第95話
海田部長が席を外すとお父さんと二人きりになったので、私から話しかける。
「あの人、お父さんがお姉ちゃんの親って知ってたんだね」
「最近テレビに出たりしたからな。まあ、どこかで聞いたんだろう」
なるほど。顔が知られるのも善し悪しだ。
「でもなんでこっちに来たのかな。お父さんの事務所はここじゃないのに」
「さあなぁ。興信所でも使ったかな。最近はブライトさんとの案件の関係もあってこちらへ伺う回数も多いからな」
興信所。増々ドラマめいてきて、これが自分の家族に起こっていることだという実感が沸かない。
「お姉ちゃん……、どうしてるの?」
「このところ家にも帰ってこないよ。お父さん達が電話しても出ないしな。どこにいるのか。仕事には行っているようだがな」
お父さんは疲れ切ったように状況を話してくれる。振り回されているのはお母さんだけじゃないのだ。
「千早は災難だったな。まさかお前がこちらに来ている時にこんなことが起きるなんてな」
「うん、お姉ちゃんと間違えられるとは思わなかった」
「あちらは百花に会ったことがないんだろう。娘と聞けば勘違いもするさ」
私は頷く。しかし父娘揃ってロビーで大恥かいた。あの人がまた来ないとも限らないなら、暫くはこちらに伺わないほうがいいのかもしれない。
「お父さん、もしお父さんだけで打ち合わせとかあったら、次はうちの会社来て。それならあの人が来る可能性は無いし、もし来ても自分の会社だもん、私が怒られればいいだけだから」
私の提案にお父さんは驚く。そして笑って首を振った。
「それじゃお前に迷惑がかかるだろう」
「別にいいよ。顧客に迷惑かけるくらいなら、全然大したことない」
私がそう言うと、またちょっと驚いて、そしてこの間みたいに頭を撫でてくれた。
「すっかり一人前のビジネスマンだな。……頼もしいよ」
そうかな。普通だと思うけど。
何故褒められたのか分からないけど、お父さんの大きな手の感触で、さっき私をかばってくれた背中を思い出していた。
◇◆◇
自分の事務所へ戻ると、一也はスマホを取り出し、ダメもとで百花へ電話を掛けた。どうせまた繋がらないだろうが、今日の一件を伝えないわけにはいかない。そして今どこにいるのか、この問題をどうするつもりでいるのかを聞かなければ。
しかしやはり応答はなく、留守番電話に切り替わったので、メッセージとして残す。自分からのメッセージだと分かっていて百花が聞くか分からないが、ほかに手段が無かった。
背広を脱ぐときに、床にぶつけた腕がまた痛んだ。様子を見て医者へ行こう。ただの打ち身ならいいが、自分も年だ、骨に異常があるとまずい。
ふと、知らない香りがした気がした。さっきまで一緒にいた千早の香水らしかった。
千早が家を出てから、今日が一番長く一緒にいた気がする。あんなことが無ければすれ違うだけだったろう。不幸中の幸いか。
転んだ一也に慌てて駆け寄ってきた千早の姿を思い出す。怪我をすれば心配をしてくれる、その程度には親への愛情は残っているのだと分かり、それで十分だとも思った。
気を取り直して仕事にとりかかろうとしたところで、スマホが鳴動した。ディスプレイを見て驚く。百花が折り返してきた。
「百花か?」
『留守電聞いた。とりあえず、ごめんなさい』
不貞腐れたように謝罪を述べるが、きっと心からのものではないだろう。いい年をして子どものようだとため息が漏れる。
「家に帰ってこい。今どこにいるんだ」
『彼と一緒よ。家には帰らない。お母さんに怒られるもん』
「当たり前だろう。お母さんも心配してるぞ」
『まさか。自分の心配をしてるっていうなら、わかるけどね』
百花の母・十希子への冷たい返しに驚く。千早とは違い、百花は母とは仲がいいのかと思っていたのに。
『彼から奥さんに、もうお父さんのところには行かないように頼んでもらうから』
「しかしそれじゃ解決にはならんだろう。ご夫婦はそうだが、お前も自分がどう償うのかを考えて……」
『償うって。私悪いことしてないもん』
一也は唖然とする。妻子ある男性と関係を持っておきながら、自分は悪くない、と。知らずに電話を持つ手に力がこもる。百花が逃げ回っているせいで、めぐり巡って無関係の千早が怪我をするところだったのに。
「自分が何をしているか分かっているのか。お前のせいで千早にも迷惑がかかったんだぞ」
千早の長い髪が掴みあげられ引きずられかけた時、一也は自分でも驚くほどの恐怖と怒りが込み上げたのを思い出す。寸でのところで踏みとどまったが、逆に相手を殴りつけるところだった。
『千早……? なんで千早が出てくるのよ……。お父さん、千早に会ったの?』
急に百花の声に険が増す。一也は再びため息をついた。
「とにかく、一度帰ってこい。なんだったらお相手も一緒に来い。お互い代理人を立ててでも話し合わなければいけない状況だぞ」
一也の専門は企業法務だ。不倫だの離婚だのの相談に乗った経験は皆無だ。もし百花が代理人を立てるなら誰か知り合いを紹介しなければいけないが、しかし身内の恥と思うとそれもまた気が重い話だった。
『……考えておく』
それだけ言うと百花は一方的に電話を切った。結局今どこにいるのかも、いつ帰ってくるのかも聞けないまま。一也は一人頭を抱えた。