第112話
コン、コン。
もしかして寝てるかな、と思いつつ、私は両親の寝室のドアをノックする。
「千早……?」
中からお母さんの声が聞こえた。起きてた。
「うん。そろそろ帰ろうと思って……」
数秒後、中からドアが開いた。パジャマのままだが、昼間より少し顔色が良くなったお母さんが出てきた。
「少しだけ、いい?」
私がそう言うと、頷いて中へ入れてくれた。
「もうあちらのご両親にはご挨拶したの?」
ベッドに腰掛けながらお母さんが聞いて来た。私は首を振る。
「来人も……ちょっと実家と距離取ってるみたいで。あちらのおばあちゃんには会わせてもらったけどね」
「……そのまま結婚するの?」
私は考え込んでしまった。実はずっと悩んでいることだった。でも。
「そうしたくない……。せめてご挨拶だけでもって思ってるけど……」
思わず下を向いてしまった私の手を、お母さんが両手で包んだ。
「あなたは来人さんを連れて来てくれて、ありがとう」
驚いて顔を上げると、お母さんが微笑んでいた。今まで見たことはあっても、決して私へ向けられることのなかったお母さんの笑顔。
「ちゃんと二人で話し合いなさい。今私に言ったように。もし困ったことがあれば……相談しなさい」
「うん……ありがとう」
私もしっかりと、お母さんの手を握り返した。
◇◆◇
暗くなり始めたあたりで、実家から出ることにした。お母さんはもう一度眠ってしまったようだった。お父さんのお姉ちゃんが見送ってくれる。
「じゃあ、またね」
「ほんとにまた来なさいよ。あんたの部屋もそのまんまなんだし」
何故かそっぽを向きながらお姉ちゃんが付け足す。今はもうその態度は歓迎の意を表しているのだと分かるから、私は笑って頷いた。
「たち……、いや、来人くん。色々とありがとう」
お父さんが来人に握手を求めた。来人も握り返す。
「いえ、こちらこそ。今後ともよろしくお願いいたします」
「会社にはいつ頃報告するんだ?」
お父さんに言われて二人で顔を見合わせる。人事に報告するより以前に言わなければいけない人がいる。まずはそっちだ。
「もう少し先になると思います。ちょっと面倒な人がいるんで」
来人の言葉に、私は彼の足を軽く蹴飛ばす。面倒とか失礼でしょ、上司に対して。
「そうか……、じゃあしばらくは、プロジェクトで会っても知らないふりをしていないとな」
「お手数おかけします。まあ俺は下っ端なんで、成瀬弁護士とはあまり接点はないと思いますが」
「そんなこと言うとこき使うよ。きっと矢崎さんは反対しないから」
はっきりと名前を出したことで来人が苦々しい顔をする。来人を虐めて元気が出るとは、我ながら性格が悪いな。
「では、お邪魔しました」
「お母さんによろしくね」
外はまだ空気が生ぬるい。蝉の声が残る中、二人で手を繋いで駅まで歩いた。
「お父さんがありがとう、って言ってたね。なんで?」
気になったことを思い出したので来人に聞いたが、変な含み笑いをして教えてくれなかった。
「俺、千早の家族好きだよ。てか好きになった」
「お姉ちゃんも?」
「うん。不器用だけど一生懸命千早を守ってた。お蔭で俺の出番無かったよ」
私も頷きながら、昼のお姉ちゃんを思い出す。あの人なりに問題の解決を図ってくれたのだ。
私は隣の来人を見上げる。あれだけ忌避していた実家に顔を出したのに、少しも辛くないばかりか笑って帰り道を歩けている。全部、来人のおかげのように思えた。
(だから私も、って思うけど……)
「ん? どうしたの?」
来人がこちらを覗き込む。私は笑って首を振った。
「夕ご飯どうしようか。食べて帰る?」
「だね。昼が寿司だったから、肉食いてー」
はいはい。
◇◆◇
「いつにしようか?」
ふと、来人が聞いて来た。
何のこと?
「結婚式」
「……え?」
「え、じゃないだろ。もうお互いの家族に挨拶済ませたんだし、具体的な話進めたいんだけど。籍入れるのとか、結婚式とか新婚旅行とか。あと家もだな。いっそどこかに買っちゃう?」
そう言って、ドン! と分厚い雑誌を取り出した。結婚を決めたら誰もが一冊は買う情報誌だ。いつの間に……。
「あまり長い休みは取れないかもな。でも年末年始だと値段が三倍だしなぁ、うーん……。千早は、新婚旅行どこがいい? 海外? 国内でもいいかな」
ちょ、ちょっと待って待って!
「まだ、早くない?」
今すぐ旅行会社に電話しそうなくらいの勢いの来人に驚き、私は慌てた。
しかし私の言葉の意味が全く分からないというように、来人はきょとんと首を傾げる。
「どうして? 千早……俺との結婚に何か不安があるとか?」
「ち、違うよ! それはないから。私も……結婚は嬉しい」
は、恥ずかしい……。いい年して情けないが、この程度でモジモジしてしまう。
でも、そこじゃなくて。
「来人のご実家に、まだ挨拶に伺ってないじゃない。だから……」
「言ったろ」
さっきまでのテンションを全部引っ込めて、無表情で私の話を遮る。
「俺の家族はばあちゃんだよ。ばあちゃんには千早を紹介してあるし、結婚するつもりだって言ったらおめでとうって言ってくれた。俺はそれで十分だ」
でも……。
納得できず何かを言い返そうとしたら、腕を掴まれてそのまま抱きしめられた。
「千早がいて、千早の家族がいて、ばあちゃんがいればいい。前もそう言ったろ?」
私を抱きしめる来人の力がどんどん強くなる。体重を掛けられ、気が付けば押し倒されていた。
でも私はずっと、違うことを考え続けていた。