第57話
「おー、やっと着いたな。帰りは道混んでたなー」
うちのマンション前に到着し、矢崎さんは車を停車させる。行きは一時間ちょっとで到着したのに、帰りはその倍かかった。
「お疲れ様でした。二人とも、少し寄っていきますか?お茶くらいなら入れますので……」
ここで『はいサヨナラ』はさすがに申し訳ないので休憩場所を申し出ると、二人は同時に頷いた。
「お言葉に甘えようかな」
「俺は矢崎さんほど役に立ててないけど、折角だから」
矢崎さんの車をマンションの来客用スペースに止め、三人でエレベーターに乗った。
◇◆◇
「どうぞ」
人数分のコーヒーと、貰い物のマロングラッセをテーブルに並べる。何故か矢崎さんと来人は対角線に向かい合って座っている。別にいいんだけど、そうすると私は一体どこに座ればいいの?
「ありがとう。悪いな、朝は突撃で、帰りもお茶出してもらって」
「……来人には前に言ってあるんですけど、出来れば事前の約束かご連絡を……」
「だから千早が出ないから突撃になっちゃったんじゃん。不可抗力だよ」
何故か偉そうに反論する来人に、私は呆れる。そういうことじゃないでしょ、せめて前日には約束するのが……。
言い返そうとしたところで、矢崎さんが硬い声を出す。
「俺は二度とこんな振る舞いはしないよ。約束する。立花、お前もな。いくら成瀬に惚れてる、体調が心配だと言っても、踏み越えてはいけない境界線があるだろ」
対角線同士で二人がにらみ合う。常に柔らかい空気をまとう矢崎さんが珍しくきつい物言いをするので、私も緊張するが、そう、私が来人に分かってほしいのはそこなのだ。だから黙っていることにした。
来人は手に持っていたカップをテーブルへ戻すと、組んでいた脚も戻して矢崎さんに向き直る。
「確かに独身女性の家に突撃かますのは失礼な振る舞いでした。二度とやりません。ただ……、俺と千早の間の線を、どんなふうに踏み込えるかにまで、あなたに指図されたくない。それこそ、あなたが千早を好きでも、口出す領域ではないでしょう」
「成瀬が迷惑だって言ってるのに、お前は聞き入れる素振りが無い。俺が心配になるのは当然だろう」
悪びれず言い返す来人にカチンときたのか、矢崎さんも言い返す。その様子に、場の空気はどんどん冷たくなっていった。
「千早が本気で嫌がることはやりません。それくらい感じ取れます」
「本当か?ちゃんと公私の区別もつけられているのか?俺はお前がうちに転職してきた理由も信じてないぞ」
「佐々木常務に言った理由も本音ですよ。千早については話してないだけです」
「やっぱり成瀬が理由か。彼女のそばに居たいために転職までしてくる奴を、警戒するなと言われても無理だな。俺はそこまで余裕ない」
「ずっと一緒にいたのにただの上司と部下の関係しか築けない人に遠慮するほど、俺だって余裕なんかないですよ」
「ちょーっと待った!!そこまで!!」
私はどんどんヒートアップする二人の会話に、わーっと叫びながら飛び込んでタオルを投げる。はいもうタイムアップ!
「突然来てもらっても家が散らかってるかもしれないし、のんびりしたい日もあるし、予定を急に変えるのに慣れてないから戸惑うっていうか……。それだけ分かってもらえればいいです。だから……」
週明けからは帝国管財プロジェクトも本格化する。司令塔である矢崎さんとの関係が悪化するのは来人にとって不利だ。私だって二人の関係悪化を知った上で調整役を務めるのは骨が折れる。つまり面倒くさいから、やだ。
「色々脱線しないで。私なら大丈夫ですから……。矢崎さん、代弁してくださってありがとうございます。来人も。もう心配かけるようなことしないし、出来る限り電話も出るから」
力なく双方に声を掛けると、やっと目が覚めたようにハッとした表情でこちらを見る。やれやれ。
「ご、ごめん……」
「すまない、つい……」
「いいですって。二人とも、要するに私が情けないから心配してくださったんですよね?こちらこそすみません」
風邪ひいて寝込んで、でも病院行かずに長引かせて何日も欠勤したのは私の落ち度だ。一人暮らしなら、万が一、を心配するのは、上司としても知人としても当然だろう。逆の立場なら私でも心配になる。
「もう音信不通みたいな真似はしないから。だからそんなに気使わないで。ね?」
二人への負担を無くしたいという気持ちもあったが、何故か険悪になった矢崎さんと来人の関係の方向性を変えたくてそう言ったのだが、二人はきょとんとしたような顔をして、次いで一気に吹き出して大爆笑した。な、なんで……?
「なんで笑うのー?!」
不本意だ。子どもみたいなケンカをしてたのはどっちだよ!それを止めてあげたのに!!
「いや、千早らしいなって思ってさ」
「ああ、心配かけたな、悪かった」
謝ってない!笑ってる!ていうか『らしい』って何?!
今朝に戻ったかのように怒り始めた私を、さっきまでにらみ合っていた二人が笑いながら眺めている状況なんてあり得ない。もう!仲裁なんかするんじゃなかった!
「悪い悪い。お詫びに俺のおごりで寿司でも取ろう」
ついに涙を流すまで笑い続けた矢崎さんが提案してくれたが、出来れば拒否したい。この人に奢ってもらうと後で何倍返しになるか分からない。
しかし私を無視して来人と二人で注文の品を選び始めた。私は抵抗することを諦め、コーヒーの代わりに緑茶の準備をするためにキッチンへ向かったのだった。