第131話
気が付いた時、数秒、自分がどこにいるのか分からなかった。
真っ白い天井、背中に感じる柔らかい感触、そして。
「大丈夫か」
ゆっくりと目を声の主へ向ける。そこには心配そうに覗き込んでくる来人がいた。
「えっと……、私……」
「エレベーターの中で倒れたんだよ。覚えてないか?」
私は少し記憶を遡る。そうだ、エレベーターに乗って来人がいて、途中でぐるんと地球が回って……。
「回ったのは地球じゃなくて千早。驚いたぞ」
「ごめん」
「謝るな。……良かった、俺がいる時で」
私は驚いて再び来人を見る。久しぶりに向けられた彼の笑顔に、もう限界だった。
次々に溢れてくる涙が止まらない。
「泣くな」
無理。
「寝たまま泣くと鼻詰まって辛いぞ」
分かってるけど……。
既にズビズビし始めた私に、来人がティッシュを箱ごと渡しながら笑い出した。
「そう言えば前にもあったな。千早が泣きすぎて鼻水に困って、俺がティッシュ渡したこと」
「変なこと思い出さなくていいよ」
私は起き上がって思いきり鼻をかむ。ティッシュにファンデーションがべっとりついた。後で化粧直ししなきゃ。
私が出した大音響のせいで、外にいる人が気が付いたらしい。白いカーテンが開く。会社に常駐するドクターだった。
「良かった、目が覚めたのね。立花君、すぐ教えてって言ったじゃない」
「すみません」
謝る来人をカーテンの外へ追い出し、彼が座っていた椅子に腰かけると簡単に具合を見てくれた。
「ちょっと貧血気味ね。寝てないでしょ」
私はバツ悪く頷く。しかも碌に食事も取ってない。
「今が大事な時期なんだから、生活リズム守って。あとちゃんと栄養取って」
私はお叱りを素直に受け止め頷きつつ、ドクターの言葉の一部に『?』を感じた。
大事な時期?
「あら、気づいてなかったの。妊娠してるわよ、あなた」
◇◆◇
「一度ちゃんと産婦人科で診てもらってね。今日はもう帰りなさい、仕事しちゃだめ。家は? 近いの?」
ぼーっとしつつ、私は頷いた。
「タクシーで帰りなさい。矢崎さんには私から連絡しておくから。立花君、君、成瀬さんの荷物取ってきて」
最後はカーテンの外にいた来人へ。えっ? と驚いたように声を上げた。
「チーフ、早退ですか?」
「そうよ、このまま仕事なんかさせられないわ。ほら早く」
まだ何か言いたそうな来人を医務室のドアから追い出す。有無を言わさない態度が頼もしい。
私は恐る恐る質問した。
「あの、私来年度からニューヨークに開設する支社のメンバーになってまして……」
ドクターはびっくりしたように振り向く。
「向こうで産むつもりなの?!」
「いえ、その、どうしたらいいかなぁ、って……」
カーテンを閉め直すと、再びドクターはベッド横の椅子に腰かけた。
「堕胎するつもりは、ないのね」
言われて気づいた。そうか、そう言う方法もあったんだ。だけど……。
私は頷く。
「ありません」
「そう……、父親に心当たりは?」
私はまた頷いた。そんなの、一人しかいない。
「じゃ、その人と相談しなさい。医師としては……慣れた環境での出産育児を薦めるわ。支社のことは、上がどうにかするでしょ」
あくまで私の体と子どもの命を優先したアドバイスがありがたい。そして仕事のことは軽く流すところも。
「わかりました。ありがとうございます」
そう言う私の肩をポンポン、と叩いてドクターは去って行った。
入れ替わりに来人が戻ってくる。
「パソコン、シャットダウンして仕舞っちゃったけど大丈夫だよね?」
「うん、ありがとう」
「立てる?」
来人が私の両腕を支えて立たせてくれた。揃えられた靴を履き、よれた服を整える。
スタッフに礼を言って、荷物を持ってくれている来人と一緒に医務室を出た。
「あの医者、なんか言ってた?」
「なんか、って……」
「千早の体調。早退しろっていうくらいだから、そこそこ悪いんだろ」
貧血かな、顔白いぞ、とか言いつつ私の額や頬に手を当てる。
そうしていると、全てが元通りになったような錯覚を起こしてしまいそうだった。
私は両手で、来人の手を止めた。
「来人、話があるの……」
一緒に早退してくれない? と言うと、怖いくらい真剣な表情で、頷き返してくれた。
◇◆◇
千早をロビーに待たせて、俺も早退の許可を取る。
千早がぶっ倒れたことと合わせて矢崎さんに相談すると、二つ返事でOKが出た。話が早くてありがたい。
「お待たせ」
俺が戻ると、千早は笑って立ち上がるがやはり顔色は悪い。何の話があるのか想像がつかないが、彼女の体調のためにも早く帰ったほうがいいだろう。
「タクシー、乗れる? 酔わない?」
「大丈夫。ごめんね、来人も忙しいのに」
「千早の十分の一も忙しくないよ……、あ、空車だ」
俺は手を上げてタクシーを止める。先に千早を乗せ、マンションの住所を告げた。
「先に着替えてこいよ。何か飲む? それとも食べる?」
一人でバタバタする俺に苦笑すると、千早は首を振って俺に座るように促した。
「先に話がしたいの。座って」
その言葉に、俺はほんの少し恐怖を覚えた。一カ月前、同じような言い方で切り出されたのが例の海外赴任だった。また同じように、俺にショックを与える話なのだろうか。
しかし話をしないと休むどころか着替えるつもりもない千早に、俺は仕方なく言われた場所に座った。
「あのね、さっきドクターにね……」
千早が告げた内容に、俺は呼吸も忘れて彼女を見つめた。