第87話
来人は私とお父さんが何を話したのかを聞こうとはしなかった。普段の来人なら根掘り葉掘り事細かにヒアリングしそうなものなのに、その無関心な態度が逆に気になる。
しかしだからと言って、自分から話す気も起こらなかった。
だって、内容が内容だし。私も悩んでいるわけじゃない。お父さんに言った言葉はそのまま本心だから。ただ、嫌なものを見せられたような不快感が喉の奥に残っているだけだ。
「メシ、まだ食ってないだろ? 食べてから帰る?」
歩き出して数分、来人がこちらを振り向いた。あ、そっか。そう言えば何も食べていない。お腹空いてる、ような気がする。
「帰ってから作るの面倒だもんね。食べていこうよ」
私が来人に同意すると、嬉しそうに笑って手を繋いできた。
「千早が進んで外食するって言うの、珍しいね」
そうかな。
「来人と一緒なら平気」
あ、と。こんなこと言わないほうが良かったかな。すごいびっくりしたような顔してるし。
しかし後悔している私とは裏腹に、来人の私と繋いでいる手の力が三倍くらい強くなった。痛い痛い痛い痛い!
「何すんのよ!」
「だって千早が可愛いから」
こんな反応は来人の通常運転なんだけど、人がたくさんいるところで言われると困る。今だってすれ違いざまに驚いて振り向いた人も居たし。
「分かったから……、で、何食べる?」
「千早」
アホだった。
「じゃ、お寿司にしよう」
私は来人からの返事を待たず、繋いだ手を引っ張って回らない寿司屋の暖簾をくぐった。ここは来人に奢らせてやる。
◇◆◇
十希子は寝不足で痛む頭を抑えながら、ゆっくりと自宅の階段を降りる。家事はほとんど何も出来なくなって暫く経つが、困る家人もいないだろうと思っている。
下の娘は何年も前に家を出て連絡はないし、上の娘はあろうことか他所様のご主人と付き合っていて家族とは口もきかなくなった。帰ってこない日は相手と会っているのかと思うとまた頭痛が強くなる
仕事しか眼中にない夫・一也は、家の中が散らかり放題でも何も言わない。しかし夫の無言は優しさなどではなく、自分への無関心ゆえだと、十希子は思っている。
冷蔵庫を開け、麦茶を取り出す。流しに置きっぱなしになっているコップに注ぎ一気に飲み干すと、ほんの少しだけ気分が良くなった。洗い物が溜まっているシンクは視界に入れないようにして再び寝室へ戻った。
『もう家にかかってくる電話には出るな』
昨日帰ってきた夫は、それだけ言うと黙って電話線のジャックを引き抜いた。出るなも何も、これでは電話は繋がらない。何度も自分がやろうとして出来なかったことをあっさりやってのけた夫に、感謝よりも(だったらもっと前からそうしてくれればよかったのに)という恨み言しか思い浮かばなかった。
再びベッドに横になる。今の十希子の思考を占めているのは百花の不倫問題だ。
子どもの頃から自分の言うことをよく聞く、理想的な娘だった。何かと反抗的でかわいげのない下の娘とは違い、何かにつけて自分に意見を求め、その通りにする百花を、人一倍可愛がってきた。
それなのに。
突然家族を襲った事件が全てをぶち壊した。私の言う通りにする百花なら、間違っても既婚者と付き合ったりしない。どうしてこんなことになったのか。
同じことをぐるぐると際限なく考え続ける隙間に、ある女性の面影が過る。会ったことのない、夫の亡き姉の姿。美しく聡明で、しかし自分達が結婚する前にはすでにこの世に無かったから会ったことはない。会ったことはないのに、十希子はその人を一瞬たりとも忘れたことはない。写真だけでしか知らない夫の亡姉を。
そして写真の中の彼女が振り向いた時、その笑顔は下の娘の顔になっている。これもいつものことだった。
耐えきれず無理やり違うことを、百花の問題に思考を戻す。それも決して救われる方法ではないと分かってはいるが、十希子の世界にはその二つしかないのだった。
人からは、優秀で高給の夫と結婚して二人も娘をもうけ、幸せな主婦だと言われるが内実はこれだ。
手塩にかけた娘には裏切られ、夫に一番に愛されることもなく、二人目の娘は親を捨てたも同然だった。
自分の人生はなんだったのか。もう六十の手前まで来ている己を振り返るが、しかし涙は出ない。漏れてくるのは苦笑だけだった。
医師からは就寝前に飲むように言われている睡眠導入剤を、まだ日が高い時間なのに服用する。これで眠れる。眠ってしまえば百花も千早も《《あの人》》も出てこない。夢の中でしか休めないのは私のせいじゃない。私を追い詰めた人たちの責任なのだから。
十希子の胸の内とは正反対の明るい日差しがカーテン越しに降り注ぐ。しかし目を閉じた十希子にはその光は見えなかった。