第78話
十九時ぴったりに、私はオフィスを出てエレベーターで下へ降りる。部のフロアに矢崎さんはいなかったがロビーにもいない。来客用のソファに腰掛けて待つことにする。
そうだ、来人からのメッセージ、まだ見てなかった。
『夕食は矢崎さんと食べてくるの?家で食べるつもりなら何か作って待ってようか?』
私はそれを読んで一人で吹き出した。まるで新婚家庭の奥さんのようだ。
『帰ってから食べる。作ってくれるの? ありがとう。冷蔵庫の中は何使ってもいいから、よろしくね』
返信し終えてから、もし私たちが家族になった場合もきっとこんな役回りなのだろうな、と想像してまた一人で笑う。どう考えても来人のほうが主婦向きだ。
「すまない、待たせた」
声を掛けられたほうを見ると矢崎さんだった。ん?
「朝からそのネクタイでしたっけ?」
「いいや、変えた。折角成瀬から誘ってもらったからね。おじさんなりのおしゃれ」
おじさんとか関係なくお洒落だ。黒に見えるほど濃い茶のスーツにオレンジ色がよく映える。ていうかおじさんじゃないでしょ。
「お似合いです」
素直に褒めた。上司がかっこいいのは部下としても嬉しいから。
しかし矢崎さんは珍しく顔を赤くして横を向いた。
「じゃ、行こうか」
私は頷いて、矢崎さんと一緒に会社を出た。
◇◆◇
「前にも来ましたね、ここ」
ランチだったけど。
「夜のほうが色んなもの食えるんだよ。最近和食が旨くてなぁ。もう年かな」
さっきからそればっかり。
「そんなお年じゃないでしょう。私も和食のほうが好きですよ、最近は」
気を使ったわけではない。思ったことを言っただけだが、また矢崎さんは嬉しそうに笑った。
良く冷えた冷酒で乾杯する。果物のような香りが鼻の奥を通っていき心地がいい。
「さ……、成瀬の話を聞こうかな」
と、余韻に浸っていたらいきなり来た。でも私から誘ったんだし、気になるよね、矢崎さんからしたら。
「先日言われた、私にとって来人がどんな存在か、ってお話なんですが……」
私は一つ息を吸って続けた。
「正直まだ断言はできません。ただ……、さして長い付き合いでもないけれどずっと一緒にいるかのような安心感があります。彼がいない場所でも、もし来人だったら、と考えることがよくあります。それから」
「わかった。分かったもういい」
ダラダラと続く私の話を、矢崎さんが遮った。
「うん、よく分かったよ。成瀬は立花が好きなんだな」
後半は下を向いてしまったので、矢崎さんがどんな顔をしていたのか分からなかった。ただ、恐らく傷つけてしまったのだろうということだけは、伝わってきた。
「そう、なんでしょうか……」
私はガラスの器に注がれた酒を見つめながら、でも本当は自分の心の中を覗き込みながらつぶやいた。
今矢崎さんに言ったのと同じことを来人へ言った。そして同じ様な解釈をされたことを思い出す。
「来人も、同じことを言いました」
「なんだ、あいつと同意見か。腹立つな」
苦笑しつつ残っていた冷酒を飲み干す。なんかやけになってるようにも見えるけど。
「しかしそうか、ということはもう両想い成立ってことか?」
言われて私は顔を上げる。恥ずかしいが、来人と過ごした土曜の夜以降を思い出しながら頷いた。
それを見た矢崎さんはとうとうテーブルに突っ伏した。
「そっかーーーー……。あー、まあ俺がけしかけた結果だからなぁ、あーあ、バカなことしたなぁ、俺」
「申し訳ありません。でもお蔭で、考えるきっかけをいただけましたので」
それは本心だ。矢崎さんは顔をテーブルに付けたままこっちを向いた。器用だな。
「立花は親父さんのことは知ってるのか?」
「え? いえ、父の話はしていません。偶然姉と会った時に同席したことはありましたけど……」
同席と言うか恫喝というか。あの時の来人はチンピラみたいだったな。
「話さないのか?」
「そのうち話さなくてはいけなくなるかもしれませんが……、今のところ積極的に話すつもりはないです。情けないですが、実家のことを考えるだけで具合が悪くなるので」
「じゃ、親父さんからのガード役は引き続き俺でいいな?」
へ?
「ガード役、って」
「事情を知らないなら、親子ならお前から連絡しろって、プロジェクトの連中も言い出すだろう。あくまで偶然苗字が同じだけということにしておけ。珍しい名前じゃないしな。俺から成瀬氏にも話を通しておく」
ちょ、ちょっと待ってください。
「あとなぁ、立花はお前と付き合い始めたこと、もう佐々木さんに話したかな」
「いえ、まさかそこまでは……。確認してませんが」
「そうか。だったら悪いが、暫くは口留めしておいてくれ。佐々木さんから社長の耳に入ると、俺達の偽装がバレる」
あ。
「俺は成瀬じゃないなら結婚する気はない。ただ、サラリーマンだからな、上と気まずい関係になるのも避けたい」
「……良い方を紹介されたなら、ご結婚されても」
「やだよ。お前以外の女なんか」
そして矢崎さんは立ち上がって私の隣に座った。驚いて思わず数センチ避けてしまう。
「これは譲らないよ。うん、お前の話は分かった。立花が好きで付き合い始めたと報告してくれたんだな。でもそれは今は、ってことだ」
私の椅子の背に手を掛けて顔を近づけてくる。近い、近い!
「お前が今誰を好きでも、俺の気持ちは変わらない。それに気づいたから」
「えっと……、以前の返答も含めてお話したつもりだったんですが……」
「結婚を前提に、って話したことだよな。分かってるよ、今は付き合えないってことだろ?」
ちがーう!
「重ねてで申し訳ありませんが、私は」
「俺が誰を好きでもそれは俺の勝手だろう。安心しろ、無理に押し倒したりしないよ。でも引き続き立花とはライバルだ。あいつにもそう言っとけ」
ええええ?! なにそれ、意味ない! 私の今日一日の緊張は?!
慌てる私とは裏腹に、やけに上機嫌になった矢崎さんは追加の冷酒を注文していた。
帰ろうかな、私。