの冬が近づく空の下を一人歩いて向かうんだろう。

夜になり電気の無い部屋は暗くなる。今夜は月が雲に隠れてしまって部屋は明るくなかった。スマートフォンのライトをつけると一気に明るくなり自分の影を部屋の壁へと映す。

それにカズさんの影が重なる。僅かに開いた襖から見える彼の影が自分のと重なり大きな一つの影になっていた。

外に明かりが漏れるだろうかと心配したカズさんの言葉を聞いて明かりを消すと再び真っ暗な部屋に自分とカズさんの呼吸音だけが聞こえる。そのまま眠り、日が昇ったのと同時に音を立てないように部屋を出た。


“ほんの数日ですが話し相手になって下さりありがとうございます。カズさんのことを見かけたらまた話しかけてもいいでしょうか”


いつの間にか眠り、目が覚めると部屋の中には自分一人だった。襖の向こうに缶コーヒーと一枚の置き手紙がありタナカさんはもうこの部屋にいないのだと分かる。

「…話しかけるって」

今後また会うことがあるのかと思いながら、手紙を丸めてポケットに入れる。

「……」

あの人は普通の人だ。

少し繊細で傷つきやすく、それを知っているため何とも不器用な生き方をして貧乏くじを引いていた。暗い道を歩んでいる自分とは違い、きちんと明るい道を歩んでいける人なのだろう。

だからわざわざこの部屋に住まわせたのだろうか。

肝試しに来る子どもを追い返すように大きな声を大きな音を出して追い返して良かったものの、大の大人が呼ぶお化けさんに思わず笑ってしまった。

何年ぶりかの声を出しての笑いに絆されてしまったのか、人と話す時間がタナカさんとの時間が自分をまともな人間だと思わせてくれるような気がしたのだ。

それが終わった今、迷うことはない。

ずっと探し続けていた。そして今好機は巡ってきた。今しかない、だからやらねば。

「……。」

なのに手が震えるのはおかしいだろ。

呼吸が乱れているのもおかしい、落ち着け落ち着け落ち着けと頭の中で何度も同じ言葉を繰り返しながら最後の半ば自棄になりながら行い廃アパートの部屋を出た。

ゆっくり階段を降りた後に早足から駆け足になり息を切らせながら走る。廃アパートが見えないところまで走り汗を流しながら歩道橋まで。

欄干に手をかけて途切れ途切れの呼吸を少しづつ整わせていく。暑かった体が時間を立てて吐く息が白くなるぐらいに冷えていくのを感じたら歩道橋の下に何台もの車が走るのを見て大きなトラックが向こうから走って来るのを確認する。

(あ)

あれだ。あれにしよう。

欄干にかけた手に力を込める。そして蹴り上げるように飛べば一瞬で終えられる。運転手の人には罪は無い。申し訳ない。

「カズさん」

蹴り上げようとした足が止まる。

思わず呼ばれた方向を見てしまった。

ダウンジャケットに大きな鞄。あまり身だしなみにはこだわらないのか少し伸びてぼさついた黒髪。世間的には整った顔立ちなのに大きな痣と口のはしには絆創膏が貼っている。

「カズさん」

そんな男がこちらを真っ直ぐ見て自分の名前を呼んだ。動揺してるのがもう目に見えて分かっているのだろうけどそれでも口は嘘を吐ける。

「誰ですか…」

「タナカです」

「知りません…」

「俺は知ってます」

一歩前に進んで彼が話す。

「あの廃アパートの一室で、俺は一晩泊めてほしくて上がり込みました。先にあなたがそこにいて…話をして、食事をして…二人で過ごしました」

また一歩進んで二人でしか知らない話を始める。食べた物、話した内容、それを思い出せる限り話し自分との関係性を口にした。

「だから!知りませんって!人違いでしょ!」

それを大声で遮り彼を黙らそうとした。その声に一度彼は口を閉じて悲しそうな表情をしたがすぐに口を開いた。

「カズさん、ごめんなさい」

「…はぁ?」

「……あの缶ビール…俺が捨てました」

「…は?」

「缶ビールの上の方に…小さな穴が空いていたのを見つけました。キリか何かで開けて…そこからあの殺鼠剤を入れたんですね」

「…へ、あ…」

「あの隣人が手を伸ばす前に俺が取りました。それで…飲む前に捨てました」

「嘘、でしょう?」

そう言うとタナカさんは鞄の中から空になった缶ビールと殺鼠剤を取り出して見せた。一気に体の力が抜けてその場に座り込む。するとタナカさんも目線を合わせるようにしゃがみこんだ。

「……いつから気付いてましたか?」

「…あの殴られた日です」

「顔を見たから?だって世間はもう忘れてる事件ですよ」

「俺には当時強烈だったんです。民家に強盗が押し入って…そこの家のお姉さんが殺された。現場を帰宅をした弟が見つけた」

その弟が自分と同年代だった。身内の死体をいつものように帰って来たら見つけた時の気持ちはどれだけ恐ろしく悲しかっただろうかと名前も顔も知らない彼のもとに駆けつけてやりたかった。

「ずっと…見つからなかった犯人をあなたは見つけたんですね」

「……」

「そこであなたは自分の手で復讐するために、同じ廃アパートにいてあの男が飲んでる銘柄と同じ缶ビールに殺鼠剤を入れて殺そうとした」

壁があるはずなのに鮮明に聞こえる鼾に疑問があった。異常な程に音を立てずに過ごすことにも疑問はあったと語る。自分が慌てて廃アパートを出たのを確認した彼は自分のいた部屋に入るとそこには廃アパートに住み着いていた鼠が空けた大きな穴があったのを見つけ、そこに手を伸ばして隣人の、殺人犯の男に殺鼠剤入り缶ビールが飲まれる前に回収して自分を追って来た。

「回収する時に見つかって…また殴られそうになりましたが、その前に殴りました」

大声を上げて人を殴ったのは初めてです。

その後気絶した男を横目に警察に通報したらしい。

「……何で」

「…はい」

「何で最初に謝った」

「……あなたの復讐を邪魔したからです」

「謝るぐらいなら、邪魔するなよ」

冷たいコンクリートの上に爪を走らせる。爪の隙間に小石が入り込み痛みがあった。握り混んだ手に石が、捨てられたシケモクが、枯れた葉が巻き込まれていく。それらを全部タナカさんに投げつける。避けることはなく彼は受け止めた。

「やっと復讐出来ると思ったのに!他人のあんたが邪魔するな!」

そして大声で彼を罵倒した。

あまり人が通らない歩道橋に自分の声が響いていく。

あぁ、あなたが。

あなたが、あんたがあのアパートに来なければあの男を今殺していたのに、何もしていない姉を殺した男をのたうち回らせて殺すことが出来たのに。

邪魔された怒りとやり遂げられなかった怒りが混じりタナカさんにそれをぶつけた。無言で聞いているタナカさんは目を伏せて申し訳ないように俯いた。

再び何か投げ付けてやろうかと思った時に、手を掴まれる。

「すみません」

「離せよ」

「…耐えられなかったんです」

「何を」

「あのくそったれが死んでも別に構わないじゃないかと思ったんです」

「…なら」

「でも、そしたらカズさんはどんなにカス人間でも殺したなら世間に人殺しだと言われる。あの馬鹿と同列に人殺しだと考える奴だって出て来るかもしれない」

「そんなの、それでも」

「俺にはそれが耐えられないんです。あなたは綺麗なままにいてほしかった」

タナカさんが痛いぐらいに手を握りしめる。怒りが満ちてるのは自分なのにそれを越えるぐらいに苦しい表情をしたタナカさんがいた。

「俺の、俺の…独り善がりです。カズさんに人を殺してほしくなかった。あんな奴に囚われたままに…終わってほしくなかった…」

タナカさんが歩道橋のコンクリートに額を擦り付けた。土下座するようにして次第に嗚咽を交えた声で話す。

「優しい、カズさんは優しい人です。だって、ずっと憎しみだけで生きてるなら……俺のことを追い出していたじゃないですか」

「…やめ」

「誰かに、止めてほしかった」

「…やめろって」

「優しくなければ、そうでなきゃ…今ここで泣いてないじゃないですか」

泣いた表情のタナカさんが顔を上げてそう言った。

瞬間震えて両の目から涙が流れた。顔を覆って隠そうとしても指の隙間からこぼれ落ちて震えは止まらなかった。

全部、全部終わってしまった。

今の今まで持っていた憎しみも怒りも全て、自分達が歩いて来た方向にパトカーが向かう音が聞こえる。きっとあの男は逮捕されて法の裁きをこれから受ける。それに安心してしまった自分の弱さとそれを暴かれたことに情けなくなり目の前の男に縋る。

タナカさんは黙って抱き締めて自分は声を上げて泣いていた。






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