第117話
「結婚するというのに親に報告すら出来ない半端者が、大層な口を聞くようになったな」
位置的に二人の間に挟まっているような私は両方を見比べてキョロキョロし、挙動不審になってしまう。しかし私以外の三人は、表情を曇らせこそすれ慌ててはいない。
「ごめんね千早さん。この二人こうなのよ、もうずっと」
「何年会ってなかった? 五年? 少しは歩み寄っても」
「ばあちゃん、無理言うなよ。歩み寄る理由も無いだろ」
そう言うと、恐らくこの場を設定した張本人だろうお母さんへ鋭い目を向けた。
「佐々木のおじさんや会社の上司まで巻き込んで、何だよこれ。どうせばあちゃんから千早のこと聞いて俺からあんた達に紹介させるために仕組んだんだろ」
「来人、おばあちゃんとお母さんは……」
「ごめん、千早は黙ってて」
声だけで来人が本気で怒っているのが分かった。私は驚いて、それ以上何も言えなくなった。
「俺は千早と結婚する。もう千早からOKもらってるし先方のご家族にもご挨拶した。俺は家から出てるし成人もしてる、あんたらの許可は要らない。……ばあちゃん、これでいい?」
許可や紹介というより、まるで絶縁状を読み上げたみたいだ。本来なら祝ってもらえる報告であるはずなのに、これを最後にもう会わないと宣言しているような。
私はおばあちゃんの家で見せてもらった子供の頃の来人の写真を思い出す。日焼けして真っ黒になって、カメラを構えているだろうおばあちゃんに満面の笑みを向けているちっちゃい来人。しかし一緒に写真に納まっている人物はいない。常におばあちゃんと二人きりの夏休み。
ならば、家に帰った後はどうだったのだろう。距離としてはすぐ近くにいるはずなのに、おばあちゃんのように来人の心に寄り添ってくれる家族はそこにはいない。いるのは来人の自由意思を無視して思い通りに操作しようとする父親と、その父を止めてくれない母親だけ。
大人になるまで、来人はどれだけの淋しい夜を一人で過ごしてきたのだろう。私とおばあちゃんさえいればいいと言い切ってしまうほど、来人の中にご両親の居場所はない。
来人は相変わらず無表情なままだ。お父さんが来た時のような震えも無い。ただ冷たく自分の家族を眺めていた。
「来人君、まあとにかく座って。これから食事も……」
「こんなメンバーで飯なんか食えないよ、おじさん。大体なに協力してんの? おじさんなら俺がどんだけこいつらと会いたくないか、分かってくれてもいいじゃん」
見かねて来人を宥めようとしてくれた常務に対して、彼の口調はプライベートなものになっている。私を黙らせ、常務の助言も無視し、もうおばあちゃんの顔さえ見ようとしない。
来人がご両親と和解した上で結婚したいという私の期待は、彼の心を全く理解していない絵空事だったのだとやっと気づいた。
「親に対してなんだ、その口の利き方は」
来人と反対方向から、またお父さんの固い声が聞こえてきた。今しがたの来人の言葉はまるで聞いていなかったかのような言い草に、当然ながら来人の何かのスイッチが入った。無意識にしがみついていた彼の腕に突如力が入り、筋肉が硬くなる。来人が私を振りほどこうとした瞬間、全力でしがみついて彼を止めた。
「ダメ! 来人、ダメだよ!」
「千早っ……、離せ!」
「落ち着いて! お願い!」
私と来人のやり取りを見て状況を理解したのは常務だけだった。一瞬怖い顔をし、こちらへ歩いてくると来人の顔を軽くはたいた。
「全く……、成瀬君がいなかったらどうなってたか考えると肝が冷えるな」
そう言うとそのまま私たちを部屋から連れ出した。
とりあえずお父さんから来人を離すことが出来たのでほっとする。
「じゃ、帰っていいよね」
来人が言う。私は内心それも仕方がないと思ったが、常務は首を振った。
「ここでお前を返したら本当に死ぬまで二度と顔合わせないつもりだろう。しかしいい年した親子が拳で語り合うのもドン引きだからな。一旦別の部屋に入れ、お前たち」
そしてお店と交渉して空いている個室へ私たちを案内してくれた。
「こっちに食事も運んでもらうから。とりあえず二人切りになって落ち着け。成瀬君、頼んだよ」
そして襖を閉めて元の部屋へ戻って行った。
◇◆◇
「立花、お前いい加減にしろ。成人した息子をいつまで私物化するつもりだ」
三人が待つ部屋へ戻り、佐々木は立花浩司のグラスにビールを注ぎながら、言っても意味が無いと分かりつつ長年言い続けて来た忠告を繰り返した。
「お前の気持ちはわかる。でもそれはお前が今までどうやって生きてきたかを知ってる人間だからだ。来人君には何一つ伝えないまま一方的に押し付けたところで理解なんかするはずないだろう」
佐々木は浩司の幼少期を思い出しつつ、諫めと慰め両方を言葉に込めながら話し続けた。
「俺の生い立ちとあいつは関係ない」
グラスを手にしつつ口にしないまま、浩司は言葉を返す。佐々木は進歩のない友人にため息がつきない。
「だったら自分の過去を持ち出して勝手な愛情の押し付けはやめろ。今の来人君にぶん殴られたらお前吹っ飛ぶぞ」
愛情、という佐々木の言葉に浩司は怯む。そしてさっきの小競り合いは、自分を殴ろうとした来人をあの女性と佐々木が止めてくれたのだと、やっとわかった。
黙り込んでしまった浩司を放置し、佐々木は友子達へ向き直る。
「来人君には成瀬君がついてます。少し離れた部屋が空いていたのでそこへ。彼女に任せれば大丈夫だと思います。ただ……この問題の解決はそう簡単ではないことは、もうわかりましたよね?」
友子は目線を彷徨わせる。いつものことだ。悪い人ではない、来人への愛情もある。ただ夫の前では小動物のように大人しくなり、何も言えなくなってしまう人だということを佐々木は思い出していた。
「顔さえ合わせれば、と思ってたにねぇ。……私らの考えが甘かったね」
来人の祖母、木村マチは娘の友子にそっと声を掛ける。佐々木は、来人と一番近しいと思っていた祖母すら彼らの関係性を楽観視していたことに、内心苦い思いをしていた。
口を開こうとしない友人夫婦から目を外し、廊下を見遣る。来人に成瀬千早という伴侶が出来ることは、彼の人生でやっと訪れた光なのかもしれないと思いながら。