16.ジェンナ
ジェンナはダマート子爵家の娘だった。爵位は低いがそれなりに裕福な生活をしていた。両親に愛され専属の侍女や子守がついて、豪華な食事をして好きな物を買ってもらっていた。頭も悪くない。何よりも私は可愛い。明るいオレンジ色の髪にガーネット色の瞳、やや童顔で目がぱっちりとしている。笑顔は最高のお化粧よという母の教え通りに無邪気な笑顔を振りまけばチヤホヤされた。これだけ可愛ければいずれ素敵な男性に見初められるかもしれない。そんな夢を見る幸せな日々を過ごしていた。
見初めてくれそうな子息の候補には心当たりがあった。ピガット侯爵家のステファノだ。私の母の妹である叔母はステファノの乳母をしていた。お使いで叔母に会いに行けばステファノが声をかけてくれる。一緒に遊ぶこともあったし、高級なお菓子をくれることもあった。ステファノは澄んだ青い瞳にアイスブルーの髪を持つとても綺麗な男の子だった。いつだって優しくしてくれる。きっと彼は私のことが好きなんだと思っていた。
私が十二歳の時、父が友人に勧められて投資に手を出した。お金を預けたその友人は消えた。騙されたのだ。人のいい父はその友人の言いなりになり借金までして作ったお金をすべて渡していたので、すぐに借金取りが押し寄せどうにもならなくなり破産した。爵位を返上し平民としての貧しい生活が始まった。
昨日までの暮らしとは一変して風に吹き飛ばされそうな家での生活は辛かった。寒くてひもじい。服だってみすぼらしくお風呂にだって入れない。不衛生で毎日お腹が空いて眠れない。両親は一生懸命働いたが慣れない仕事と貧しい暮らしに体調を崩した。そしてその年に流行した病に罹患し二人は呆気なく亡くなった。
私は悲しみより怒りを抱いた。両親は優しい人たちだった。こんな死に方は相応しくない。どうして誰も助けてくれないのか。世界の全てが憎かった。でも自分には何もできない。私は参列者のいない寂しい葬儀を終えるとピガット侯爵家の叔母を頼った。叔母は両親に手を差し伸べてはくれなかった。自分の生活だけで大変だから助けることは出来ないと冷たく突き放したのだ。そのことで罪悪感があったのだろう。渋々ではあるが孤児となった私を侯爵様に頼んで下女として住み込みで働けるように口を利いてくれた。
働けることが決まると期待した。不運な私をステファノが救ってくれることを。だが彼は平民になった私に目もくれなかった。下女として働く私に声をかけることはない。ピガット侯爵家の人間は選民意識が高かった。平民となった私は敗者であることを思い知らされた。シンデレラのようなことは起こらない。幸せは自分の手で掴むしかないのだ。
「いつかこの生活から抜け出してやる!」
私は必死で働いた。仕事を覚え使用人仲間には腰を低く接し好感を持たれるように努力をした。貴族だったことのプライドなんてとっくに捨てた。そんなものあっても役に立たない。私の働きぶりは認められ下女からメイドへ、しばらくするとステファノ付きの侍女となった。
ステファノへの幻想はすでに持っていない。彼が王子様などではなく傲慢でナルシスト、そして金にだらしない男だと知っている。
彼は賭博にのめり込んでいる。特にポーカーが好きだ。負け負け負け、そして勝ちがくる。自分は強いと勘違いしているが、私から見れば彼はカジノでカモにされている。勝ったと浮かれているが金額を見れば大きく負けて借金が増えている。勝ちに気を取られ負けたことを気にしていない。借金は勝って取り返せばいいと考えている。自分の実力を過信している愚かな男。
外面のいい彼は社交界で人気だが特定の恋人はいない。いずれどこかの金持ちの家に婿入りすることを望んでいる。そのときのために醜聞を気にしている。
ある日、ステファノは私に手を出した。娼館に行くお金があればカジノに行きたいのだろう。私の存在はちょうどよかったのだ。私は平民になったことで貞操にこだわらなくなったので受け入れた。ただし見返りを求めた。
「宝石が欲しい?」
「ステファノ様が購入されている絵画の方が宝石よりもずっと高額です。それに比べればたいした額ではありません。もちろん大きな石でなくてもいいのです」
「まあ、そのくらいならいいか」
私にとって宝石は豊かさの象徴だ。宝石があると心が満たされる。ステファノはカジノで大きく勝った時はそれなりの宝石をくれた。私はまるで娼婦のようだと自嘲した。愛のない男と関係を持ちその代償に宝石を受け取る。キラキラ光る石に見惚れていても無性に虚しくなる。本当の意味で心は満たされなかった。
もし父が騙されなければ、没落しなければ、傅く生活ではなく、傅かれる生活を送っていたのに。
ある日、ステファノに呼び出された。
「モンタニーニ公爵家のお嬢様の侍女になれですって?」
「ああ、あの家に婿入りしたい。手を貸して欲しい」
ステファノは文官として働いていたが、賭博の借金返済のために公金に手を付けたことが発覚しクビになった。侯爵様が尻ぬぐいをしたようだが、平民となって家を出るか自分で婿入り先を探すように言われたらしい。侯爵様はお荷物をどうにかしたいのだ。
そこでモンタニーニ公爵令嬢に目をつけた。世間知らずのお嬢様ならステファノでも落とせる算段らしい。だがモンタニーニ公爵家で働くことで一体私に何のメリットがあるのか。ピガット侯爵家では信頼を手に入れそれなりの給金も貰っている。それ以上の待遇でなければ意味がない。
「私にメリットがあるの?」
「未来のモンタニーニ公爵の愛人だ。生活は保障されるし今よりは贅沢が出来るぞ。ジェンナ専用の屋敷だって用意してやる」
「愛人ねえ……」
日陰で生きるのは今と変わらない。でも、公爵の愛人なら生活はグンとよくなる。侍女として一方的に奉仕しなければならない生活からは解放される。欲をかき過ぎてはいけない。
「頼むよ。ジェンナ」
「まあ、いいわ」
ピガット侯爵様も賛成しているそうだ。ステファノが婿に行けばお荷物が片付き、さらに裕福なモンタニーニ公爵家と縁がつなげる。ロゼリアに婚約者が決まってしまう前に行動を起こすことになった。まずは私が侍女として公爵家に入りロゼリアの信頼を得た。そしてロゼリアのスケジュールをステファノに流す。御者も協力者だ。彼とステファノは闇カジノで出会い仲が良くなったらしい。
ステファノの計画だと破落戸に襲われている窮地を救って恩を売り、プロポーズをするそうだ。自惚れの強いステファノの考えそうなことだ。馬鹿馬鹿しい筋書きだが世間知らずなご令嬢なら騙されそうだ。ステファノの思惑通り事は運び彼はロゼリアと結婚した。
ところが――。
「ちくしょう! 婿入りしても全然自由になる金がない!」
ステファノは公爵家のお金をすべて自由にできると考えていたようだ。普通に考えればご当主が健在なのだから無理に決まっている。婿であって当主ではないのだ。私は乗る船を間違えたのかもしれない。
モンタニーニ公爵は予算をきっちり決め彼に余分な金を与えない。ロゼリアはステファノに惚れているが何でも許すわけではなく、きっちり線引きをしている。さすが公爵令嬢としての教育を受けているだけのことはある。
どのみち公爵が健在のうちはお金を好きに使うことは出来ない。私は愛人になっても旨味がないことに気付いた。引き際を考えなければ。
「ステファノ。話が違うわ。このままあなたの愛人になったとしてもちっとも贅沢できないじゃない」
「ああ、分かってる。だから最後の手段に出ることにした。公爵とロゼリアを葬る」
「えっ?!」
さすがに殺人はごめんだ。私は贅沢をして暮らしたいだけなのだ。手を汚すつもりはない。
「ジェンナ。上手くいけばお前は公爵夫人になれるんだ」
「公爵夫人? 私と結婚してくれるの?」
「ああ。ジェンナになら家政を任せられるだろう?」
「もちろんよ」
ステファノに対して愛情はイチミリもない。利益をもたらしてくれる相手だから側にいる。
ああ、公爵夫人! なんて魅力的な響きなのだろう。私はロゼリアの仕事ぶりを側で見ていたのである程度は把握できている。私なら出来るという自信もあった。公爵夫人になれば今彼女のものである豪華なドレスも素晴らしい宝石も全てが私のものになる。ステファノがくれた小さな宝石ではなく本物だと思える立派な宝石が!! それは大きな罪と引き換えにしても甘く抗い難い誘惑だった。
ステファノの計画は領地から戻ってくる公爵を襲い馬車の事故に見せかけて殺す。そしてロゼリアには毒を盛る。もちろん病死に見せかける。
私は実行する日までロゼリアに献身的に仕えた。ファッションや髪型のアドバイス、流行も教えてあげた。すると野暮ったかった女が美しくなった。自分の手腕に満足したが、別にロゼリアのためにしたことではない。自分のためだ。
ロゼリアを使って流行を上手に取り入れる方法をマスターする。彼女はいわゆる練習台だ。自分が公爵夫人になったときのための。
私には不満があった。ロゼリアの選ぶ宝石は小ぶりでつまらない。誘導して私好みのものを購入させるようにした。だってこれはもうすぐ私のものになる。掃除をしながら耳にイヤリングを当てる。「ああ、素敵」私のために存在する宝石のよう。
私は絶対に公爵夫人になってみせる。だから計画を実行する数日前にステファノに打ち明けた。
「ステファノ。子供が出来たみたいなの」
「えっ?!」
彼は狼狽し顔を青ざめさせた。
「嬉しくないの?」
「い、いや、嬉しいに決まっているよ」
顔が引きつっている。思った通りステファノは計画のあとに私を捨てようとしていた。試すつもりで妊娠したと嘘をついた。きっと身ごもっていれば責任を取って結婚するだろう。妊娠は嘘だがいずれ本当になればいい。彼は単純だからなんとでもなる。
ステファノは闇賭博の関係者からモンタニーニ公爵の暗殺を請け負う人間と父親のピガット侯爵からロゼリアに飲ませる毒を入手した。蛇の道は蛇というだけあって、悪い人間との繋がりが太い。あっという間に準備が整った。
そして実行の日が訪れた――。
馬車の事故とモンタニーニ公爵が行方不明との連絡が来た。ステファノはショックを受けたロゼリアを優しく宥める。私は彼女の好きなリラックス効果のあるお茶を用意した。シュガーポットには毒入りの砂糖が入っている。ロゼリアは普段砂糖を入れないがステファノが微笑みながら入れて溶かす。私は内心呆れながらそれを見ていた。一個で充分なのに二個も入れたのは万が一に備えてなのか……きっと苦しむ。酷い男だ。ロゼリアが紅茶を飲み干した。異変はすぐに現れた。
「あとのことは心配いらない。だから安心して死んでくれ。ロゼリアはこのまま義父上のもとに逝くんだ。どうかよろしく伝えてくれ。ああ! これでこのモンタニーニ公爵家のすべてが私のものだ。権力も、お金も、なにもかも!」
ステファノはうっとりと自分に酔いしれている。どうやら私のことを忘れているようだ。
「まあ、ステファノ。あなただけの公爵家じゃないでしょう? 私たち三人のものよ。私が公爵夫人でこの子が跡継ぎ。夢のようね」
「ああ、そうだな」
顔を引き攣らせながら同意する。
「ど、どう……し……て……」
苦しむロゼリアに私は微笑んだ。
「ねえ、奥様。あなたにはこの子のためにいなくなってもらわなくては困るのです。ふふふ。大丈夫ですよ。私、きっと立派な公爵夫人になってみせますから」
私は心の底ではずっとロゼリアを妬んでいた。没落して貧しい生活から抜け出すために使用人として働いてきた。でも私だって貴族だったのよ!! 可愛いと評判で没落さえしなければきっといい結婚相手が見つかった。ステファノのようなクズではなく素敵な人と巡り合えたはずなのに。
あなたは豊かな貴族の生活を奪われ平民としてお腹の空く日々を過ごすことがどれだけ惨めか知らないでしょう? 全てを手にする彼女が憎らしかった。ロゼリアの瞳が絶望に染まると私の気分は高揚した。自分の優位にうっそりと微笑む。
ロゼリアは目の前で苦しみながら息絶えた。
これでモンタニーニ公爵とロゼリアの葬儀を終えれば私たちは贅沢三昧の生活が送れる。ステファノと結婚するまでに少し時間を置く必要がある。私は妻を亡くしたステファノを優しく慰め献身的に支える侍女を演じればいい。
私は人生に勝った、全てを手に入れた。騎士団に行っていた執事には、ロゼリアは取り乱し毒を飲んで自害したと伝えた。不審な目を向けていたが証拠はない。彼女を納める棺を用意させ、私とステファノは成功の美酒に酔いしれた。輝かしい未来が手に入ったのだ。
その未来はあっという間に終わった――。
モンタニーニ公爵は生きて戻り、私たちは殺人容疑で捕まった。
私は騎士団の厳しい取り調べに耐えられず早々にステファノの企みの全てを話した。私自身は何も手を下していない。罪に問われない自信があった。
「私は一介の侍女です。ステファノ様の恐ろしい命令に逆らうことが出来なかったのです」
「騎士団に告げることは考えなかったのか?」
「彼の実家はピガット侯爵家です。もし密告を握り潰されたらと思うと怖くてできませんでした。私はロゼリア様に誠心誠意お仕えしていました。本当です! 屋敷の人たちはそれを分かってくれています。聞いてみてください!」
なりふりなど構っていられない。貴族の殺人の共犯なら断頭台行きだ。私は死にたくない。
「ステファノの子を身ごもっているそうだな?」
「いいえ! そんなの嘘です。彼との関係は無理矢理で私の意志じゃなかったのです。子供もいません」
ひたすらシラを切り通し、無実を涙ながらに訴え続けた。
結果的に私は釈放された。
具体的な共犯の証拠がなかったし、私とステファノの関係を知る者はいなかったので被害者だと言い募ればそれが本当か嘘か分かるはずがない。御者を抱き込んだのも破落戸を雇ったのもロゼリアに毒を盛ったのも全部ステファノだ。私はお茶を出しただけ。毒入り砂糖を入れたのは彼だ。
ステファノは全てを自供したそうだ。父親であるピガット侯爵が計画に加担した内容の手紙を証拠として騎士団に出したらしい。侯爵はモンタニーニ公爵殺害未遂の共犯とされ極刑になり侯爵家は取り潰された。彼は自分の家族を道連れにしたのだ。近いうちに彼も……。
行く当てのない私は平民街の中のひと際貧しい人たちが住む場所に向かった。ここは配給もあると聞いた。ところが住人は私を見るなり罵倒し石を投げた。
「モンタニーニ公爵様に仇なすような人間は許さない! お優しかったロゼリア様をよくも!! 出て行け!!」
過去に病が大流行した時にお金がなくまともに薬が買えなかった貧しい人たちは、タダ同然で薬を分けてくれたモンタニーニ公爵に感謝している。殺害の証拠があろうとなかろうと関わった以上は、彼らにとって私は恩人の仇で罪人なのだ。
この事件は大きく広まり私のことも殺人者の情婦として知られてしまっている。そんな女が住むところを見つけまともな仕事に就けるはずがなかった。娼館ですら門前払いされた。娼館も公爵家の薬に支えられている。
ステファノの計画に乗らなければ……侍女としてそれなりの生活は続けられていたはずだった。だけど金や宝石そして公爵夫人の地位が手の届くところにあるのに諦めるなんて出来なかった。私は幸せだった貴族の生活に戻りたかった。両親のように惨めに死ぬなんて嫌だった。
「ただ、失ったものを、もう一度、取り戻したかった……それだけだったのに……」
私は今度こそ全てを失った――。
私は彷徨うようにふらふらと歩いた。たどり着いたのはモンタニーニ公爵家の王都にある墓標だった。ロゼリアの亡骸は領地で眠っているらしいが王都で故人を偲ぶために建てたらしい。
そこにはロゼリアを悼むための花が一面に置かれていた。墓石が隠れてしまうほどの花々が溢れんばかりに広がっている。立派な百合の花もあれば道にあるようなコスモスやタンポポまである。地味な花は彼女を慕う平民たちが供えたに違いない。私が死んでも誰もこんな風に悼んではくれないだろう。これは罰なのか……。私はその景色を呆然と眺めていた。