第109話
数年ぶりに会ったお母さんは、お父さんに会ったときと同じように年を取ったなと感じた。当たり前のことだけど。
そして意外だったのは、パジャマ姿だったことだ。
いつでもきちんとした服装で、お客さんが来る時はお化粧もして出迎えていたお母さんが。
八年ぶりのお母さんに一瞬怯むが、でも来人を紹介しなきゃ、と思った矢先、お父さんが前に出た。
「十希子、こちらは立花来人さん。千早の会社の同僚で、恋人だよ」
うっ、お父さんさすがだ、一言でまとめてくれた。でも親の口から『恋人』なんて聞くとこっちが気恥ずかしい。
お父さんの紹介を受けて、来人が挨拶する。
「初めまして、立花と申します。本日はお招きいただいて……」
「恋人?」
来人の言葉を遮るように、お母さんが呟く。どんどん顔が苦しそうに歪んでいくのが分かる。え、どうして?
「恋人ですって……、あなたたち、実の姉弟なのに……!」
姉弟?
思わず私と来人が顔を見合わせる。
戸惑う私たちの横をすり抜け、お母さんはお父さんに掴みかかった。
「一体いつになったら忘れるのよ!」
お父さんの胸倉を掴んで揺さぶったり胸を叩いたりして、しかしお母さんの顔は涙でぼろぼろだった。
「十希子、どうしたんだ? 何のことだ?」
「とぼけないで!」
涙声ながら大きな声で叫ぶ。帝国管財のロビーで遭遇したあの人を思い出した。自分のご主人を取られたと思って泣き狂っていたあの人を。
私は無意識にお母さんに手を伸ばした。そっと肩に手を置く。女の私が触っても驚くほど、それはか細かった。
私が触れたことでビクっとしつつ、お母さんが恐る恐るこちらを振り返る。いつもの厳しい目とは全く違う、怯え切ったような目。私はお母さんを怖がらせないよう、ゆっくり口を開いた。
「私だよ、千早だよ……わかる?」
お姉ちゃんに対するのと同じく、子供の頃からお母さんが怖かった。今もそれは続いている。けれど何故か今だけは、しっかりと見つめ合わなければいけないと思った。
怒鳴られても突き放されても、私は千早だと思い出してもらわなければいけないと思った。
「お母さん、わかる? 千早だよ」
じっと見つめ続けていると、少しずつお母さんの目の焦点が合ってくる。そして数度瞬きをする。
「……千早?」
「うん……、久しぶり」
「千早」
「うん」
何度も何度も確かめるように私の名を呼ぶ。最後のほうは唇を動かすだけだった。そして力が抜けたのか、その場にしゃがみ込んでしまった。
呆然として動かないお母さんに、お父さんが話しかける。
「十希子……大丈夫か?」
「あなた……、八重子さんは?」
お父さんは一瞬怪訝な顔をするが、ゆっくり首を振る。
「いないよ。ここには私達家族だけだ。姉さんはいない」
お父さんの言葉を聞いて、お母さんはホッとしたように力を抜くと、そのまま目を瞑ってお父さんに凭れかかった。
「十希子……?」
私とお姉ちゃんもお母さんの様子を見る。
「寝てる……」
「よく分かんないけど、大丈夫っぽいね」
「……みんなすまない、ちょっとお母さん寝かせてくるから、待っててくれ」
お父さんはそう言うと、お母さんを抱き上げて二階へ上がって行った。
◇◆◇
家事能力ゼロのお姉ちゃんを座らせて、私がみんなの分のお茶を淹れる。八年ぶりなのに急須や湯呑みを置いてある場所は変わっていない。お母さんの几帳面さがうかがえる。
お茶を並べているところで、お父さんが戻ってきた。
「お母さんは寝てるから大丈夫だよ。立花さん、いきなりお見苦しいところを……」
「いえ、気になさらないでください。ひと段落してよかったです」
お父さんは頷く。お茶を一口飲んで、話し出した。
「さっきお母さんが言った八重子というのは、お父さんの姉さんでね……百花たちから見たら伯母さんだな。もう大分前に亡くなっているんだけどね」
私とお姉ちゃんは驚いて顔を見合わせた。お父さんの兄弟は弟の叔父さんだけだと思ってた。
「知らなかった」
「亡くなったって、いつ?」
「十代の頃だから、もう四十年も前だね……お母さんも直接会ったことはないんだよ」
そう言うと、一旦立ち上がって何か持って戻ってきた。アルバムだった。見たことが無い表紙。
「この人だよ」
お父さんが開いたページを覗き込み息を飲む。それはきっと私だけじゃないはずだ。
「千早そっくりだ……」
さすがの来人も声に驚きが籠っていた。