第127話
静かな音を立てて、玄関のドアが閉じられた。
私が呆然と座り込んでいた間に、来人は部屋を片付け、あっという間に出て行ってしまった。
泣きすぎてガンガンする頭痛を堪えながら、今さっきの彼とのやり取りを思い出そうとするが上手く出来ない。自分がどう話したのか、それに対して来人がなんて返してくれたのかほとんど覚えていなかった。
ただ、帰る、と言って、本当に帰ってしまったこと以外は。
一度は止まったはずの涙がまた流れ始める。
自分の夢のため、来人の夢を踏みにじりぶち壊してしまったのだと、この時やっと気が付いたが、もう遅かった。
◇◆◇
結局休日の間、一度も来人から連絡は来なかった。
そして私からもしなかった。しなかった、というより出来なかった。考える時間が欲しいと言って帰って行った来人の邪魔をしてはいけないという気持ちもあったが、それよりもこちらから連絡して拒絶されることが怖かったのだ。
ずっと一人で過ごしてきたはずの時間が、やけに長く、空虚に感じた。
来人とのこととは別に海外へ行くなら英語のおさらいをするとか提携先ファームについて勉強するとかやることはいくらでもあるはずなのに、何も手につかなかった。
最近は週末ごとにどうでもいい電話をしてくるお姉ちゃんからも、何も無かった。私たちに何が起こっているかは知らないはずなのに。
普段はうんざりするあの自分勝手な会話も、今だったら気分転換になるのにと思いつつ、あのお姉ちゃんを気分転換に使えるようになったのは来人のお蔭なのだと思い出し、また落ち込んだ。
そろそろ知り合って一年。
あっという間に過ぎ、想像もしていない関係になった。
それが、一瞬で壊れた。
私室のデスクには例の条件提示書が置かれている。私はこれを取って、来人を捨てたようなものかもしれない。左の薬指につけっぱなしにしている指輪に突然違和感を感じたが、今までとは逆でむしろ外したくなかった。
書類を眺めなつつ、しかしどうすることが正解だったのか分からなかった。
どちらを取っても後悔しそうな状況で、どうすることが正解だったのだろう。
◇◆◇
「チーフ、大丈夫ですか?」
週明けの出社早々、佳代に心配された。
「何が?」
「だって顔色真っ青ですよ……。生理ですか?」
女性らしい気遣いに私は心が和む。ちょっとだけ笑って首を振った。
「違う、大丈夫。昨日ちゃんと寝てないだけだから」
「ってー。チーフすぐ無理するからなー」
そこまで言って急に声を顰める。
「無理しないでくださいね。立花さんとも共有しておきますから」
え、いや、今はそれちょっと……。
戸惑う私を尻目に、佳代はニヤニヤ笑いながら自分の席に戻って行った。
来人が出社してきたが、お互い声だけで挨拶をかわし、目は合わせなかった。会社では上司部下の関係を貫いているので、周囲から不審がられることは無かった。
◇◆◇
初めて入った居酒屋は、いまいち居心地が良くない。だがそもそも長居するつもりは無いから我慢することにした。
俺は二杯目の生ビールを注文する。ふとスマホを見るが、相変わらず千早からの連絡は来ない。
昼間の会社での千早の様子を思い出す。あれから全く変わりなく仕事をこなしていた。俺の前で子どものように泣きじゃくっていたのとは同一人物とは思えない。
千早の優秀さをこのタイミングで見せつけられた気分だ。本来なら嬉しく誇らしいはずが、俺と離れ離れになることは千早に大したダメージを与えてはいないのかもしれないと思うと、涼し気なポーカーフェイスが腹立たしく、わざとらしいほど彼女を避けてしまっていた。
そしてそんな自分に苛ついているのだから、我ながら馬鹿だと思う。
腹立ちまぎれに出されたばかりのビールをジョッキ半分ほど一気飲みしたところで、後ろからどつかれた。
「何やってんだ、お前ら」
振り向いたら、今一番見たくない顔が二つ並んでいた。
「俺もビールでいいかな。佐々木さん、何にします?」
「俺も生で」
すいませーん、と、矢崎さんが店員を呼ぶ。ていうかさ。
「勝手に同席しないでください。俺一人で飲みたいんすけど」
「おごってやるから機嫌直せ。ついでに泣き言も聞いてやる」
おじさんが手を伸ばして俺の頭を撫でる。泣き言?!
「泣いてませんし」
「でも泣きたいだろ、愛しの彼女が旅立っちゃうんだから」
俺は自分のグラスを持った手がぶるぶる震える。出来たら中身をぶちまけてやりたい。でもそれを読んだ上で誘っているような佐々木のおじさんの顔にムカついて、必死で我慢した。
「なんで千早なんすか。他にいくらでもいたでしょう」
残りをぐいっと飲み干し、破れかぶれに上司二人に訴えた。
「俺達が決めたわけじゃないしなぁ」
「俺はそもそも選定に関わってないしな」
口々に言い返される。本当に偶然なのだと思うと怒りのぶつけ先が無い。泣き言聞いてくれるんじゃなかったのかよ。
「でも少し意外だったな。成瀬は赴任断るかと思ったけどな」
俺が注文した枝豆を勝手につまみながら、矢崎さんが呟いた。
「……もう答え出したんですか、彼女」
俺の決断を待たずに?
「まだだよ。でも毎日フラフラになりながら必死で仕事してるの見てれば分かる。お前と板挟みになってるってのはな」
板挟み、なのだろうか。
俺の目には、もう夢に向かってまっしぐらなようにしか見えないのだけれど。