序の下
見たこともないような白。視界の全て、上も下もないような、白。位置の概念すら怪しくなるような場所だった。
自分の身体すら見当たらない。
にも関わらず、不安はなかった。
これまで常に感じていた感情を凶暴に駆り立てる圧迫感、失意も絶望もここにはなかった。
ただただ澄んだ、気分だった。これまでにない程落ち着いていた。
──私は負けたのか。
先程の戦いを思い出す。
「そうです。リオークの牙は食い破る為ではなく、全ての細胞を自死細胞化させる為のプログラムを注入する為に使われました。このプログラムの伝播によりリンクしていたあなたのバックアップも全て死滅しまし、コアも砕かれました」
中性的な声が頭に直接響く。
“今日こそは”
その言葉を軽く捉えたことが敗因らしかった。
そのことに思い至っても屈辱はない。
ただ。急速に、色々なことが思い出された。
走馬灯とは死後に見る物だったか、と思うようなめまぐるしさだった。
野柳勇仁としての記憶。
子どもの頃の些細な思い出。思春期の赤面したくなるような思い出。面映い青春の日々。
それら全て、洗脳の前の記憶だった。
そして。
そして。怪人プラナリアンとしての記憶。
そして脳改造を受けて洗脳された後の記憶。
「おれは」
“結社”の破壊工作員として、暗躍した日々。
有用な人物や組織に“結社”を利するようあらゆる働き掛けを行なった。
従わなければ殺しも厭わなかった。
そうして得た技術やコネクションでさらなる破壊活動を重ねてきた。
直接間接を問わず、もう何人を死に追いやったか解らない。
「おれは、許されないことをしてしまった」
他の怪人が暗躍する土壌を整え、国内国外問わず荒らして回り、遂には戒厳令が敷かれるまでに荒廃させてしまった。
洗脳されていた、正しいことをしていると思い込んでいた、という言い訳は一見成り立つ。
だが。
「おれは喜んで仕事をしていた」
自分の心は偽れない。今振り返って懺悔したとて。作戦が成功した時の達成感!
逆らう物を虐げる嗜虐的な歓び!
それらを噛み締めていたことから目を背けることは出来ない。
思想や記憶や感情をどれだけいじられたとは言え。
プラナリアンのしたことは野柳勇仁の意志でやったことだ。
それらを今の倫理観で照らせば。
鬼畜の所業と言う他ない。
澄んでいた心にどっと後悔が押し寄せる。
涙を流す目も、嗚咽する口も、握り締める拳もありはしない。
ただ、苦い気分が。消えたくなるような気持ちで満たされていた。出来ることなら……出来ることなら。
「償いたい、ですか?」
「方法が、あるのなら」
「強く、そう思いますか?」
中性的な声は静かなトーンで、しかし、圧力を伴って問いを続けた。
「……そう、思う」
「私は、貴方の身体を再構築し、別の──異なる理で動く世界へ送り届けることができます」
「……」
「艱難辛苦に喘ぎ、自らを助ける力さえ失った人々が待っています。私は貴方を送る以上の干渉はほとんど出来ません。苦しい戦いが待ち受けているでしょう」
「……」
この声が何を望んでいるのか解らない。
「貴方の選択肢は二つ。ここに留まり思案と回想を果てしなく続けるか……新たな地獄に向かうか」
声の主が何者なのか。ここは所謂死後の世界なのか。疑問は尽きない。
だが問い掛けに答えずはいられなかった。
「やります」
「先述の通り、向こうに着いてから私の加護は何もありません。ただし」
声は一度言葉を切る。
「かの地に貴方が平安をもたらすことが出来れば」
そこでまた、意識は途絶えた。