第30話
食事も終わって食後のコーヒーを飲んでいる。三人で。至極不自然だ。コーヒーを淹れたのは矢崎さん。私がやるって言ったのに聞かなかった。
ピピピピ、と体温計の測定完了の音が鳴る。体温は三十七度二分。あんまり変わらないけど、普通仕事出来るよね、コレ。
明日は出社します、と言おうとしたら、横から矢崎さんに体温計を取り上げられた。
「なんだ、まだ七度以上あるじゃないか」
「ほんとだ、夕方は熱が上がりやすいっていうけど、まだ治ってないよね」
「明日も休みにしよう。俺が手続きしておくから」
ちょ、ちょっと待って。
「あの、本当に大丈夫ですから」
インフルエンザじゃあるまいし、そんなに何日も寝てたら脳みそ腐る。
「会社、行きます。明日は」
「「ダメ」」
何故か二人にユニゾンで却下された。
「そうだ、俺も仕事休むから、一緒に病院行こうか」
来人が突拍子もない提案をしてきたので全力で辞退するが、矢崎さんが同意した。
「病院は行ったほうがいいね。俺がついて行くので、立花さんは大丈夫ですよ」
「いや、矢崎さんお忙しいでしょう。俺有給いっぱい余ってるんで」
「俺もそうですよ。……ああ、成瀬さんも全然使ってないよね。年間で半分は消化しないと会社が指導受けるんだよ。つまり成瀬さんが休まないと俺が怒られるの。だから明日は休もう。午前中病院に行って午後寝ていればいいよ」
確かにこれだけ完治しないなら医者に診てもらったほうがいいのかもしれない。私は観念して力なく頷いた。どうやらそれを、矢崎さん付き添いに同意したと思われたらしい。
「じゃあ明日八時くらいに迎えに来るから。車で来るから、心配しないでね」
やたら嬉しそうな顔の矢崎さんと、また無表情になってる来人。どっちも怖い。
「じゃあ俺たち帰るから、しっかり休むんだよ」
矢崎さんは荷物を持つと、さあさあ、と言わんばかりに来人を急き立てる。非常に不満げな来人だが、いい加減私を休ませないといけないと思ったのか、素直に立ち上がった。
「冷蔵庫にチンすれば食べられるもの作って入れてあるから。とにかく栄養付けるんだよ。いい?」
「本当にお母さんみたいだよ……、でも分かった、ありがとう」
感謝していたことは伝えたかったのでそれだけ言うと、来人はやっと無表情から復帰して優しく笑った。
玄関で二人を見送り鍵を閉めると、一気に緊張感が抜けてその場に座り込んでしまった。
もう本当に勘弁してほしい。これなら受診どころか、どこかの病院に入院すれば良かった。
やっとの思いで冷たい床から立ち上がり、リビングを片付け、そのまま寝室へ戻った。
◇◆◇
二人で彼女の部屋から出ると、途端に立花の纏う空気が変わった。それは予期していたことでもあるし、向こうが何も言わないなら俺から動こうと思っていた。
「矢崎さん、俺、千早に惚れてます」
何の前置きもなく飛び出してきた立花のセリフに一瞬唖然とした。若い(俺も若いが)ってすごいな。
「矢崎さんは千早をどう思ってるんですか。ただの部下に、こんな風に見舞いに来たりしないですよね」
絶対に引かない、とでもいうような強い光を宿した挑戦的な目を見て、年長者としての遠慮も配慮も吹き飛んだ。今こいつは男として俺を問い糾している。躱すわけにはいかない。
「もちろん見舞いに来たのも心配してるのも部下だからじゃない。彼女は俺にとって特別な女性だよ」
きっぱりとそう告げると、何故か安心したような笑顔を向けてきた。
「良かった。ここで逃げるような人なら二度と千早に近づくな、って言おうと思ってたんですけど。それなら俺と矢崎さんは同じ立場ですよね」
「君は?」
「はい、好きだって言いました。逃げられましたけど」
やはりそうか。ずっと見ているが、成瀬千早は何故か縁遠い。あの見た目と性格でモテないはずはないし、良いと思っている社内の男もいる。しかし恋人がいるような気配は今まで一度も無かった。だからこそ、今日彼女の部屋に立花がいたことに仰天したのだ。
「俺もだ。結婚を前提に付き合って欲しいって言ったよ。同じく返事はもらえなかったけどね」
俺は徐々に立花に対して仲間意識が湧いてきた。同じように笑って頷く彼は、だが驚くことを言った。
「仕方ないですよ、千早には意中の人がいるんで」
「え……、え?成瀬、好きな男がいるのか?」
「好きな男って言うか……、まあ、理想高いですよ」
「……なんだ、芸能人とかか?」
そういうイメージも無かったのだが、若い女性ならあり得る話だ。
「そんなもんです。だからお互い頑張りましょう。あれに勝てたら最強ですから」
やけに含みを持たせ続ける立花の話に次第に苛立ちを覚え始めた。よく考えてみたらこいつと長話する理由はない。
「そうだな。じゃあ、俺はここで」
少し歩いてタクシーを拾うつもりで歩き出す。立花は路上駐車してあった車に乗り込んだ。よかった、一緒に表通りまで歩く気は無かったから。
一人になってから携帯を取り出す。きっともう彼女は眠っているだろう。メールだけでも送ろうかと思ったが着信音で起こしたくない。明日の朝また会えるのだと思うことで我慢した。
長い付き合いだが彼女のプライベート空間に足を踏み入れたのは初めてだ。その僥倖と思わぬライバルの存在に、余計彼女に執着し始めている自分を、俺は強く感じていた。