第88話
私の個人的な事情とは裏腹に、プロジェクトはトントン拍子に進んでいた。依頼した資料はすぐ送ってもらえるし、こちらからの提案も予定通り提出出来ているし、先方からリジェクトされることもほぼ無い。
楽しくてつい残業する日が続いていたが、とうとう矢崎さんから怒られた。
「お前が残ってると若いのが帰れないだろう。今日の分が終わったなら帰れ」
って。ご自分は会社に住んでると思われるくらいずっといるくせに。私は平気で帰ってますよ。
「上司がいても帰宅できるのはお前と立花くらいだ」
「矢崎さん、成瀬チーフに言うこと聞かせたからったら仕事減らしたほうが早いですよ」
おい来人くん。余計なこと言うんじゃない。
なるほど、という顔で振り向く矢崎さんに、私は慌てて首を振った。
「分かりました帰ります!お先に失礼します!」
ほぼ強引にパソコンの電源を落として片付ける。満足げに頷いている矢崎さんは、私の後を追っかけるように退社の挨拶をする来人に苦い顔をした。
◇◆◇
エレベーターを待っていると来人が追い付いてくる。
「お疲れ様です、成瀬チーフ」
あれからは会社では絶対に名前で呼ばない。当たり前のことだがどうして? と聞いたら、
『だってもう矢崎さんをけん制する必要ないじゃん』
だと。会社を何だと思ってるのか。
「立花君もお疲れ様」
お互いに少し笑いしながら挨拶をすると丁度上からエレベーターが下りてきた。乗り込む瞬間、背後の階段から大声が聞こえ、私と来人の足が止まった。
「今の……」
「鈴木さんの声っぽかったですよね」
私は頷く。佳代だ。声が音として聞こえただけで言葉は分からなかったが、尋常ではない空気が伝わってくる。
私たちはエレベーターの中にいた人に乗らない旨を伝え、階段へ向かった。
「だから……なんでそれを私に言うのよ!」
「だって佳代ちゃんは同期だし……」
声の許へたどり着くと、予想通り佳代と、そして真子がいた。一見真子が佳代に問い詰められているようだが、佳代は今にも泣き出しそうだ。
まさか。
私は来人に離れたところにいるように伝え、二人のところへ降りて行った。
「何やってるの? 声が上まで聞こえたよ」
あえて遠くから声を掛けながら、私は近づいていく。二人はここがどこだか思い出したようなハッとした顔で振り向いた。
「仕事に関係してることなら、私も聞くよ。そうじゃないなら、一旦会社から出ようか?」
なんとなく内容に予想を付けつつそう言うと、佳代は頷き、真子は首を振った。
「いえ、大丈夫です。私たちの問題なので……」
そう答える真子に対し、佳代は
「出来たらチーフに相談に乗ってもらいたいです」
と。同時に言わないで。私聖徳太子じゃないから。
「えーと……、じゃ、とりあえず会社出る? 私今帰るところだったから、下で待ってるよ。荷物取っておいで」
二人の顔を見ながら、二人に言う。さっきは拒否した真子も渋々頷いた。歩き出した彼女たちを見送って、来人に電話する。
「ごめん、これから二人とちょっと話すことになったから、先に帰ってて」
『俺も行こうか?』
ん? んー……。
「いや、今のところ大丈夫」
『分かった。じゃ、気を付けて』
電話を切り、そのまま階段を降りてロビーフロアへ移動した。
◇◆◇
「さて、じゃ、話聞こうかな」
三人で近くの喫茶店に入る。今時のカフェではない、昔から営業しているような雰囲気のある店内はあまり客もおらず、こういう話をするには丁度いい。
私が促すと、真子と佳代が一瞬目を見合わせる。そしてすぐ気まずそうに目を背け、口を開く様子はない。やれやれ、もういいか、私から切り出そう。
「それとも野村君も呼ぶ?」
もう一人の当事者と予想した男の名を出すと、二人が同時に顔を上げた。特に佳代は信じられないというように目を見開く。
「もしかしてチーフ……、知ってたんですか?」
私はちらりと真子を見る。何の反応も示さないので、正直に答えた。
「うん。二人がデートしてた現場に遭遇したことがあったから」
「そんな……」
佳代は絶句してしまった。きっと、私も二人とグルになって自分をだましていたとでも思っているのかもしれない。騙すつもりはなかったが、佳代の心情よりも仕事の環境を優先させて森達に『黙っていろ』と言ったのは私だ。結果としては同じことだろう。
「真子ちゃん、さっき、佳代に何を話したの?」
私は代わりに真子に問いかける。私が口火を切ったことで言いやすくなったのか、大人しく話始めた。
「し……野村君と去年から付き合ってるってことを、佳代ちゃんに話しました」
やはり。
「そっか。うん……、うちの会社は社内恋愛にオープンだからね。二人は同期入社だし。ただ……プロジェクトの関係上、暫くは黙っていて欲しいって私から野村君に頼んだんだけど、それは聞いていたかな?」
真子は渋々頷く。そうか、聞いていたから今まで黙っていた。なのに。
「じゃ、どうしてこのタイミングで? まだマックス社のプロジェクトは終わってないよ?」
二人を、いや三人を責めるつもりは毛頭ないので、出来るだけ優しく問いかける。大丈夫、怒ったりしないよ、と。
すると突然、真子が声を上げて泣き始めた。
先に涙ぐみだしていた佳代も驚いて泣き止むほど、火が付いたような激しい泣き方に、私たちはもちろん店内の皆が驚いて動きを止めてしまった。