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第94話

 次の週、書類を受け取るために私一人で帝国管財へ出向いた。郵送でも良かったのだろうが、矢崎さんにタクシー使っていいぞ、と言われたので直接取りに行くことにしたのだ。

 昼前には帰って来れるよう、午前中にアポを取った。外へ出ると空が重そうな雲が暗く立ち込めていた。もしかしたら東京の遅い初雪になるかもしれないな。


◇◆◇


 帝国管財の本社ビルに到着し、受付で海田部長とのアポを伝える。待つように伝えられたので広いロビーに設置されているソファに座った。

 あー、このソファ座り心地良い……。家のもこういうのに買い換えたいけど、デカすぎるか。


 顧客先に居るのにリラックスしまくっている自分に苦笑しながら辺りを見回すと、エレベーターのほうから知った人が出てきた。

 あ、お父さん。

 どうしよう、声かけたほうがいいかな。でも遠いしな。いいか。

 そう思って目を逸らした時、慌ただしい足音が聞こえ、ふと顔を上げたら。


「あんた!! あんたの娘でしょ?! あの女、出しなさいよ! どこにいるのよ!」


 泣いているのか怒っているのか分からない、喉が裂けそうなほどの金切り声が響いた。そして私は二度驚く。声の主が掴みかかった相手はお父さんだったから。

 私は反射で腰を浮かす。しかし私の姿を認めたお父さんは、目で『来るな』と言っていた。


「落ち着いてください。すみませんがどちら様ですか」

「とぼけんじゃないわよ! 電話も拒否して、逃げ回って! 親なら責任取りなさいよ! 娘差し出しなさいよ!」


 ロビーは静かだが人はたくさんいる。いや、そのやり取りに皆が呆然とし、動きを止めてしまっているのだ。そのせいで離れている私のところにも会話がはっきりと聞こえてきて、事態を理解出来た。


 お姉ちゃんの、不倫相手。の、奥さんだ、きっと。


 こんなこと実際にあるんだ。ていうかこの人どうしてここに? お父さんの事務所はここじゃないのに。


「ここでは何ですから、場所を変えましょう」

 顧客に迷惑はかけられない。きっと自分の事務所かどこかへ移動しようとして歩き出したお父さんに、その人は再度掴みかかった。不意を突かれたお父さんはそのままバランスを崩して転んでしまった。

 大理石の床に、骨がぶつかった嫌な音がした。私は気が付けば叫んで駆け寄っていた。


「お父さん!」

 距離があると思っていたが、何のことはない走れは十歩もなかった。痛そうにぶつけた腕をさすりながらお父さんが身を起こす。パッと見たところ出血などはしていなかったのでほっとした。

「大丈夫?」

 声を掛けると、しかし厳しい顔をして顰めた声で私を拒絶した。

「千早、あっち行きなさい」

 え?でも……。

「いいから。ここに居たら」


「お父さん、ですって?」


 背後から女性とは思えないほど低い声が聞こえた。ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる気配がする。


「あんた……、あんたなの? うちの人を寝取った泥棒猫は!!」


 あっと思う間もなく後頭部の髪をすごい力で掴まれ、引っ張られる。恐怖と痛みで声も出ない。しかしそれも一瞬だった。


「やめろ!」


 私を引きずる力は消え、代わりに大きな背に庇われていた。振り向けば、お父さんが私とその人の間に入って、相手の両手を押さえながらその女性にだけ聞こえるように囁いた。


「この子は下の娘です。あなたのご主人の相手は上の娘だ。人違いです」


 女性が驚いたように目を見開いた瞬間、警備員らしき男性が数人駆け寄ってきて女性を取り押さえてくれた。警備員の後ろには海田部長も居て、私達を見て安心したように笑ってくれた。


「よかった……。お怪我はないですか?」


 私は気が抜けて、返事もそこそこに床にへたり込んでしまった。遠くでは女性が騒ぐ声が聞こえるが、そちらを再び見遣る勇気は無かった。


◇◆◇


 書類を受け取るだけのはずだったのに、海田部長はそのまま上階フロアまで私とお父さんを案内してくれた。会議室へ通されると若い女性社員がお茶とおしぼりを持ってきてくれた。その二つがどちらも温かく嬉しい。


「ご災難でしたね。何事も無くて何よりです」

 心から気遣ってくれる海田部長に、私もお父さんも深々と頭を下げる。

「全くなんとお詫びしたらいいやら……。多大なご迷惑をおかけし、言葉もありません」

 まったくもってその通りだった。娘の不倫相手の奥さんが取引先の本社ビルで騒ぎを起こしたなんて、どれだけ恥ずかしいか。


「いや、成瀬先生には大変お世話になってますし。もちろんブライトさんにも。途中から状況を拝見しましたが、まあその……プライベートなことのようですし」

「身内の恥です。お恥ずかしい限りです」


 お父さんは平謝りだった。そりゃそうだろう。でも翻って家族の立場から見れば、どうして本来何の関係もないお父さんが、取引先でこんな恥をかかされなければいけないのかと腹も立ってきた。


 そこへドアがノックされる。先ほど女性を連れて行ってくれた警備員だった。

「お話し中失礼します。先ほどの女性、帰りました。タクシーに乗り込むところまで見届けたので大丈夫だとは思いますが、お帰りの際もご注意いただいたほうがいいかと」

「ええ、ありがとうございます」

 お父さんが立ち上がって礼を言うので私もそれに倣う。海田部長が、そうだ、と声を上げた。

「お帰りの際には表口ではなく裏の通用口へタクシーを回しましょう。成瀬さんもご一緒に。あそうだ、書類書類」


 海田部長は慌てて本来の目的を取りに部屋を出て行った。そうだ、私もすっかり忘れていた。手ぶらで帰るところだった。あぶないあぶない。


 

 


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