第71話
結局、来人からヒントを引き出すことも、来人からの要求に応じることも出来なかった。
考えすぎと言われると余計考えてしまう。よろしくない。
ここは来人の言う通り、一度この件を頭から除外しよう。
料理が冷めるよ、と言われて、改めてテーブルを見ると、美味しそうな品が並んでいる。ビストロというか洋風居酒屋みたいな、食べやすそうな料理が多い。
最近は来人や矢崎さんのおかげで以前より外食の機会が増えた。人と一緒にモノを食べるのはやはりあまり得意ではないが、外での食事のメリットは自分では作れない料理が食べられることだ。一人でも気兼ねなく入れる店を探すのもいいかもしれない。
サラダを二人分取り分けて、来人に差し出すと、さっきカルパッチョを薦めた時と同じ格好のまま、まだじっとこちらを見ていた。な、何?
「サラダ。食べるでしょ?」
野菜食べないなんて許さん、という気迫を込めて皿を突き出すと、礼を言いながら慌てて受け取る。変なのは来人だ。何故かフリーズしていたらしい。珍しい。
「大丈夫?」
思わず顔を近づけて表情を覗き込む。具合が悪そうには見えないが。
「千早、近い」
空いてるほうの手で額を押し返された。なんだよ、心配してるのに。
でもやっぱりおかしい。顔が赤い。入社日だって淡々と挨拶して顔色なんか変わらなかった奴なのに。
「もしかして、酔った?」
まさかね。まだ二杯目?くらいのはずだ。
突然呼び出した責任上、もし体調が悪いなら解放してあげなきゃいけない。私はグラスを置いてもう一度来人に確認をしようとしたところ、くすりと笑ってこちらを向いた。
「酔ってないし、体調も悪くないから大丈夫。そうだな……、酔ってると言えば、千早に酔ってるかな」
ダメだ、酔ってなくてもアホになってる。
こういう時の来人に絡むと完全に奴のペースに巻き込まれることは学習済みだ。無視して食事に専念することにした。
メニューを広げると、小ぶりのピザが目に入った。美味しそう。
「追加頼んでいい?」
「好きなもの頼んでいいよ。俺は千早見てるだけで充分だから」
私はメシではない。そして見てても腹は膨れない。
「来人、全然食べてないじゃん。食欲ないの?」
「不思議だよね。心が満たされると食欲って無くなるんだって初めて知ったよ」
意味が分からないが、具合は悪くないし酔ってるわけでもない、そしてあまり食欲は無いのだということか。じゃあ注文し過ぎないようにしなきゃ。
私は店員さんにピザではなくシーフードマリネを注文し、メニューを閉じる。
「なんだ、ピザ食べなくていいの?」
「来人があまり食べないなら、頼み過ぎないほうがいいかなと思って」
「残ったら俺が食うよ。千早が食べたいものを食べて欲しいな」
なんか私甘やかされてる?でももう注文したし、マリネも美味しそうだし。
「ありがとう。食べたいもの食べてるよ、大丈夫」
そう答えると、来人は安心したように微笑み、グラスに口を付けた。
落ち着かない。いつもの人の心の裏の裏まで見透かすような会話は、疲れるけど楽しい。こんな風に子供をあやすように優しくされるのは慣れていないせいもあってむしろ怖い。
気を使わせるような何かを、私はしてしまったのだろうか。
一緒にいる相手の態度が急に変わる時は、大抵相手を不快にさせてしまった時だ。仕事でも、友人でも……家族でも。
だから今も、私は来人の変化が気になって仕方がない。私なりに理由を探って質問を投げてみたが全部外れていた。じゃあどうして?
そして分からないのは、やけに来人が嬉しそうにしていること。さっきも『心が満たされる』って言ってた。急になんのことだ。私が自分の世界に閉じこもってるうちに何かあったのだろうか。
あの短時間で来人に何かが起きて、食事をする必要がない位に満たされた、ということか。
何があったんだろう。
そこまで考えて、そっと来人へ目を向けると、相変わらず私をじっと見ている。優しそうに微笑みながら。うっすら頬に赤味が差しているのはさすがにアルコールによるものだろう。
しかし、来人とは反対に、私は急に腹の下のほうが冷えてくる感覚に襲われた。
私の知らない何かが、来人の気分を変えた。
それは、何?
さっきまでの心地よさは綺麗に拭い去られてしまった。
出来ればもう帰りたい。しかしテーブルの上の料理はまだ半分以上残っているし、さっき追加注文したものもまだ供されていない。
私達以外にも、店内には客がたくさんいた。話し声、食器がぶつかる音、静かなBGM、店員の足音。
そのどれもが週末の暖かな幸運を表現しているようだった。
そう感じることは出来ても、私は言い様のない不安に、どんどん支配されていくのが分かった。