【蝸牛を潰した日】
台本タイトルは【かたつむりをつぶしたひ】と読みます。
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♂4:♀2:不問0
出雲 歌音 ♀ セリフ数:91
〈大学二年生。義母に嫌われ、実母の方の祖父母の養子になる。祖父の通夜の為、五年振りに故郷に帰ってきた。忘れっぽい〉
古田 龍明 ♂ セリフ数:38
〈大学二年生。歌音の幼馴染。実家は喫茶店を営む。歌音の事が心配でたまらなかった〉
百瀬 一輝 ♂ セリフ数:33
〈高校三年生。なぜか義母に異様に好かれている。姉とは不仲ではなく、良好。義母には内緒で、来年にはひとり暮らしをする予定〉
爺ちゃん ♂ セリフ数:12
〈歌音の実母の父。寡黙で厳格な陶芸家。十年前に事故で妻を亡くしている。歌音の事は比較的甘やかしていた〉
義母さん ♀ セリフ数:24
〈歌音と一輝の父の再婚相手。六年前に再婚した。一輝の事を母としてではなく、少し違った目で見ている時がある。歌音が嫌い〉
父さん ♂ セリフ数:26
〈歌音と一輝の父親。再婚した相手に追い出された形となった歌音に申し訳ない気持ちでいっぱい。でもあまり主張がない、影の薄い人〉
[あらすじ]《35分程度》
祖父の葬式。五年振りに帰ってきた故郷の景色に、思わずため息が出た。ニコリともしていない祖父の遺影に、相変わらずだなぁ、なんて笑みが零れる。
遠くからヒステリーを起こす義母の声が聞こえて、数日はこれか。と肩を竦めたのだった―――。
【歌音N】
爺ちゃんが死んだ。心臓発作だった。
私と暮らした五年間、病気をしたり、怪我をした事なんて無かった、…と思う。
自分にも他人にも厳しくて、自分ルールが凄くて、多分自分の爺ちゃんじゃなかったら、偏屈な老害呼ばわりしてたろうな。
爺ちゃんと婆ちゃんが、私の父さんと母さんになったのは五年前。苗字が百瀬から出雲になって、亡くなった実母の妹になった。
正直に言えば、『ちょー複雑』だ。『ちょー面倒』だ。
でもあの時の私と、そして今でも仲の良い弟を守る為には、仕方のない事だったと思う。
【一輝】
姉ちゃん、葬儀屋さんが呼んでる。
【歌音】
うん…、今行く。
【一輝】
さっき言おうと思って言わなかったんだけど、……ちょっと太った?
【歌音】
健康的になったって言ってくれる? 爺ちゃんのお陰で着たかった服のウェストを締めなくて良くなったんだから。
【一輝】
でも、やっぱりちょっと太ったと思う。
【歌音】
デリカシーの無さをフォローしてやったんだから、そこで止まっときなよ。
…まあいいや、葬儀屋さん何て?
【一輝】
さあ? ただ『呼んできてください』としか。
【歌音】
(面倒そうに息を吐いて)
…りょーっかい。
✼✼✼
【義母さん】
またよ! またあの子が一輝君の事をいやらしい目で見てた! 本当よ!?
【父さん】
ルリコさん、歌音と一輝は血の繋がった姉弟だよ? 二人に限って、そんな事…あり得ないよ。
【義母さん】
“あり得ない”!? 血が繋がっていようがいまいが、男女の関係に境なんてないのよ、キョウイチロウさん! このまま一緒に、あんな子と生活なんて狂ってしまいそうだわ!
【歌音N】
これが、六年前に再婚した父のお相手の主な言い分だった。
私が弟を性的な目で見てる、だとか。私が弟を襲うんじゃないかと毎夜眠れない、だとか。
…疲れないんだろうか、そういう事を恥ずかしげもなく怒鳴り散らかして。
こっちはたった一年で、義母以外の三人が窶れたっていうのに。
私はそこまでじゃなかったけれど、父と弟が酷かった。人相変わってんじゃないかと思うほど、痩せてしまっていた。
そんな状態を無視できるほど、薄情ではなかったし、何より私が居なければ義母は普通らしかった。
だから、自己犠牲心が強いなとは思ったけれど、私が家から出ていくのが一番だな、と考える他なかった。
【爺ちゃん】
歌音、仏壇の水換えとけ。
【歌音】
はーい。
【爺ちゃん】
…あと、隣の爺さんから沢庵貰った。
【歌音】
隣のって、蓮見の爺ちゃん? 先月もそうだったじゃんね。そろそろボケてきたんじゃない?
【爺ちゃん】
ここらも耄碌してきたからな。
【歌音N】
爺ちゃんとの生活は、すごく気が楽だった。厳しい人だったけど、私は初孫だったし、多分他の人より甘やかされてた。
小さい頃、婆ちゃんがヒミツだよ、なんて照れたように笑って教えてくれた事がある。
例えば、私の読んでるマンガについて、爺ちゃんの娘、つまり私の本当の母さんに聞いてたとか。
例えば、私が苦手と言って端に寄せた野菜をよく覚えておいて、婆ちゃんが料理をしてる時に、それは退けとけって言ってきたとか。
ぶっきらぼうで、不器用で、分かりにくい愛。小さな頃は分からなかったソレが、大人になると何となく分かる。
大きくなってからの爺ちゃんとの生活には、自然と笑みが溢れていた。
【爺ちゃん】
歌音、裏の畑行くぞ
【歌音】
はーい。
【爺ちゃん】
麦藁帽被ってけよ。
【歌音】
ふふ、はーい。
【歌音N】
義母と暮らした一年間で、だいぶ痩せてしまった私は、元々太りにくい体質が災いして、随分と見窄らしい恰好になってしまっていた。
そんな私を心配してか、近所のおっちゃんおばちゃんといった、爺ちゃんの知り合いが自分の畑で取れた野菜や果物、自慢の手料理を届けてくれる事があった。
だからそのお礼にと、爺ちゃんは自分の畑で取れる野菜を私に持たせて、近所に配るように言うのだ。
近所の人は、家族と離れて爺ちゃんと暮らす私に何も言わないでくれた。
きっと、爺ちゃんが何か言っておいてくれたんだな、って今になって思う。
…爺ちゃんとの生活は…本当に気が楽だった。
✼✼✼
【龍明】
あっ
【一輝】
うわ、ストーカー。
【龍明】
誰がストーカーだよ。違えよ。
【一輝】
姉ちゃん、中だよ。
【龍明】
………居んの?
【一輝】
そりゃ居るでしょ、喪主だし。
【龍明】
喪主、…あ、そっか。
【一輝】
…毎月毎月、律儀に「歌音居ますか」つって家来てるクセに、何今更。
【龍明】
…いや、忘れられてねえかなってさ。
【一輝】
きっしょ。
【龍明】
最近の若いやつはすぐそうやって、きしょいとか言う! いや、まあ。俺もそう思うけどさ。
【一輝N】
もごもごと口籠る目の前の男は古田 龍明。姉ちゃんの幼馴染だ。
姉ちゃんの苗字が百瀬から出雲になった五年前から、月に一度は必ず我が家を訪れている、キモ………律儀な人。
姉ちゃんがこの家に戻ってくるわけないというのに、ある意味不憫なやつだ。
【龍明】
…あの人、変わらずな訳?
【一輝】
今日の朝、何つってきたと思う?
【龍明】
部屋から出んなって?
【一輝】
“悪魔に絆されちゃ駄目よ、ちゃんと私の息子でいてちょうだい”…だとさ。
【龍明】
うっわぁ…。
【一輝】
ホントに、さっさと離婚してくれねえかな。
【龍明】
もうすぐなんだろ、借金の返済。
【一輝】
一応はな。アレがそんなので手を引くと思えねえけど。借金は返したんだから、これで真の家族ね、とかそんな事言い出すに決まってる。
【龍明】
…おじさんが離婚したら、歌音戻ってくっかな。
【一輝】
どうだろ。爺ちゃんの遺産は姉ちゃんに行くし、あっちの家からの方が大学近いし。…俺はどっちでもいいし。
【龍明】
…そ、っか…。
✼✼✼
【歌音N】
通夜が終わった。
たくさんの人が爺ちゃんの死を悼んでくれた。葬儀屋さんが、爺ちゃんの見た目を整えてくれて、このまま目が覚めそう…とは思わなかったけど、少しだけ“気味悪さ”が無くなった。
義母とは話さなかった。
というより、姿を見かけなかった。弟も、朝にまた変な事を言ってきて、それから見てないというし、父さんは父さんで忙しそうにしていたから、あまり話せていない。
通夜の途中、遠くから聞こえたヒステリーボイスは確実に義母のものだと思うけれど、…まぁ触らぬ神に何とやらだ。
…棺に入った爺ちゃんを眺めながら、ひとつ思い出す。
爺ちゃんの家で、一度だけ。たった一度だけ、義母の事で泣いた記憶。
【爺ちゃん】
こっちは浅場のジジイに、こっちは迫田のババアに。あとこれ回覧板。
【歌音】
はーい。…ねえ、これ。父さんから。
【爺ちゃん】
キョウイチロウか。相変わらず真面目な奴だ。
【歌音N】
年に何十回か。父さんは爺ちゃんの家へ顔を出す。
私と話す為、だったり。爺ちゃんに挨拶をするのに、だったり。
話すヒマもないくらい忙しかった時は、部下の人に手紙を届けさせた事もあったっけ。 流石に恥ずかしかったから、次からはヤメテと苦言を呈したけれど。
その何十回かの内の、何回か。家に届く分厚い封筒には父さんの手紙がたくさん包まれている。
内容はありきたりな。“普通の”手紙。
だけれど、その手紙の一枚には必ず、謝罪の言葉がたんと書き綴られている。私と、爺ちゃんに向けて。
この手紙だけはどうしても苦手で、今回は入っていませんようにと祈っても、期待から目を背けるように封筒のどこかに隠れている。
【歌音】
…義母さんは相変わらず、だって。
【爺ちゃん】
アレの話をするな、あんなもの母親でも何でもない。
【歌音】
…うん。
【爺ちゃん】
それより、さっさと野菜届けてこい。浅場のジジイは昼から医者んとこ行くからな。早い方がいい
【歌音】
はーい。
【歌音N】
爺ちゃんはアレが。父さんの再婚相手が大っ嫌いだった。
まあ、初孫がこんな扱いを受けていれば当然なのだけれど。
一応、父さんは爺ちゃんに再婚の報告をしたらしいけれど、義母は一度も顔を出した事が無いらしい。
それも気に入らないと言っていた。
(間)
…爺ちゃんと一緒にいるのは苦にはならないけれど、…けれど、やっぱり。
好かれたかった、と思うのだ。切実に。
何をしてしまったのだろう、と思うのだ。痛切に。
(間)
爺ちゃんが作業部屋に籠っている午前中の縁側で。
そんな事を無性に考えてしまって。
あ、だめだ。
そう思った時には涙が止まらなくて、みっともなく大声で泣き喚いてしまっていた。
何かをぶつける音と大きな物を倒した音がして、爺ちゃんが少し驚いた顔をして駆け付けてくれた。
【爺ちゃん】
(息を切らして)
…歌音、どうした。
【歌音】
……っ、わ、かんない、ごめんなさ、いっ…
【爺ちゃん】
(察して)
………。
謝るな、お前は何も悪くないだろ。
【歌音】
…だっ、て、…だって…!
わたしも、あいされたかった、…! かずきも、とうさんも、…ずるい…、わたし、なにかした…っ? かずきのこと、…そんなめで、みてない、っみたことないぃ…!
ッわかんないっ、わたしなんにも、なんにもしてないのにぃ…!!
【歌音N】
溢れた思いは止まらなくて。醜いからと、奥へ仕舞い込んだ感情が涙と一緒に流れ出た。
爺ちゃんはそんな私の背中を、思ったよりも強い力で摩ってくれていた。
何も言わずに、ずっと。
私が泣き止むまで、ずっと。
✼✼✼
【龍明】
(少し上擦った声で)
……よ、よぉ。
【歌音】
……………………どちらさん?
【龍明】
まっじかよ。ガチで忘れてる?
【歌音】
えっ。ご、ごめんなさい?
【龍明】
喫茶フルタロー。そこの次男。
【歌音】
………もう一声。
【龍明】
ウッソだろ、おい。
(恥ずかしそうに)
……た、たっちゃんって…お前そう呼んでたろ。龍明だから、たっちゃんって…。
【歌音】
(暫く考え込んで)
…………………あー!! 勃つもんも勃たないたっちゃん! 思い出した!
【龍明】
ばっか! 夜なんだから大声出すな! つーか、それで思い出すのも複雑だなっ
【歌音】
アンタも声デカイよ。
……通夜来てたんだ、…おばさんも?
【龍明】
母さんだけ。…俺は、その。えっと、
【歌音】
…??
【一輝】
姉ちゃんに会いに来たストーカーです、って言えよ。
【龍明】
うおぁぁぁぁぁっ!!!??
【一輝】
うっるさ。夜なんだから静かにしなよ。
【歌音】
何? ストーカーって何の話?
【一輝】
月に一回必ず、家に来て「歌音居ますかー?」って言いに来てたへんた…律儀な姉ちゃんの幼馴染。
【龍明】
今“変態”って言いかけたろ! まあ、うん。そういう事…。
【歌音】
いや、何がそういう事? 何にも分かんないんだけど。月に一回って、五年間ずっと?
【龍明】
…ちょっとした、意趣返し…。…のつもりだったんだけど、気付いたら五年も経ってただけっていうか。
【歌音】
意趣返し…誰に?
【龍明】
………ヒミツ。
【一輝】
うっざ。何だその言い方。
【歌音】
こら、一輝。事実を言っちゃいけない時もあるんだよ。
【一輝】
ほーい。
【龍明】
失礼な姉弟だな。
【歌音N】
思い出した記憶の中に居た、“たっちゃん”は泣きながら鼻血を出していたり、すっ転んで泣いていたり、…うん。とにかくどの思い出でも泣いている奴だった。
ちょっとふっくらしていて、手を拳にしたら、クリームパンみたいだな、なんていつも思っていた。
そんな“たっちゃん”が、こんなイケメンになるだなんて、一体誰が想像出来たよ。クラスの中でも割とモテない方だった、ハズだ。
【龍明】
まあ、元気そうで良かったわ。
【歌音】
えっと、何か心配させたみたいでごめんなさい?
【龍明】
別に。俺が勝手にやってただけだし。今日こっち泊まんの?
【歌音】
うーん、適当にホテル取るけど。
【龍明】
えっ
【一輝】
まぁ、それがいいんじゃね? 今更家で鉢合わせてヒステリー起こされんのも面倒だし。
【歌音】
しかも聞いて、父さんからのお小遣いとごめんねのメモ付き。
っていうか、六万って。
何、スイートルームにでも泊まれって事?
【一輝】
金銭感覚も狂ってるよな、父さんって。
【歌音】
それもあるけど、申し訳なさも上乗せされてるでしょ。もっと別の形で示せっての。
…まあ、有難く使わせてもらうけど。
【龍明】
…あのさ、
【歌音】
何?
【龍明】
明日、朝早い?
【歌音】
いんや、明日は昼から葬儀場だけど、朝からは何もないと思うよ。何で?
【龍明】
…母さんも心配してたし、何か食いに来いよ。奢る。
【歌音】
ええ…、いや…何か悪いな、色々…。
まあ行くけど。何時? というか、行く前にメッセージ送るよ。連絡先………あ。
【龍明】
どした?
【歌音】
爺ちゃんトコにスマホ置いたままだわ、取りに行って来るから待ってて。
【龍明】
おー。
【一輝】
何普通にハブきにしてんの。俺も行くからね。
【龍明】
わーってるよ、そんな意地悪しないわ。
✼✼✼
【歌音N】
義母さんと仲良くしたいとか、そういうのはもう無いけど。
まだちょっと、微塵に。愛されたかったな、と思っている節がある。
今日、通夜の最中。もしかしたら何か話せるんじゃないかとか。そうでなくとも、少しくらいは気まずい顔をしてくれるんじゃないかとか。
そういう疚しい気持ちも少しはあったけれど、どうせ五年前みたいに拒絶されて、叫ばれて、私が加害者みたくなるのが目に見えてしまって、そういう気持ちには蓋をした。
【歌音】
はあーあ。色々うまく行かないもんだね、爺ちゃん。
【義母さん】
じゃあアンタが死ねば良かったじゃない。
【歌音】
っ、び、っくりした…。居たの。
【義母さん】
アンタが死ねば、いちいち喫茶店の息子が訪ねて来る事も、キョウイチロウさんがアタシとの時間を割いてアンタに会いに行く事も、一輝君がアタシを敵視するのもやめるでしょ。
【歌音】
たっちゃんの事は兎も角…あとの二つは義母さんの自業自得じゃない。
【義母さん】
うるさいっっ!!!!
アンタが死ねば良かった! アンタさえ……アンタさえ居なければ全部全部上手く行っていたのに!!!!
【歌音】
…………ねえ、義母さん。
【義母さん】
だっっれが!! アンタなんかの母親になるか! 巫山戯るな! 巫山戯るなーッ!!!
【歌音】
(冷静な口調で)
い、痛い痛い。分かった、分かったってば。髪引っ張らなくても言いたい事分かるってば。
とりあえず聞いてよ。
父さんがさ、こっちに来る余裕が無いときにさ、手紙書いて送ってくれるの。
何十枚もびっしり書いて、…真面目だよね。
【義母さん】
今度はキョウイチロウさんか!? 一輝君だけじゃ飽き足らず! 自分の父親にまで手を出してんのか!?!?
キョウイチロウさんに愛されてる発言してっけどな! 本当に愛されてるのはアタシ! アタシなの!
現にお前は追い出されて、今じゃ帰る家も無いもんな! あは! あははははっ!
【歌音】
はいはい、分かったって。
それでさ、二年前くらいからかな。父さんから送られてくる手紙にさ、妙な内容が紛れてくるようになったの。
―――何だと思う?
【義母さん】
聞きたくない! お前がキョウイチロウさんに愛されるはずがない! あの人はアタシと結婚したの! アタシのものになったの! お前なんかが!!! あの人の目に留まるはずが!!! 無いんだよ!!!
【歌音N】
案外、傷つかないもんなんだな、と。ヒステリックに叫び続ける義母を、冷めた目で見つめながら思う。
死ねばいいだの、愛されるわけがないだの、そんな罵倒を受ければ、ちょっとくらいは傷付くと思っていたのに。
傷付くとか、悲しいとか、つらいとか。
そういうのは全然感じなくて、おやまぁ薄情になったもんだと達観してみたけれど、嗚呼と。気が付いた。
【歌音】
可哀想だね、義母さん。
【義母さん】
(怒りで言葉を忘れて)
………っ!!!!!!!
【歌音N】
あ。と思った時にはもう遅くて。
振り上げられた義母の平手を呆然と見上げたまま、
【龍明】
何やってんだ、あんた。
【歌音】
たっ、ちゃ……
【義母さん】
離して! 離しなさいよ! たかが喫茶店の息子がいきなり偉そうに何よ! 離しなさい!!
【歌音N】
少し息切れしたたっちゃんは、義母さんの手首を掴んで離さない。
その力は女の義母では敵わないらしく、“離して”と叫んで暴れる割に、軸は全くブレていない。
【龍明】
歌音、怪我してねぇよな?
【歌音】
…ん、平気。…何でここに? そんな遅かった?
【龍明】
外まで丸聞こえだ、アホ。
【歌音】
なるほど。
【義母さん】
何よ! 何よもう!! 離せって言ってんでしょ、このクソガキ!
【龍明】
生憎あんたよりずっと大人だよ。
とりあえず一輝におじさん呼んで貰ってる。…あと近所の人が通報したらしい。
【歌音】
そんなに響いてたの?
【龍明】
まぁ。ここらは夜は静かだし、余計だろ。
【父さん】
歌音! 大丈夫? 痛い所無いかい?
【歌音】
大丈夫だよ、父さん。たっちゃんが助けてくれたから。
【父さん】
龍明君…歌音を助けてくれてありがとう、うちの妻が申し訳ない…!
【龍明】
いえ。
【義母さん】
キョウイチロウさん!! 違うの、違うのよ! こいつが! こいつがいけないのよ! 一輝君だけじゃ飽き足らず、キョウイチロウさんにまで手を出そうとするから!! どうせこの喫茶店の息子だって股開いて取り入ったんでしょ!?!?
【父さん】
(あまりの物言いに言葉を失って)
ル、リコさん…。
【義母さん】
だからアタシは悪くない!! こんなのおかしい! アタシが悪い訳ない! キョウイチロウさんもそう思うでしょ? だってアタシは貴方の妻だもの。貴方が選んだ奥様だもの。離して! 離してったら!
【歌音N】
支離滅裂な義母の言動に父さんは言葉を失って、呆然としている。
たっちゃんは義母の手首を掴んだまま、気まずそうにこちらを見た。…ごめんだけどそのまま掴んでてほしい。錯乱した状態の義母を野放しにはしたくないから。
父さんを連れてきてくれた一輝は、義母の事なんか見えてないみたいにスマホを弄りながら、私の隣に座っている。
【歌音】
父さん、言えないなら私が言うけど。
というか、言おうとしたらこの状態になったから、今言っても聞こえてるかどうか分からないけどね。
【父さん】
ん…うん…いや、僕が言うよ。お義父さんとも約束したし。
【一輝】
…どっちでもいいけど、早くしないとサツ来ちゃうよ。
【父さん】
ゔ…。分かってるよ。
あ、あのね? ルリコさん…。
離婚、しようか。
【義母さん】
……………………は…………?
✼✼✼
【歌音N】
二年前の夏。浅場の爺ちゃんに貰った大玉のスイカを抱えて家に戻ると、スーツ姿の父さんが玄関先に立っていた。
【父さん】
あ、歌音。ピンポン鳴らしても誰も出てこないんだけど、お義父さん居る?
【歌音】
多分作業場かな。締め切り急かしてくるって怒ってたから。
それよりも父さん、珍しいね。この時間は大体仕事でしょ。
【父さん】
ちょっとお義父さんに相談したい事があってさ。仕事抜けてきちゃった。
【歌音】
……そ。…じゃあ後でスイカ切って持ってく。
【父さん】
ありがとう。
【歌音N】
父さんにしては珍しい。と思った。
時間帯もそうだし、爺ちゃんに相談、なんて。
妙に胸の奥がザワザワした。
そもそも父さんって、ナヨナヨしてて優柔不断で、頼りないんだけれど。
一流の大学を出て、友人の伝手で社長秘書なんてものをやっているからか、頭がとても良い。いや、日常生活には何故か全く活かされて無いけど。
だからなのか、あまりこう。
他人に相談事とかしている姿は見たことないし、私自身された事が無い。
今回爺ちゃんを頼ってきたのは、きっと「家」の事でだ。
【父さん】
―――…お義父さんにはお世話になりっぱなしです。ウタノさんの事も…歌音の事も…僕が不甲斐ないばっかりに…
【爺ちゃん】
ウタノも歌音も身内だ。お前に頭を下げられる事じゃない。
兎も角話は分かった。知り合いにそういうのに詳しいのが居るから、話は通しておく。
だが、最終的に決めるのはキョウイチロウ、お前だぞ。
【父さん】
………はい、分かってます。後、あの…。歌音と一輝にも…僕から話します―――。
【歌音N】
セミの声をBGMに、スイカを切る。行儀良く並んだ黒い種が赤い汁と共にぽとぽと、と数個落ちる。
何の話、してんだろ。なんて考えてみてもあまり想像はつかない。
傍から見ると、気が合わなさそうな爺ちゃんと父さんだけど、趣味は合うらしく母さんが生きていた頃は、よく縁側で将棋や囲碁なんかしてたっけ。
最近はめっきり見なくなったけど。
【父さん】
美味しそうだね、スイカ。貰っていい?
【歌音】
っわ…! びっくりした。…話終わったの?
【父さん】
うん。お義父さんは作業場に戻っちゃったから、後でスイカ持っていってあげて。
【歌音】
うん、分かった。
【父さん】
まだ時間大丈夫だから一緒に食べよっか。
【歌音N】
庭がよく見える縁側に二人で並んで座る。
シャリシャリとスイカを食べる音がセミの声に紛れる。
…聞いても、良いだろうか。
それともまだ、知らない振りをしておくべきだろうか。
【父さん】
………歌音は、
【歌音】
うん
【父さん】
ウタノさんによく似てくれたね。…嬉しい。
【歌音】
よく考え込んで、一人でどうにかしちゃうのは父さんに似たねって母さんが言ってた。
【父さん】
ゔ…。
【歌音】
ふふ。…一輝は目元が父さんに似てる。性格は母さん似かな。懐に入れた人達以外、どーでもいいって感じの所とか。
【父さん】
歌音にもそういう所あるからね。ウタノさんや一輝みたいに明確な線引きしてる訳じゃないけど。
【歌音】
……まあ、ほら。他人は何しでかすか分からないじゃない。
で? 相変わらず話のフリが下手くそな父さんは何を話したいの?
【父さん】
ゔ。…そこもバレてるのか。ますますウタノさんみたいだね。
(言い淀んで)
あのね、その。離婚しようと思ってるんだ。
【歌音】
あ、やっと? 父さんにしては早い決断だと思うけど。何が父さんの堪忍袋の緒を切ったの?
【父さん】
(絞り出すような声で)
………………見間違いじゃなければ、中学生とキスしてた。
【歌音】
(喉の奥からドン引いた声が出て)
…………ゔっわぁ………。
【父さん】
今までの事が一番の理由だけど、「この人の事を今後赦してあげられそうにないな」って思ったキッカケは…それ…。
…だから、時間は掛かるけど…お別れするから…その、待ってて欲しいな。
【歌音】
(ため息を吐いて)
…母さんが言ってたんだけどさ、
【父さん】
………ん………?
【歌音】
“キョウイチロウは、ナヨナヨしてて優柔不断で、とーっても頼りない奴だけどな”、
【父さん】
(情けない声で)
ウ、ウタノさん…
【歌音】
“でも約束はちゃんと守る人だ。だからアイツが待っててくれって言うんなら、待ってやれ。やる時はやる男だ”…ってさ。
【父さん】
(泣きそうな声で)
ウ、ウタノさぁん…。
【歌音】
待っててあげるから、やる時は言ってよ。私もやられっぱなしじゃ納得いかないんだから。
✼✼✼
【義母さん】
うそ、うそ、うそ……うそよ………キョウイチロウさんが……キョウイチロウさんが…そんなこというハズ…ないわ……うそ、うそ…………こんなのうそだわ………
【父さん】
嘘じゃないんだ、ルリコさん。もう決めた事だから。後は君が頷いてくれれば―――…
【義母さん】
嘘よっ!!!! アタシはキョウイチロウさんの妻なの!!! 子持ちだって、バツイチだって、残念がってた女共とは違う!!!
キョウイチロウさんはアタシを選んでくれた!!! だからっ!!!! アタシのキョウイチロウさんがそんな事言うはずない!!!!
【一輝】
(小声で)
うっるさ…。
【義母さん】
ダメよダメよ、絶対にダメっ!! 別れない!! アタシ絶対に別れないから!! やだ、やだ!! そんな目で見ないでよ! いつもみたいに優しい目をしてよ! そんなのキョウイチロウさんじゃない!!
【歌音】
良い加減にしたら? 義母さん。
【父さん】
か、歌音…。
【歌音】
知ってるでしょ、父さんは貴方が好きで結婚したんじゃないってさ。
【義母さん】
………っ!!
【一輝】
こう見えて俺達よりイカレてるからね、父さんって。会社でもその片鱗くらいは見せてんじゃない?
【父さん】
ちょ、ちょっと二人とも酷くないかい?
【歌音】
しかも無自覚。救えないね。
よく考えなよ、義母さん。
再婚相手がイカレてるからって、当時齢十五の小娘が家から出る事を許すような男だよ?
【一輝】
再婚した理由もまじでキチガイなんだよな。
ただの平社員の女の借金、一括で払って、その女が借金返すまでで良いから結婚してくれって縋ってきたら、ホイホイ結婚しちまうんだもんな。
【義母さん】
……っ、じゃあ何で今更、こんな…!!
【歌音】
―――イガラシ君って、知り合い?
【義母さん】
…………は、
【歌音】
ねえ、義母さん。
イガラシ カズキ君って知ってる子だよね?
【義母さん】
―――っっっ!!!!
【一輝】
(喉の奥から絞り出すような声で)
…………………きっっっ、んも……。
【義母さん】
ち、違う! 違う違うっ、違うの、一輝君、違うのよ! この女が、この女が勝手に言ってるだけなのよ…!
アタシはそんな子、知りもしないんだからっ!!!
【歌音】
マツバヤシ カズキ君に、ゴトウ カズキ君、サオトメ カズキ君…あとは、ニシカワ カズキ君だっけ?
【義母さん】
う、煩い煩い!!! 黙れ、黙れェェ!! そんな子達、知らない! 知らないわよぉぉ…!!! お願いだから、黙ってよぉぉぉ…!!!
【歌音】
(ハッキリした口調で、しかし蔑む意思はなく)
ねえ、義母さん。
―――可哀想だね。
【義母さん】
ぅぅぅぅ、ぁぁぁぁ…!! ぁ゛ぁ゛…、うぅぅ゛…!!
【歌音N】
最早人語ではない音を吐き出しながら、義母さんは崩れ落ちる。
同時にたっちゃんも崩れ落ちそうになったけれど、私が目で“離していい”と伝えれば、すぐに義母さんから距離を取った。
もう彼女は何のアクションも起こさず、ただ延々と嘆きを床に落とすだけの人になっている。
…静まり返った夜の町に、パトカーのサイレンだけが、けたたましく鳴り響いていた。
✻✻✻
【歌音N】
心地よい風が頬を撫でる。
あの後、義母は警察に連れて行かれ、二度と顔を合わせることなく町から居なくなった。
父さんは離婚成立の為に、会っていたみたいだけど、私も一輝も会いたいとは勿論思わなかったし、義母の方も“会いたくない”と言ったらしい。
私は兎も角、あんなに熱心に愛していた一輝にも会いたくないなんて、と驚いたけれど、彼女は父さんを引き留めようと必死過ぎて、他に手が回らなかったらしい。
【一輝】
姉ちゃん、何か浅場の爺さんから大根もらったんだけど。
【歌音】
げぇ、またぁ? もういっぱいあるから良いって言ったのに。…まあいいや。干し大根にでもするよ。土間んとこ置いといて。
【一輝】
ほーい。
【歌音N】
あの事件? 騒動? から一年。私は家には帰らずに、そのまま爺ちゃんの家に住んでいる。名義は爺ちゃんの亡くなる一年前に変えていて、家も畑も、ついでに言えばちょっと広めの駐車場も私のものだ。
そしてそこに転がり込んできたのが、弟の一輝である。
大学生になったら、義母が居る居ないに関わらずひとり暮らしする予定だったらしいけれど、不動産屋の不手際で、住むはずだったアパートには既に別の人が居たとか何とか。
荷物を解くのも面倒で、しかも実家には戻りたくないらしい一輝が、目をつけたのが爺ちゃんの――今の私の家だった。
【一輝】
来週、温泉でも行こうかって父さん言ってるみたいだけど、どーする?
【歌音】
畑見なきゃだから、日帰りでって言っといて。
最近、野猿の被害が増えてるんだって。何でかウチの被害は無いけど。
【一輝】
爺ちゃんが仁王立ちでもしてるんじゃない?
【歌音N】
爺ちゃんが畑で、案山子の如く立っている姿が安易に想像出来て、思わず吹き出した。
そうして一輝と一頻り笑ってから、ふと寂しくなって、…それでも無理に口角を上げてみる。
(間)
何だか、今更ながら。夢かと思ってしまう。
爺ちゃんが死んだ事も、義母さんがもう居ない事も。
だけれど、ちゃんと現実で。リアルで。
悲しくなったり、ちょっと嬉しくなったり、忙しないけれど。
でもそうやって現実を噛み締める瞬間が、すごく、貴重で大切だと思えるようになった。
【歌音】
ほら、裏の畑行くよ。そろそろ人参が採れる時期だけど、それはまた今度。
【一輝】
あ、じゃあ採れたら、人参のきんぴら食べたいっ、作ってよ。
【歌音】
(嬉しそうな声色で)
はいはい、食べたいならちゃんと働いてよね。
STORY END.