第86話
お父さんから指定されたお店は、うちの会社からタクシーでワンメーターくらいの距離だった。気持ちを切り替えるためにも歩いて向かう。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
入口で尋ねられ、待ち合わせで、と言おうとしたところで奥からお父さんが手を振っているのが見えた。私も振り返してテーブルへ向かう。もっと緊張するかと思ったけど、最近週一のペースで会っているからか普通に手を振れた自分に、自分で驚いていた。
(なんとか療法、って言ってたっけ。ていうか案ずるより生むが易しかな)
コートを脱ぐとお父さんが受け取ってハンガーにかけてくれた。その瞬間、お父さんの匂いがして懐かしさが胸いっぱいに広がり、また驚く。不快感や緊張ではない、懐かしさ。座ればすぐ近くでお父さんが笑っていて、今ここがどこなのか分からなくなるような既視感に襲われた。
「……疲れてるか? 悪いな、忙しいのに」
ぼんやりしていたらしい私を見てお父さんが気遣うようにこちらを伺ってくる。私は慌てて首を振った。
「ううん、違うの。大丈夫、そんな疲れてないよ」
「コンサルティングファームは忙しいだろう。ブライトは独立系とはいえやり方は海外ファームと同じようだし」
さすが、他業種なのに詳しいな。
「うん、でもうちは役割分担はっきりしてるし、期間として無理があるものは上が受けてこないし。休日出勤とかもほとんどないよ」
丁度運ばれて来た白ワインで乾杯しながら自分の仕事の状況について説明する。無理な勤務はしていないと伝えたところで、お父さんの表情が緩んだ。安心したのかな。
「そうか……。楽しいか?仕事は」
「うん、楽しい。コンサルになりたくて入ったわけじゃないけど、すごく楽しいし私に合ってると思ってる」
うんうん、と頷きながら聞いてくれる。やっぱり白髪、多くなったね。
「お父さんは……忙しそうだね」
「ん?そうでもないぞ。もうこの年だしな、大きな案件は若い奴らに任せてる」
「でもテレビに出てたって言ってた人が居たよ」
「たまにな。ほら、最近専門家の意見求める番組増えてるだろ。同業者から一回だけって頼まれたんだ」
何の意味も持たなそうな内容の会話。だけど今の私にはこれくらいがちょうどいい。
と思っていたら。
「最近、百花に会ったか?」
唐突に姉の名が出てきて、息が止まった。持っていたグラスは、辛うじて落とさずに済んだが、慌ててテーブルへ戻す。
「……お正月に出先で、ちょっと」
「そうか。何か言ってたか?」
何か、って……。いつも通りだよ。いつも通り口撃されて危うく殴られるところだったよ。
でもそんなこと言えない。
「特に……、いつも通りだったよ」
そう答えるのが精いっぱいだった。そう、姉のあの態度は、いつものことだ。変わった様子は無かった。これっぽっちも。
お父さんに気づかれないようにゆっくり呼吸をして動悸を落ち着かせていると、箸を置いてお父さんが話を続けた。
「実は百花が、な……。妻子持ちと付き合っているらしいんだ」
え……。
私は目を見開いてしまうほど驚いた。瞬きすら忘れたほどだった。
あのお姉ちゃんが……?
「それって、不倫、ってこと?」
そのものずばりな用語を口にすると、お父さんは自分が悪いことをしているかのように気まずそうに頷く。
「会社の上司らしいんだがな。相手の奥さんにバレたらしくて……、家に電話がかかってくるんだ。最初に出たのが母さんでな。それからずっと、毎日だ」
「毎日、電話が?」
「ああ。年末からだから、もう二か月くらいかな。母さんも参っていて、夜眠れないようなんだ」
絵にかいたような修羅場に唖然とする。ていうかお姉ちゃん、何やってるのよ。
「お姉ちゃん、なんて言ってるの?」
「さあ……。父さん達が事情を聞こうとしても何も話そうとしないんだ。ただ相手は妻子持ちの会社の上司だ、というだけで……」
「だけど……」
私は言わずもがなの心配をしていた。既婚者と不貞行為を働いたら相手の伴侶から訴えられる。裁判沙汰というやつだ。弁護士のお父さんは当然その可能性も考えているだろう。なのに。
「訴える、とか言われたら……」
「そうだな、十分ありえるな」
私は徐々に驚きが引いて来たところで、もう一口ワインを飲む。冷えたのど越しと爽やかな香りが更に気持ちを落ち着かせてくれる。このワイン、美味しいな。なんて言うんだろう。
冷静になって考えれば、姉が不倫しようが訴えられようが、相手の奥さんからの嫌がらせでお母さんが不眠症になろうが、今の私には何の関係もないのだ。というより関わりたくない。最終的にどんな目に合おうが、それはお姉ちゃんが責任を取ることだ。
「子供じゃないんだから、お姉ちゃんに任せればいいんじゃない。お母さんには電話に出ないよう言っておけば? もし訴えられても、お姉ちゃんの責任だもん、仕方ないでしょ」
酔いが回ったか。たかがグラス一杯のワインで酔うほど弱くない。私の中で何かのタガが外れた。実の姉に対するものとは思えないような冷たい言葉が次々と口から飛び出してくるが、全く後悔も後ろめたさもない自分もまた感じ取っていた。
「……千早から、百花に話を聞いてもらうことは」
「ごめん、無理」
なんで私がお姉ちゃんのために動かなきゃいけないの。お正月だってあれだけのことされたのに。あの時だって来人がいなかったらどうなっていたか。
「ていうか、お姉ちゃん、私が相手ならもっと何も話さないよ。悪いけど私の協力は諦めて」
そこまで言うと、食事を続ける気になれず、財布から一万円札を取り出してテーブルへ置く。
「千早、まだ……」
「ごめん、お疲れ様。また仕事場でね」
私はお父さんの顔を見ないよう、振り切るように店を出た。
出たところで、来人が待っていてくれた。頼んでないのに。
過保護すぎる彼の行いに内心苦笑しつつ、私は安心と喜びで、気が付けば来人の腕に飛び込んでいた。