第55話
「昨日って、何のことですか」
千早が着替えている間に、どうしても気になったので矢崎さんに問い質す。ん?というふうに眉を上げながら、ゆっくりと俺のほうへ体を向けた。
「いや、ちょっと彼女に頼み事をしてね。その件だよ」
「昨日、千早は野村君と飲みに行ってたはずですよ。矢崎さんも同席したんですか?」
「違う、別件だよ……。立花、上司をファーストネームで呼び捨てにするのは失礼だろ」
「会社ではだめだ、と言われてますけど、ここは違うでしょう」
野村との食事の後に誘ったってことか。この感じだと内容は言わなそうだ。仕方ない、後で千早に聞こう。
「ごくプライベートなことだ。彼女に突っ込むなよ。きっと言いづらくて困らせるぞ」
俺の思考を読んだように追加注文が入る。彼と仲良く並んで座っている状況すら不快になったので、俺はトイレに行くふりをして席を立った。
どうやら俺は、似た者同士の天敵を見つけてしまったのかもしれない。
◇◆◇
「成瀬、どこか行きたいところはあるか?」
運転席から、矢崎さんが尋ねてくれた。矢崎さんも来人も自分の車で来ていて、どっちの車で行くかで何故か散々揉めた挙句、矢崎さんが勝ったらしく、彼の紺色のワゴン車で移動中だ。
「そうですねぇ……、って、私が決めていいんですか?」
二人を交互に見ると、『もちろん』というように大きく頷く。そうなんだ……。ま、休日の朝から自宅におしかけられた被害者は私だ。行先を決める権利くらい与えよう、ということだろう。
「じゃ、初詣。まだ今年行ってないので」
「お、いいね。俺もまだだった」
「俺もです。でも千早、人混み嫌いだろ?まだ混んでるんじゃないか?」
来人の気遣いにありがたく頷きながら、私はスマホで検索した。
「都内の人気のある神社じゃなくて、ちょっと郊外の……、そうだ、二人とも今日って忙しいですか?」
ある場所を思いついたが遠い。往復に時間がかかるだろうから一応確認したところ、何故か二方向から爆笑された。
「予定があるならアポなし訪問なんてしないよ」
「そうそう。もしあってもそっちをキャンセルすればいいだけじゃん」
笑われた……。ちょっと恥ずかしくなって、でも確認した理由を明らかにするためにも希望の行先を告げる。
「高尾山。ちょっと遠いけどいいですか?」
運転中の矢崎さんが驚いて少し振り向きかける。が、大丈夫だ、というようにかぶりを振った。
「停車してナビ設定するから、待ってて……。そうか、高尾山は行ったこと無かったなぁ」
「山、なんですよね。俺ら山登りに適した格好じゃないけど、大丈夫かな」
「大丈夫じゃないかな。登山口からケーブルカーがあるから」
私はスマホ画面を二人に見せる。行ったことはないが、行ってみたいと思っていたのでそこそこの情報は持っている。まさか今日突如願いが叶うとは。嬉しくて急にワクワクしてきた。
私のスマホ画面を覗き込んでいた二人は、納得したように笑った。
「なるほど、これなら何とかなるか」
「千早、急に元気になってきたね。そんなに行きたかったの?」
「うん!紅葉シーズンになるといつもどうしようか迷って、でも結局行かずじまいで毎年終わってたから……。混んでたらごめんなさい」
「千早が謝らなくても……。良かったな、行きたいところ連れてってもらえて」
ヨシヨシするみたいに来人が私の頭を撫でる。バックミラー越しに矢崎さんが吹き出した。
朝からずっとこんな風に子供扱いされている。恥ずかしくてたまらないが、誰もそれを馬鹿にしたりしない。笑っても、そこから『見守ってくれている』感が伝わってくる。
普段の私なら『子ども扱いするな』と来人の手を払いのけ、笑った矢崎さんにもツッコミを入れていたかもしれない。でも今日は、不思議とこの場の空気を受け入れられていた。
本当に子どもだった時には味わえなかった優しい空気を、しっかりと自分の中に取り込むように、深呼吸した。
◇◆◇
「うわー……、すっごい混んでる……」
ケーブルカーに乗るまではそうでもなかったが、薬王院の山門前まで来たところで、行列する参拝客に私は思わず感嘆の声を上げる。三が日も、松の内も過ぎているのに、やっぱり人気なんだな。
「仕方ないよ。これでもきっと元旦とかよりは空いているんじゃないか?初詣気分の一部だと思っておこう」
ほらほら、というように、矢崎さんが私と来人の背を押して列につく。寒さのあまり途中でコンビニに寄って手袋を買ったのは正解だった。この感じだと三十分は立ちっぱなしだろうなぁ。
「千早は何をお願いするの?」
寒そうに身を縮めながら来人がきいてくる。お願い?うーん……。
「そうねぇ、新年の初詣だから、まあ普通に無病息災とか?」
聞いていたらしい矢崎さんが、意外だ、というように眉を上げる。
「彼氏ができますように、とか、給料アップ、とか、その手の願い事はしないんだな」
彼氏なんて要らないし、お給料も十分頂いてますし……。それは上司であり私の査定もしている矢崎さんがよくご存じでしょう。
「そういう二人は?何か特別なことお祈りするんですか?」
どう考えても神頼みとかしなさそうな二人だ。私が言い出さなければそもそも初詣自体行かないように見えるが、あえて聞いてみる。
『特にない』という答えを想定していたら、何故か二人が目を見合わせる。しかしそれも一瞬だけで、私へ向き直ると、無言でにっこり笑った。
「「内緒」」
……はい、分かりました。