第111話
「いつ?! もう籍入れたの? お父さんは知ってたの?」
さっきまでの深刻な空気を、お姉ちゃんの矢継ぎ早の質問が全部吹き飛ばした。お母さんもびっくりした顔はしているものの、さっきまでの暗い表情ではない。
「まだ二人で決めただけですよ。俺の祖母には連休に会ってもらいましたけど……。ああ、お父さんには以前病院で少し」
来人がそう言うと、お父さんも頷く。
「うん、千早は照れてたけど、立花さんからは挨拶してもらったよ」
するとお姉ちゃんは何故か私に掴みかかった。
「なんで私に教えてくれなかったのよ! 隠さなくてもいいじゃない!」
そこ?! だって今日話そうと思ってたし、電話やメッセージで言うことじゃ……。
「……そう、結婚するの」
騒ぐお姉ちゃんの向こう側から、お母さんの静かな声が聞こえた。
「おめでとう。良かったわね……。立花さん、私が言うのもなんですが、大事にしてやってください」
来人に対して丁寧に頭を下げる姿は、いつものきちんとしたお母さんだった。来人も姿勢を正して頭を下げる。
「もちろんです。これからよろしくお願いします」
病院でお父さんと来人が似たようなことしてたけど、今日はお母さんと。何故私が蚊帳の外? とも思わなくはないが、唐突に自分が『嫁ぐ』のだということを実感した。
「ねえねえ、あれやらないの。お嬢さんを僕にください! ってやつ」
お姉ちゃん……。
「何期待してるの。ていうか見世物じゃないんだから」
「いいじゃん、妹の結婚なんて姉には何の責任も役目もないからつまんないだもん」
「俺は別にやってもいいけど……、お父さん、どうしますか?」
来人がお姉ちゃんのバカな提案に乗りそうになったので私は慌てた。
「いいから! もう十分だから! ほら、もうお昼だよ、ご飯どうするの?」
その場しのぎで口にした私のセリフに応えるように、お母さんのおなかがぐぅと鳴った。
◇◆◇
近所のお寿司屋さんに電話して五人分の出前を取る。お母さんは本調子じゃないし、お姉ちゃんは動こうとしないし、お父さんに働かせるわけにはいかないので注文も受け取りもお吸い物や箸の準備も全部私と来人がやった。私がやるのは全然いいんだけど。
「ごめんね……来人はお客様なのに」
「だからそれ、やめろって。籍は入れてないけど、俺はもうここん家の家族のつもりなんだから。それに人に世話焼かれるより焼いてるほうが性に合ってるんだよ」
うん、それは知ってるけど……。
「あ、私あったかいお茶飲みたーい」
リビングから注文が飛んできた。自分でやってよ、と、お姉ちゃんに言い返そうとしたら、
「ご自分でどうぞ、お姉さん」
来人に言われたことで、お姉ちゃんは渋々立ち上がる。どうやらこの二人の力関係は決まったみたいだ。
食事が済むと、お母さんは来人に挨拶をして寝室へ戻った。私はそっとお父さんに聞く。
「お母さん、最近はずっとあんな感じなの?」
「ああ……うつ病って診断受けて、今も病院通ってるよ。大分良くなってきてるんだが、中々な……」
「でもお寿司一人前食べきったね」
お姉ちゃんが話に入ってくる。お父さんも嬉しそうに頷く。
「最近は食事もあまりとれてなかったんだがな。……嬉しかったんだろうな」
お寿司が?
「バカね。あんたが帰ってきて、しかも結婚の報告したからでしょ」
私は驚いて、二階へ続く階段を見上げる。
帰る前に、もう一度お母さんと話をしよう、と思った。
◇◆◇
食後のまったりした雰囲気の中、俺とお父さんの二人になったタイミングがあったので、隣に座った。俺に気づいてこちらを振り返る。
「今日は本当に……、折角来てくださったのに、騒がしい一日になってしまって申し訳ない」
「いいえ。俺、そう言うの気にしないので……。お母さん、早く良くなるといいですね」
体の病気やケガと違い、精神的な病は先が不透明だ。本人も辛いだろうが同居している家族への負担も大きいと聞く。ましてや夫の苦労は多大なものだろうと、俺は想像した。
「ありがとう。……百花の件だけじゃなく、私の責任でもあるからね。ここはじっくり腰を据えて付き合っていくつもりだよ」
さすが、経験豊富な一流の弁護士は家庭でも頼もしい。
千早はこの人に育てられたのだ。そう思うと、俺の目標が定まったような気がした。
まだ千早たちが戻ってこないので、思い切って切り出してみる。
「お母さん、ずっと淋しい思いされてたんですね」
微かにギクリとしたように顔をこわばらせたが、お父さんはゆっくり頷く。
「そのようだ。誕生日なんて……確かにここ数年、祝ってやっていなかったな」
「誕生日とかでは、無いと思いますよ」
俺の言葉に、こちらを振り返る。
「立ち入ったことを伺いますが……、お父さん、最近、お母さんを抱いてますか?」
いきなりな問いかけに、さすがにぎょっとしたらしい。身を引いて固まってしまった。
「すいません。俺が口出す話じゃないと思いますが……。お母さん、誕生日を祝って欲しいわけじゃなく、亡くなったお姉さんを忘れて欲しいわけでもなく……愛されてる確信が欲しいんじゃないでしょうか」
三十以上も年下の若造にこんなことを言われたくないだろう。でもこの人はちゃんと聞いてくれそうな気がして、俺は続けた。
「スキンシップって、日本人は苦手ですけど、でもとても大事だと思うんです。誰に対してもやることじゃないですよね。例え握手でも。でもだからこそ、特別な相手に触れることは、お互いを大事に思っている、と伝える力を持ってると思うんです」
少し間を置いたが、話を待ってくれているようだった。
「手を繋ぐとか、そっと抱きしめるとか。肩をもむとかでもいいと思います。お母さん……奥さんに触れる機会を増やしてみてはどうですか?」
そっとお父さんの表情を伺うと、どこか一点をじっと見つめていた。端正な横顔が千早とよく似ている。千早が照れ屋なのもお父さん似かもしれない。
「そうだな……。肩をもむくらいなら、私にも出来そうだ」
そっと言葉を返してくれた。俺はちょっと調子に乗る。
「そのうち夫婦生活も復活してみてください。あ、その時は俺たちが百花さん引き受けるんで」
お父さんは真っ赤になり、立ち上がってどこかへ行ってしまった。その姿が可愛らしくて、思わず声を上げて笑った。