第76話
受付で入館証を返却しロビーに出ると、常務と矢崎さんが待っていてくれていた。
「お待たせして申し訳ありません」
そう声を掛けながら近づく。気づいて振り向いた二人は、ぎょっとしたような顔をした。矢崎さんはそのまま駆け寄ってくる。
「どうした?! 顔、真っ青だぞ」
え、あれ……?
自分では分からなかったので、片手で顔を触ってみるが、そんなことで顔色が分かるはずもない。
姉の時のように過呼吸になることは無くても、顔色を無くすレベルにはしんどかったらしい。
「大丈夫です。あの、お待たせした上に申し訳ありませんが、お手洗い行ってきていいですか?」
「あ、ああ……。ここで待ってる。気にせず行ってこい」
私は矢崎さんと、少し離れたところにいる常務に頭を下げ、受付で聞いてトイレへ向かった。
ほんとだ……。化粧してるのに唇まで青く見える。プールサイドで冷えた小学生みたいだ。
私は化粧ポーチを出してメイクを直す。朝つけてきたよりも赤色が強い口紅をつけ、チークを薄く乗せて、ファンデーションで馴染ませる。ついでに誰もいないことを確認し、朝のように両頬を叩いて気合を入れた。よし。
何とか人に心配されないレベルになったことを確認してバッグにポーチを仕舞う時、メッセージランプがついているスマホが目に入った。確認すると、来人だった。
一気に気が緩む。もし今一緒に来ているのが矢崎さん達ではなく来人だったら、間違いなく泣き崩れていただろう。それほどに、私は既に来人に頼り切っているようだ。
何かメッセージを送ってきているらしいが、まだ今は甘えるわけにはいかない。アラートだけ消して、返事はしないまま私はトイレから出た。
「お待たせしました。ありがとうございます」
改めて二人に声を掛けると、今度は常務が心配してくれた。
「体調悪そうだったけど、もし辛かったらこのまま直帰していいぞ?」
有難い提案だが、月曜日のまだ午後三時前だ。今から社に帰って今の打ち合わせ内容をまとめ直して二人に確認してもらわないと落ち着かないし、大体今夜は矢崎さんに大事な用がある。
しかも体調不良ではなくメンタル不調だ。理由も、久しぶりに実父に遭遇したから、なんて、情けないにもほどがある。
「もう大丈夫です。立派な会社なので緊張し過ぎたみたいです」
私がそう言うと、常務は頷いて立ち上がる。矢崎さんはまだ納得していないような顔をしているが、私は小さく頭を下げ、駐車場へ移動する常務に従った。
◇◆◇
オフィスへ戻り、途中で常務と別れ、矢崎さんと二人でフロアへ向かった。
二人きりになると、矢崎さんは徐に心配を向けてきた。
「本当に大丈夫か? 化粧で誤魔化してるのは分かってるぞ」
ギク。もう、この人といい来人といい、嘘が通じない相手は困る。
「さっき佐々木さんも言ってたけど、しんどいなら早退してもいいんだぞ」
優しい。今私の周りにいる人は、優しい人ばかりだ。だからこそ、頑張りたいと思う。
「ありがとうございます。本当に大丈夫なので……」
「じゃ、折衷案でお茶していくか。三十分くらい二人でサボろう。どうせさっきの打ち合わせ内容をまとめようと思ってるんだろう? その後でも出来るだろう」
仕事の進め方を、私は矢崎さんから教わった。なら私が次に何をしようとしているのかを彼が把握しているのは当然だ。
私はその提案を有難く受ける。
「じゃ、サボり、付き合ってください」
あえて『サボり』と繰り返したが、何故か矢崎さんは嬉しそうに笑って頷き、もう一度下の階へ移動した。
◇◆◇
「何があったか、聞いていいか?」
カフェのテーブルにつくなり、矢崎さんが切り出した。
「言いたくないかもしれない。ただ、今後プロジェクトを進めていく上でも、成瀬にとっての脅威は取り除きたい」
脅威、って……。
「大丈夫です、今日は」
「親父さんか?」
ズバン、と名を出されて固まる。しかしそりゃ分かるよな。父と二人で会話した後に変な顔色になってたんだから。
「ご家庭の事情に口を挟むつもりはないが、もし成瀬氏と接触することが苦痛なら、対策を取りたい。お前のためにも、プロジェクトのためにも」
最後の言葉は、半分本音で、半分は私に遠慮させないためだろう。でも『プロジェクトのため』と言われると、話したくないことも話せる気がする。いや、もしかしたら聞いて欲しいと、心のどこかで思っているのかもしれない。
「父とは……、会うのは八年ぶりです。大学の卒業式の日以来会ってませんでした」
矢崎さんが驚いて息を飲む気配がする。
私は時計を気にしつつ、父を避ける理由を話し始めた。