21.国を捨てて
ここからカルロのお話になります。
俺が生まれたのはある国の王宮の中だ。後宮内の最も離れた一画に母さんと住まいを与えられていた。
酷く寂れた宮だった。この国の王が父親らしいが顔を合わせたことは一度もない。母さんが俺を身ごもっても興味を示さなかったらしい。
母さんは貴族ではない。神殿で巫女をしていた。お忍びで神殿に参拝に来た王の目に留まり王宮に召し上げられた。王と神殿は対立していて神殿のトップの神官長が不在の時で庇える者も逆らうことが出来る者もいなかった。戻った神官長は母さんを神殿に戻すよう抗議したが身ごもっていることが発覚するとやがて諦めた。王は神官長のお気に入りの巫女を奪うことで嫌がらせをしたかっただけのようだ。母さんを見初めたわけでも愛があったわけでもない。だから王宮に連れて来て放置した。母さんは好きでもない男の子供を産んでも憎まずに溢れんばかりの愛情を注いで育ててくれた。
アーディル・カルロ・イスハーク。それが俺の生まれた時の名前だ。誰にも望まれない子を母さんだけは言祝いでカルロと名をつけてくれた。アーディルは文官が儀式に則って付けた名前だ。俺の母さんの名前はラティーファ。漆黒の髪と瞳を持つ。この色はこの国では一般的だ。母さんは平民の子として生まれたが貧しさゆえに孤児院の前に捨てられていたそうだ。そしていつしか神に仕える巫女となった。
「カルロ。私の宝物。愛しているわ」
住まいは与えられているが食事や衣服は支給されない。俺たちの生活は神殿から母さんに上納されるもので賄われていた。贅沢は出来ないが親子二人がひっそりと生きる分には十分だった。俺たちは軽んじられていたので検閲も甘い。神殿の力を恐れる者もいるので搾取されることはなかった。
俺は一応、第十三王子という立場らしいが誰も王族と認めていないのですることがない。きっと俺の存在そのものを知らない人間の方が多いのだろう。もちろん家庭教師などはつかないので母さんに勉強を教えてもらう。外に出ることは許されていなかったがそこそこ広さのある宮を駆け回り俺は伸び伸びと育つことが出来た。母さんからも絶対に宮から出てはいけないと注意されていた。外に出たいという好奇心はあったが母さんはうるさいほど繰り返すので素直に言いつけを守った。
「カルロ。愛しい子。あなたの目がとても好きよ」母さんは幼い俺にそう言って優しく眦に触れる。母さんは俺への愛情を惜しまない。だから自分を卑下することも心が捻じれることもなかった。
俺が十歳の時にクーデターが起こったことで王が弑された。詳しいことは分からないが神殿が後ろ盾となった幼い王子が王になったと聞いた。父だと言われている王が死んだところで何の感慨もないが俺たちはこれからどうなるのか不安だった。まだ子供の自分に出来ることがない。母さんを守って王宮を出て暮らしていけるのか。ところがいつのまにか母さんは出奔する準備を整えていた。そして神官長の手引きで王宮から脱出した。国を出て分かったが混乱を避けるためクーデターの事実は伏せられ民には王は病死と公表されていた。それだけ準備が整えられていたということだ。
神官長とは幼い頃に一度だけ会ったことがある、記憶はおぼろげだが優しそうな人だった。出奔する前に母さんと俺を秘密裏に見送りに来てくれた。
神官長はこの国では珍しい銀色の髪を持つ美しい男だった。彼の出自も平民で名をハリルという。母さんと神官長は同じ孤児院出身の幼馴染だと言っていた。二人を見れば互いに信頼しあっていることが分かる。ハリルが母さんに向ける眼差しは強く深い。母さんが王に連れて来られなければ違った未来があったはずだろう。別れる前に母さんとハリルは束の間抱き合って何かを話していた。母さんから体を離すとハリルは俺を優しい目で見つめる。まるで記憶に焼き付けるように。そして俺の体をそっと抱きしめると宝物に触れるように背をゆっくりと撫でてくれた。優しく慈しむような手だった。
「カルロ。強く生きていけ。そしてお母さんを守るんだ。できるか?」
「できる!」
それは俺にとって誓いとなった。
ハリルを見たのはそれが最後だ。別れは呆気なくまるで二人はずっと前からこの別れを覚悟していたかのようだった。脱出しながら思い出すハリルの顔。俺の目は彼の切れ長の目とよく似ていた。
母さんは僅かではあったが宮にあった金目のものを持ち出していた。更にハリルが銀行に金を用意してくれていたので無駄遣いさえしなければ路頭に迷うことなく旅が出来た。当てはないと言いながら母さんは目指す場所を決めているように旅を続ける。女と子供だけの二人旅なのだから、盗賊などの危険は際限なくあるのに一度も危ない目には遭わなかった。俺は国を出て初めての旅に興奮した。色々な国、その景色は新鮮で楽しかった。優雅な旅行のようだった。ずっとこの生活が続くと思っていた。
二年ほど旅を続けたところで海の見える場所に着いた。生まれた国から遠く遠く離れた場所だ。
「海がずっと見てみたかったの」
そう呟いた母さんは顔色が悪くだいぶ痩せていた。少し前から病にかかっていた。これ以上の旅は無理だと分かっていた。俺たちの旅は突然終わった。宿から海を見て過ごす日々。母さんはこれ以上にないほど穏やかなのに俺は恐怖を感じていた。母さんに残された時間が迫っている……。色々な国で文化や言語を覚えた。平民として生きる知識も身につけたが十二歳になったばかりの自分が一人で生きれるのか。そして母さんがいなくなれば天涯孤独になる……。それは酷く恐ろしいことだった。
「今日は外で食べましょう」
母さんはこの頃、体を起こすのも辛そうになり、屋台で買ったものを持ち帰り宿で食べていたがこの日は珍しく外に行きたいと言い出した。
「たまにはいいね」
気分転換になるだろう。この街に着いたころに何度も食べに行ったお気に入りの古びた食堂へ向かう。味はなかなか旨い。すっかり食の細くなった母さんが半分食べ終えたところで突然立ち上がり、斜め前に座る男に話しかけた。
「お兄さん。あなたの探し物の場所を教えてあげるから私のお願いを聞いてくれる?」
その男は若く逞しい体をしている。頬に傷があり明らかに荒事を生業にしている。
「あっ?! 突然なんだ? 馴れ馴れしい。一体何を企んでいる?」
「何も企んでいないわ。取引をしたいとお願いしているの」
男は怪訝そうに眉を寄せたが母さんの言う“探し物”に反応した。
「あんたの望みはなんだ?」
「あなたは探し物を見つけたら故郷へ帰るのでしょう? だから私が死んだら息子をあなたの旅に同行させて欲しいの。そして少しだけ鍛えてあげてくれる? そのあとはきっと自分で生きていけるから」
「母さん!! 馬鹿なことを言うな」
「カルロ。ごめんね」
そんなの聞きたくない! 母さんは悲しそうに笑う。自分の死がいつ訪れるか確信しているのだ。
俺は一緒に旅をしていて気づいていた。母さんは何故かこれから起こることを、未来を知っている。雨が降り出す前に行動し濡れるのを回避する。一回なら偶然だが必ず毎回だ。盗賊が出ると言われている危険な道を敢えて進んだかと思えば俺たちは無事だ。街に着いた時、本来安全だと言われている道で旅人が襲われたと聞いた。始めから知っていたかのように危険を回避する。
俺は二年前のあの日、国を出た時のことを思い出す。母さんは王が討たれることを知っていて準備をしていたのだ。神殿が動いていたことは知らなかったはずだ。神殿からの差し入れや手紙は検閲されている。さすがにクーデターに関わることが書かれていれば取り調べられるか、手元には届かない。王宮内で俺たちは孤立していて情報を得ることは出来なかった。それなのに母さんはあらゆる情報を知っていた。そうでなければ突然のクーデターに対応して出国できるはずがない。俺は母さんが取り乱すところを見たことがなかった。ここでこの男に会うことも自分が死ぬことも、そして俺がそのあとどうなるのかも知っていたと確信した。母さんには未来を視る力がある。
男は困惑しながらも少し思案すると頷いた。
「いいだろう。俺の望むものがどこにあるのか教えてくれ。手に入れば必ず約束を果たす。俺はドマニ。傭兵をしている」
「私はラティーファ。この子はカルロよ」
「聞きなれない名だな」
「私たち、遠くから来たのよ」
「訳ありか。まあいい」
「探し物が見つかったら宿に来てくれる?」
「ああ、分かった」
母さんはドマニに耳打ちをした。男はすぐに立ち上がり店を出て行った。
「母さん。見ず知らずの男を信用するのか?」
「あの人は大丈夫よ。あなたを託せる人なの。お母さんは一度も嘘を言ったことがないでしょう?」
「うん」
確信を持って断言する母さんにこれ以上反論は出来なかった。翌日から母さんの体調は悪化した。男は一週間経っても宿に来ない。
「約束を反故にしたのかもしれない」
「大丈夫。彼は必ず来るわ」
母さんの予知は絶対だと知っている。だから男は探し物を手に入れたはずだ。それなのにこないじゃないか。怖い。心細い。一人にしないでくれ。母さんは最近、一日のほとんどを眠っている。医者を呼んだが、ただ首を振るだけで痛み止めだけを置いていった。
空は赤く染まり夕暮れ時だ。窓から差し込む西日が眩しい。じきに日没が訪れる。カーテンが風で揺れている。胸に居座る不安から目を逸らした。水差しに水を足しに行って戻ると母さんが目を覚ましていた。どこか遠くを見ている。
「母さん。起きたのか? 何か食べる?」
「ハリル。カルロを……守って。もうじき会いに行くから……」
「母さん?」
夢? 嫌だ。やめてくれ。母さんを連れて行かないでくれ!
「母さん!」
母さんがゆっくりと俺を見た。二度三度と瞬くと儚く微笑んだ。そしてやせ細った手を伸ばす。俺は去りゆく命を引き留めるようにその手を強く握った。
「カルロ。私が死んだら私のペンダントをお守りに持っていて。絶対になくしては駄目よ。いつか……あなたの願いを叶えてくれるものだから……。あなたは絶対に幸せになれるのよ。だからお母さんは安心して逝ける……」
母さんは真っ白な丸い石のペンダントを常に身に着けていた。以前、これは何かと聞いたことがある。「ただの石よ。でも必要なものなの」その意味はよく分からなかった。それは今も首に下っている。
「死ぬなんて言わないで。俺をおいていくなよ」
「ごめ……ん……ね。あいしてる……」
握っている母さんの手の力が失われ俺の手からゆっくりと滑り落ちる。零れ落ちていく命に縋りつくように呼んだ。
「母さん!! 母さん!!」
駄目だ。まだ逝かないで。俺を一人にしないで。父さん、母さんを連れて行かないで。
「かっ……かあさん……」
空は漆黒の幕を下ろし部屋は暗くなった。返事はもうない。母さんは目を覚まさない。
「うっうっ…………」
俺の涙が母さんの手の上にポタポタと落ちていく。母さんが微笑んでいるように見える。そこに苦しみはない。嬉しそうな表情……。そこに父さんがいるのか? 父さんが迎えに来たのか? 俺は、俺は……。
その時ドタドタと乱暴な足音が部屋に向かって来た。
「遅くなった」
ドマニの声がした。背後で息を呑む声が聞こえた。俺は母さんの体に縋りつき情けなく泣いていて返事が出来ない。ドマニは俺の背を叩くと母さんに向かって言った。
「ラティーファ。お前は約束を守った。だから俺も約束を果たす。カルロのことは任せておけ」
「うっ……母さん……」
母さんは俺をドマニに託すためにこの海の見える街まで病の体を引きずるようにして旅をしてきた。どこまで先の未来を見ていたのか俺は知らない。一度も聞かなかったし、母さんも話さなかった。
だけど母さんは俺にとって最善の道を与えてくれたのだと思う。それならば俺はその道を行こう。手で強く涙を拭った。
母さんの言葉を思い出しペンダントに手を伸ばせば真っ白な石は黒く染まっていた。
「どうして?」
まるで母さんの魂を吸い取ったかのような漆黒の石。理由は分からない。母さんは肝心なことは何一つ教えてくれなかった。それでも以前一度だけ寂しそうに呟いた。「未来を知ることはいいことじゃないから」と。俺はペンダントを自分の首に下げた。
母さんは今まで見た中で一番幸せそうな顔をしていた。