隣人
始まる共同生活
古びた畳の部屋に敷いたのは百円均一で買ったレジャーシートだった。音はするがカズさんも同じようにしているらしくカビの生えた畳に直接寝るのは勘弁でしょう?と襖の向こうで笑っていた。
「これからどうするんです?」
「それなんですよね」
「また、寮つきの仕事を見つけます?」
「なかなかないんですよね。というか、したいこともない」
「タナカさんって卒業してからずっと同じところに働いてたんです?その前に学生の時とか何かやりたいこととかなかったんです?」
「学生……あまり、なかったです。とにかく、ここから離れたくて…」
「そうなんですね」
暗い話をしてしまったかと思ったがカズさんの声の明るさは同じだった。口から出たのは全部本音だ。とにかくとにかくここから地元から離れたく寮付きの仕事を見つけて真っ先にそこへと向かったのだ。やりたいことやしてみたいこと、将来の夢。
社会を知らない無垢な子ども時代にも不安ばかりでそんな夢など見ることがなかった。
ただ静かにゆっくりと歩んでいきたかったのだ。
「カズさんは、どんな仕事をしたいです?」
「俺?」
「はい、カズさんの未来は…」
「…そういや考えたことねぇや」
「え?」
「目の前のことばっかりで、そこまで先のことを考えたことがなかったです」
カズさんも自分とは違う形で将来の夢を見ていなかった。
「何かなりたいものとかありますか?」
「なりたいもの」
「はい、何になりたいですか?」
「そうですね……タナカさんがなりたいものを見つけたら俺もそのなりたいものを探しますよ」
「俺が見つけたら?」
「同じように生きてるタナカさんが何か目標が出来たら、俺も慌てて何かしなきゃってなるかもしれないじゃないですか?」
発破かけて下さいよ。
カズさんはそう笑いながら言った。下に敷いたビニールシートの音が笑い声に重なるように音を立てた。冷たい空気が流れる昼間だったのが夕暮れになり夜になる。風が窓の隙間から入り込むがあのまま彷徨い夜の町にいるよりはずっと良い。
襖の向こうでカズさんが何かビニール袋を開けている。
「タナカさん」
「はい?」
「飯食いましょう」
「そうですね」
「タナカさん何です?」
「おにぎりです。カズさんは?」
「同じです。おにぎりです」
あそこのスーパーのですか?あそこはあんまり安くないけどそこしかないから行かざる得ないんですよねと、この町の話をする。
高校を卒業してからすぐにこの町に来た。
地元から離れて見知らぬ土地での生活は特に苦ではなかった。知らない空気が流れ知らないローカルCMが流れて自分のことなど知らない人間が多くいる。住み始めてからどこに何があるか、この町はどんな町か。段々と分かってくる。
平穏で大きな出来事は殆どない。毎年夏になると屋台が並んで夏祭りがある。冬になると大型ショッピングモールで年末年始のビンゴ大会が行われるのだ。家電が商品でこの時はこの町の人間全員が来ているんじゃないかと錯覚するほどだった。
「タナカさんはどんな場所で育ったんですか?」
「あまりここと大差ないです。でも、店はここよりもあったかもしれないです」
「ここぐらいが良いんですよ。田舎は近所が監視して、都会は人が多すぎて疲れる」
「カズさんは…どんな場所で?」
「地方の、ここよりは田舎かな」
「そうなんですね」
ここでカズさんが食べる音がしたので会話は中止して夕飯を食べる。窓の外はすっかり夜だった。
「…あ、」
「え?」
「あ、いや...」
割れた窓から見えた夜の空に大きな月が浮かんでいる。知らなかった、今日は満月らしい。
「どうしました?」
「いや、満月だって…」
「え?」
襖の向こうでカズさんが立ち上がる。多分自分と同じように満月を見上げているのだろう。
「本当だ」
「本当ですね…」
「満月なんて気付かなかった。いちいち空なんて見てなかったから」
「俺も…気にしたことなんて、なかったです」
「…綺麗なもんだな」
カズさんがどこか沈んだような声で呟いた。
どうしたんですか?と返すことが出来ずに彼がいる襖の向こうを見つめた後にもう一度月を見た。
月って綺麗なんだな。下ばかり見ていたから知らなかった。
そのまま二人でぼんやり月を見ていた。夜は電気をつけて明るいままに過ごしていたがここは廃アパート、当然のように電気は通っていない。窓から入り込む町の灯と月の灯で自分の手が分かるぐらいの灯で過ごしていた。夜が深くなり会話の数も段々と減っていきそろそろ寝るかなと思ったのと同じタイミングでカズさんも寝ますか?と声をかけた。
「それじゃおやすみなさい」
「おやすみなさい」
着替えや寮から持ってきた大きめの鞄を枕にし着ていた上着を布団の代わりにする。固いがおそらく寝られないことはない。
不思議なことに明日、寮を出なければいけないという夜よりも今の夜の方が安心することが出来た。
しかし明日からどうするべきか、とりあえずコンビニに行き食べるものを買う。駅には求人雑誌が置いてあったはずだ。それを一冊持ってきて何かを始めよう。
「……」
大人は面倒だ。
自分で人生を決めることが出来るがそれにが本当に進みたい道になるのか稀だ。
静かにひっそりと生きていたい。意外とこれが難しいのだ。
頭の中をそんな考えが回り脳が疲れていく。静かな部家の中で眠りについた。
(カズさんも、寝たかな)
自分と同じように眠っているだろうか。
静かに襖を開ける。
シートの上で横になり眠っている男を見つめる。大きな鞄を枕にして随分穏やかな寝息を立てていた。
身長は自分と同じか少し大きいぐらいの男だ。
顔も分からない人間、ましてやホームレスをしているようは男にこんな簡単に隙を見せて呆れる。
根っからの善人なのか、それとも人との触れ合いがそんなにもなかったのか。
会話の内容から察するに恐らく後者。家族は健在だがあまり気にかけてもらったことはないだろう。
自分との会話に一々新鮮な反応をしている。
(早く)
早く出ていかせよう。
(きっとあんたは幸せになれる人間だよ)
襖を閉めて窓を見る。
あの男に言われて月が綺麗なことを思い出した。
子どもの頃に自分がどこにいても月が見えることを不思議に思いながら走っていたのを思い出した。
「………」
子どもの頃を思い出してしまった。
あの穏やかな日々はもうどこにもないのに。
(体、少し痛い)
それでも思ったよりも眠れるものだ。生まれてからずっときちんと敷かれた布団かベッドの上でしか眠った事がなかったためここでこんな体験をしておけば今後本格的にホームレスになったとしてもきちんと眠ることは出来るかもしれない。
体を起こして伸びをする。襖の向こうから物音がしたためカズさんはもう起きているかもしれない。先に挨拶をした方が良いだろうか。きっとその方が印象が良いだろうと思い口を開いた時。
「静かに」
「え、」
思いもよらない言葉が返ってきて思わず固まる。すると閉めれた襖の隙間から紙が差し出される。そこに書かれた内容を読んでカズさんの言葉の意味を知る。
このアパートには自分達と同じように寝床にしているホームレスがもう一人いるらしい。ただかなり気難しいというか面倒な人間らしく、少しの物音でも敏感に反応し怒鳴り付けてくるらしい。
ここがお化けが出ると噂になっていたのはその隣人が酒を飲んで一人で喋っているのが外に漏れて段々とそれがお化けが出るのだと変わっていったらしい。
“じゃあカズさんがあの時小学生を追い出したのその人に何かされないようにっていう意味もあります?”
“あります。常識が通じない人間なので、近づけさせないのが一番です”
“確かにそうですね”
“そうです。それでタナカさん。耳を澄まして下さい”
声を出さないように手紙でやり取りをしてカズさんにそう言われる。じっと動かず音を立てずに周囲の声に集中すると、確かに壁がかなり薄い。隣人の男が何かを飲むような音が聞こえて空の缶と缶がぶつかる音がする。
そこに更に大きく倒れる音がして、カズさんから何か言われるまで静かにしていると大きな鼾が聞こえてきた。酒を飲んでそこら辺に捨てて眠ってしまったのか。
「…タナカさん」
「…はい」
「おはようございます」
「…おはようございます」
「……」
「……」
お互いにやっと声を出し合うことが出来た。その状況に何だかおかしくなり押さえながら笑う。襖の向こうでカズさんも手で口を押さえているのだろう笑い声が漏れている。
「起きないんですかね。思った以上に壁薄いんですね」
「平気ですよ。結構深く眠るみたいで」
「鼾の音まで…ちょっと叩いたら壁壊れそうなぐらい薄いですね」
「本当、薄いんです」
それより朝飯食べましょ。そう言ってカズさんがビニール袋から取り出す音がする。自分は昨日の夜の分しか買っていないため今日の分までないことをカズさんに言って買い物に行くために立ち上がるが襖が少し開いたと思ったら途中でつっかえたのか止まる。そこから差し出されたのは惣菜パンだ。
「あげます」
「え、でも…」
「代わりにこの後の昼、何か買って来て下さい」
「わ、分かりました。ありがとうございます」
「いいんですよ。俺今日は一日寝たい気分だし、出かける手間はぶけました」
コンビニで年中見かけるが手にしたことはない惣菜パンを初めて食べた。カズさんも同じようなパンを食べてるらしく日が経ってるからそんな美味しくないかもと言っていたがそんなことはない。
「俺、好きですこれ」
「うん。俺のおすすめ」
窓の向こうからは通勤か通学か声が聞こえ始める。この声を聞きながらこれから特にどこかに仕事をするわけでもない今日が随分穏やかだった。空になった惣菜パンの袋を結んで小さくし、今までに気にしたことなどない鳥の声が心地よかった。
「…俺、初めて気付きました」
「何に?」
「無職って楽なんですね」
「多分それ、今だけですよ」
「確かに…」
一回この楽さを覚えると抜け出せないんですよ。
カズさんが震えながらそう言ったため一日一回とりあえずなんか行動をしようとアパートを出る。廃アパートから人が出てくることなんてありえないため外を警戒しながら出ると眩しさに目が眩んだ。今日はいつもよりも温かい。
錆びた階段をゆっくり降りながら町を見る。歩きながらこの方向はあのスーパーに、この方向はコンビニに、あの方向は自分が勤めていた工場。
それ以外はあまりこの町を知らない。
たまたま知った抽選会、たまにポストに入っていた新規開店の店の広告チラシ、道行く小学生がどこの学校に行くのか何も知らない。
知ろうとしなかったのか、それとも知りたくなかったのかは分からない。ただ自分は何も行動しなかっただけかもしれない。
(あ)
スーパーに行く途中で見かけた民家に大きな柿の木があった。実をつけているがいくつか落ちて烏の餌になっていた。
(知らなかった)
スーパーには何回も行っていたはずなのに暗い道を下ばかり向いて歩いていたのかもしれない。
(ああいうの実は甘いのかな)
農家のように手入れされて甘くなるために何かしたいるのかは知らないが民家に生える柿の木はどれだけのものだろう。カズさんは食べたことがあるだろうか。帰ったら聞いてみよう。
話題を一つ手に入れてスーパーへと入る。思ったよりも客が多く賑わっている。入り口のすぐ側にある求人雑誌を手にして適当に食べられる物をいくつか買おうと売場を歩く。
パンをいくつか、それと今日食べてしまおうと弁当を二つ。更にタオルを何枚か。
あの廃アパートは電気ガスは勿論通っていないが水道は出ていた。ありがたいことに綺麗な水をいただけてかなり助かっている。使っていることがバレたらすぐに出ていくことになるが水道の水をタオルに浸して清潔を保つことにする。
買い物かごが半分ほど埋まりレジに向かうとく気付く。
「……ぁ」
勤めていた工場の同僚だ。
同じ年に就職し、同年代ということもあり初めの頃は話しかけられることも多かった。ただ次第につまらない返答ばかりの自分に構うことはなくなり先輩や上司に積極的に話しかけ可愛がられていた。立場としては同じだったと思う。独り身で世間的には若い方。それでも切られたのは自分だった。
その頃を思い出して暗くなりどうか気付かないようにと下を向いていると、彼はもういなくなっていた。何だか妙に惨めな気分になってしまった。
エコバッグを持っていないためレジ袋を貰い両手に買い物袋を持って帰路に着く。
その帰りがけにこのスーパーのゴミ箱の周りに空のペットボトルや空き缶が捨てられずに放り投げられていた。ゴミ箱に入れることすら面倒になり適当に投げて帰ってしまったのだろうか。買い物袋を片手にまとめて持ち、捨てられていたペットボトルや空き缶をゴミ箱に捨てていく。後で手を洗おうと顔を上げた時だった。
「ありがとう」
ここのスーパーの清掃の人だろうか。高齢の、男性がこちらに目尻を下げてお礼を言った。
「捨ててくれたでしょ?ありがとう」
「あ、いえ…大したことじゃ」
「捨ててくれたやつね。車で来たお客さんが車から降りないで窓からぽーんって投げたのよ。呆れてとりあえず片付けようとしたらあなたが捨ててくれた」
「そう、なんですね」
「だからありがとう。これどうぞ」
そう言ってポケットからコーヒー味の飴を三つくれた。面と向かってお礼を言われたのが今更照れ臭くなり頭を下げて足早に去って行った。
廃アパートに帰って来るとまた周囲を見渡して誰もいないことを確認すると足早に中へと入る。
「カズさん、戻りました」
「おかえりなさい」
また中から紐を付けて外から開けられないようにする。そこでふと気付く。
「カズさん。俺がいない間開けっ放しだったんです?」
「まあすぐ戻るだろうと思ってましたし」
「また肝試しされるかもしれませんよ?」
「なら次はとびっきりの脅かしでいきますか?」
「やめておきましょう…」
意外と大雑把な人なのかもしれない。
買って来た荷物を置いて片付けてスーパーにあった求人雑誌に目を通す。
明るく楽しそうな職場の写真に未経験者歓迎の文字。人を呼び込むために明るく楽しく振る舞っているが実際はどんなものか分かったものじゃない。大体明るく楽しい職場なら人が辞めることも少ないだろうとため息を吐く。
「どうしました?」
「求人雑誌…読んでるんです」
「どうです?」
「気が滅入るばっかりです」
「やりたくないものはやりたくないけどやらないと食えない年齢ですからね」
「黙々と一人でやれる仕事が、欲しい…」
「俺はサクラやってみたいですね」
「…花に?」
この言葉にカズさんが笑った。冷静に考えればそっちの桜ではなくて仕込みとかのサクラだろう。
「盛り上げる役とかね」
「そういうの、募集してるんですかね?」
「テレビ関係ならありそうですね。わざと驚いて下さい。一般人のふりして下さいって」
「…ちょっと面白そうですね」
「ね、言うだけなら自由ですよ」
「言うだけ…」
「タナカさんも何か出来ないけどやってみたいこととか口に出したらどうです?」
「え?」
カズさんに言われて考える。
出来ないけどもやってみたいこと、諦めてばかりの自分にそんなものがあったかと思い返す。
子どもの頃の記憶から遡り今の大人になるまで考えて口から滑り出る。
「…何か大事にしたい?」
「え?」
「…えっと、あとは大声を出したい、とか?」
「大声を?」
「…大声を出して…思い切り大声を出してみたい?ですね…?」
「そうなんですか?」
「…多分?」
少しカズさんの困惑した感情が分かった。
自分でも困惑している。何が言いたいのかときっと困らせてしまったのだろう。人と会話など慣れていないのに顔が見えないことを良いことに要らぬことまで言ってしまったと後悔していると襖の向こうから「あ」とカズさんが思い付いたように言う。
「タナカさん。あれだ、自分を大切にしたら?」
「自分を?」
「こっからは俺のタナカさんの分析です。聞き流して良いですよ」
「俺の分析?」
「人と話すの苦手なのも積極的になれないのも、自分に自信がない」
「…まぁそうですね」
「家族もあんまり、良い関係ではない?」
「兄が中心ですからね」
「自分が大人しくしてるのが最善だって思ってここまで大人になったんだ。優しいけど自己犠牲もひどい。さっきの大声を出したい、大切にしたいは自分が抑え込んだやつだ」
「……」
「ならまずは自分に対して大声で自分最高とでも言って…そんで自分の好きなものでも食べて大切にしましょう」
「…結構自分本意に生きてると思ってました…」
「自分本意ならここでホームレスする職なしじゃないですよ。ここに来た理由、思い出して下さい」
「そっか、そっか…」
「タナカさん」
名前を呼ばれる声が近くなったと思いその方向を見ると僅かに開いた襖の隙間から手が出ている。自分より少し小さい、カズさんの手だ。
「握手を」
「握手?」
「俺、タナカさんは幸せになれる人だと思います」
「そう、ですか?」
「うん。あなたはきっと優しい」
「そんな、」
「ここに誓います」
タナカさんの手が揺れる。
招くように動く手に少し戸惑いながら手を伸ばすと痛みが走りお互い手を引っ込めた。何の手入れもしていない手は静電気がすぐ走る。
「しまらねぇな」
「…本当に」
そう言ってお互い笑った。




