第41話
「じゃ、来月、というか来年か。よろしく頼むぞ」
佐々木常務は来人をはじめ、私たちににこやかに笑いながら握手を求めてきた。順に応じる。
「こちらこそよろしくお願いします、矢崎さん、成瀬さん」
来人は私達にも握手を求めてきた。心なしか矢崎さんの手を握ってる時間が長く見えたが、気のせいだろうか。
お店の人が三台タクシーを呼んでくれた。……三台?
「じゃ、矢崎は責任もって成瀬を送っていけ。ただし送るだけな」
え、ええ?なんでそういうことになってるの?
「常務、私普通に電車で帰りますよ。まだ時間早いですし」
そう言うと、佐々木常務は呆れたように肩を叩いて来た。
「何言ってんだ。この中で一番タクシー使わなきゃいけないのはお前だろう。お前、自分が女だってわかってるか?」
まあ一応分かってますけど、まだ夜の九時過ぎだし、一人でも……。
「あ、じゃあ俺が送っていきますよ。成瀬さん、行こ」
……へ?
驚いて間抜けな顔をしているだろう私の腕を取って、既に後部座席のドアが開いている一台に乗り込んだ。ちょ、後ろから押さないでって。
「じゃ、お疲れ様でしたー」
窓を開けてもらって、びっくりする私、常務、矢崎さんの三人を尻目に爽やかに挨拶をした来人は、運転手さんにうちのマンションの住所を告げた。
「来人……、本気?」
車が走り出してから、二人になった気安さから一番聞きたいことを聞いていた。
「本気って、何のこと?とりあえず千早には本気だよ」
そっちじゃない。
「転職するの?うちに?コンサルタントになりたいの?」
「ああ、おじさんにはそう言ってお願いしたんだったね、忘れてた」
おい。
「千早も分かってるでしょ。俺は千早のそばに居たい。千早に害をなす人間がいるなら守りたい。でも会社が違ったら出来ないじゃん。だから同じ会社に転職する。……ね、筋が通ってるでしょ?」
「……筋が通ってるとかじゃなくて、だって、そうだ、今の案件はどうするの?あんたがマックスのメインメンバーじゃないの?」
「ちゃんと引き継ぐよ。それは心配しないで。来週には新しい担当者と引き合わせるから」
全然状況に着いていけてない私とは正反対に、全ての流れを掴み操作しているかのような来人の落ち着いた横顔に、ほんの少し恐怖を感じた。
この子、こういうタイプだったの?
思わず初めて会った人を観察するようにじっと来人を見つめていると、私のスマホがバッグの中で鳴っている。取り出すと矢崎さんだった。
「はい、成瀬です」
『やあ、今日はお疲れ様。……驚いたね』
矢崎さんの声を聞きながら、私は再度来人を振り向いて頷いた。
「はい……」
『今、一緒なの?』
「はい、タクシーの中です」
『さっきもやられたな。あんなにさっさと君を盗られるとは思わなかった』
盗るって……。モノじゃないんで、私。
「常務ももうお帰りですか?」
『うん、店の前で分乗したからね。佐々木さんの知り合いだったとはな。俺も土日で作戦練り直すよ』
作戦?ああプロジェクトの。
『誤解してるな。違うよ、奴から君を取り戻す作戦』
……なんじゃそりゃ。
馬鹿なこと言ってないで、と言い返そうとしたら、横から伸びてきた手がスマホを取り上げた。
「お疲れ様です。立花です。今日は……、ええ、すみませんそれは本当に。……ああ、その件については今千早からも釘刺されましたのでご心配いらないですよ。はい、はい……ええこちらこそ、よろしくお願いします。では」
では、って、あれ?切った?普通切らないで戻さない?
少しの非難を込めた顔でスマホを受け取ると、しかし全く悪びれない顔で来人が笑う。
「出来るだけ接触減らすのは当然だろ。ライバルなんだから、矢崎さんは」
多分すごい強敵だよね、とも付け加えた。
酔いも手伝って、段々来人と話すのが怠くなってきた。
元来この手の会話は苦手だ。恋愛絡み自体が苦手で経験が少ない上、恋愛と関係なくても自分の内側に手を突っ込んで感情を言葉に変換して口から出す作業がこの上なく苦手なのだ。何も考えていないわけではなく、何も感じていないわけではない。ただただ、言葉として表現することが苦手なのだ。
だから、ライバルだとか、盗るとか、そういうの……。
「やっぱり私には無理だと思う」
気が付けば声が出ていた。来人が何か言いたげにこちらを向いたが、今度は良いタイミングでタクシーが停車した。窓から見上げればうちのマンションだった。
「千早」
呼び止められたが、私は振り返らず車を降りた。真っすぐに自分の部屋へ向かう。こうやって逃げているからいつまで経っても進歩が無いのだと、心の中で声が聞こえた。それは自分の声にも、姉の声にも聞こえたが、気に留める余裕はなかった。