第96話
海田部長からお預かりした資料を自分のデスクで確認しながら、私はどこか上の空だった。
そりゃそうだ、あんな場面に遭遇して、自分も少なからず関わってしまったのだから。引っ張り上げられた後頭部が、まだ少し痛い気がする。
お姉ちゃんへの同情は相変わらず少しもわいてこないけど、あの人が何度もうちに電話してきたり、そのせいでお母さんが夜眠れなくなっているとか考えると急に身近に感じてしまう。
私は人違いだったからあれで終わったけど、本当にお姉ちゃんと対峙したらどんなことになってしまうんだろう。
「チーフ、どうしました?」
横から佳代に声を掛けられ、ハッとした。しまった、傍から見て変に感じるほど思考が取られていたらしい。ダメだ、頭切り替えないと。
「うん、大丈夫……。ちょっと席外すね、何かあったら電話して」
佳代が頷く。私は資料を片手に席を立った。
ビル内のカフェで再び資料を開いているとスマホが鳴る。佳代? と思ったら来人からのメッセージだった。
『どこにいる? 鈴木さんに聞いたら席外すとしか聞いてないって』
『ごめん、二階のカフェ。集中出来ないから場所変えたの』
『そっか。帝国管財大丈夫だった?』
私はそこで返信に詰まった。結果として何も問題はない、今のところ。しかし仕事に集中出来ないほど引っ張られているのは事実。大丈夫ではない。
『帰ったら話聞いてくれる?』
『分かった。何かあったら電話して』
了解!とコメント付きのスタンプを返す。
関わらないようにするべきか。
私に出来ることを考えたほうがいいのか。
一人で決められないとは情けない。
◇◆◇
父からの電話を切って、百花はもう一本缶ビールを開けた。
彼―今野武―の妻が会社でも騒いでくれたせいで、百花は仕事を首になった。こういうとき派遣は辛い。派遣会社も守ってはくれない。彼はちょっと上に怒られただけだというのに。
家にも帰りたくないし仕事も無い百花は、彼に我儘を言って二人でホテル暮らしをしている。でもうるさく小言を言う親と顔を合わせることもなく、夜になれば彼と二人になれるならむしろ好都合だった。
しかし。
千早の名を聞いて、百花の心は別の意味でざわつき始めた。どうして父が千早の名を出したのか。千早に迷惑って、何が?
二つ下の妹とは、常に比べられてきた。そして外野の評価は、いつも自分のほうが下だった。百花を褒めたのは母だけ。だから母の愛だけは手放したくなくて何もかも言う通りにした。千早が何か失敗したら全て報告したし、たまに自分のミスも千早のせいにした。それでもあの子は逆らったりしなかったから。
百花が落ちた高校へ進学し、百花には到底手が届かないような大学へ行った妹。ミスなんとかにも選ばれかけて心底慌てた。幸い本人が辞退したようだが、油断も隙も無いと更に憎悪がわいた。大学卒業後実家から出て行ってくれた時は本当にほっとした。しかし暫くして、一人暮らしが出来るくらい収入があるのだと気づいたら、その時アルバイトも碌に続かなかった自分を振り返ってまた腹が立った。
千早は百花に何もしない。何も言わない。周りが勝手に二人を比べ、千早を褒め、千早と比べて勝る部分が無い百花を嗤う。千早はただそこにいるだけだ。けれどそれだけのことが、子供の頃からどれほど苦痛だったか。きっと誰にも理解してもらえないだろう。
百花は手に持ったままだったビールを一気に半分くらいあおる。飲み過ぎるなと武に言われているが、酒以外に今の気分を紛らわせる方法が分からなかった。
父からの留守電の内容が、再び頭の中で繰り返される。
『奥さんらしき女性が私に会いに来た』
『とても取り乱していた』
『これからどうするつもりだ、どう償うのか』
『一度実家に帰ってこい』
百花は振り払うように頭を振る。聞きたくない情報ばかりが入ってくる。武さんの奥さんのことなんて、私は知らない。それは夫婦で考えればいい。なんでお父さんに会いに行ったのか分からないけど。
どうするつもりかって? そんなの、彼と二人でいたい、それだけ。もう奥さんも諦めて家から出て行けばいいのに。
実家に帰ったって怒られるだけだ。子供の頃はお母さんは私が何を言っても何をしても味方になってくれたのに、今は怒ってばかり。
私にはお母さんしか味方はいないのに。
今は彼が……。そう思おうとして、どこかで無理をしている自分に気づいた。でもこうなったら彼以外頼れる相手はいない。親にも見放され、仕事を失い、心も体も行き場が無い。ただでさえ責められている彼との関係のせいで仕事まで首になったなんて、とてもじゃないが親には言えない。
自分がこんな状況なのに、千早に迷惑がかかったからってそれを気遣う余裕なんてあるわけない。お父さんはいつだって、千早の味方。あれだけ自分にそっくりなんだから、そりゃ可愛いでしょうね。
ふと、最近たまたま遭遇した千早の姿を思い出す。もう三十になっているだろうに、相変わらず人目を引くほど恵まれた容姿をして、高そうな服を着ていた。そして途中で割って入った若い男。千早の彼氏? まさかね、あんなコミュ障のオタクに彼氏なんて。
不快さが増してきて、エネルギーを補給するように再び缶ビールに口を付けるが、もうほとんど残っていなかったことに気づき、飲み干すとそのまま窓ガラスに向けて缶を投げつけた。
しかし百花の気は少しも晴れなかった。