第106話
「あらあら、まあまあ、遠いところよーく来てくださってー。いらっしゃい」
都内から二時間ほど車を走らせて着いた先は、大きな平屋の日本家屋だった。門を通り過ぎ玄関横に来人が車を停めると、中からまんまるなシルエットが現れて出迎えてくれた。
「ばあちゃん、まだ車動かしてるのに危ないって」
「大丈夫だって。ちゃんと見てるって……。はじめまして、来人の婆です」
「はっ、初めまして! 成瀬千早と申します」
私は二つ折りになって挨拶をする。顔を上げるとおばあちゃんはニコニコ笑っていた。
顔も体も目も何もかもまんまる。『おばあちゃん』という呼び名がこれほど可愛く優しく似合う人っているんだろうか。
ほら、来人の目尻が下がりっぱなし。本当に大好きなんだなぁ。
「まあまあ、女優さんみたいだねぇ。千早ちゃん、ほら、中入んな。お茶いれるからね」
そう言いながら、来人のおばあちゃんは私の手を引いて玄関へ歩いていく。振り返ると車からお土産を出して、来人もついて来た。
「お腹空いたいね、待っててね。来人、お茶出して」
まだ使っているらしいこたつに膝だけ入れて座っていると、私以外の二人はあれこれ立ち働きはじめたので、私も慌てて立ち上がる。
「お手伝いします! あの、出来ることがあれば……」
「あらあら、いいからいいから、座ってて。来人、じいちゃんに線香やんな」
「そうだ、うっかりしてた」
おばあちゃんの逞しい手で押さえつけられ、再びこたつに入る。来人が居間の横の大きな仏壇に手を合わせているのが見えて、私も隣へ行って倣った。
写真館で撮影したような綺麗な写真が位牌の横に置かれていた。
「おじいさん?」
「うん、俺が小さい時に亡くなったから、あまりよく覚えてないけどね」
「そっくり、来人に」
「え、そう?」
「うん、来人はおじいちゃん似なんだね」
そう言うと、何故か嬉しそうに笑った。こちらのおばあちゃんは母方だと言っていたから、お父さん側じゃないことが嬉しいのかもしれない。
「俺、ばあちゃん手伝ってくるから、千早は座ってて。あ、お土産、袋から出しておいてくれる?」
私は頷き、二人の言う通りにもう一度こたつへ戻った。
縁側の向こうに庭が見える。花も庭木も綺麗に整えられているが、それ以上に目を引いたのは畑だった。さほど大きくないけれど、一畝毎に違う植物が伸びている。その周りを蝶や雀が飛び回っているのをぼんやり眺めていたら、いつの間にか睡魔が襲ってきた。
◇◆◇
「あらあら、千早ちゃん、お疲れかね」
食事の準備が出来て居間へ戻ると、こたつにつっぷして、千早が気持ちよさそうに居眠りしていた。
「ほんとだ……、千早、メシだぞ」
「ほらほら起こしたら可哀想だいね……。寝かせておいてあげな。来人はこっち」
俺は頷き、再び盆を持って台所へ戻った。
「来人と同い年くらいかい?」
「いや、五つ上かな。会社でも上司にあたるんだ」
「おやまあ、女の子なのにすごいねぇ。よくあんたなんか相手にしてもらえたね」
「ばあちゃん、ひでえな。……うん、ライバルもいたけどね」
「……結婚、するのかい?」
「うん」
「そりゃ、おめでとう。ここに来人が人を連れてくるのは初めてだからね、きっと特別な人だと思ってたよ」
「ばあちゃんには、会ってもらいたくて」
俺の言葉に、うんうんと頷いてくれた。
「……友子にはもう会わせたんか?」
当然の如く、ばあちゃんからお袋の名前が出る。俺が首を振ると、ばあちゃんの顔が曇った。
「じゃあ、浩司さんにも?」
「当たり前だよ」
「来人、あんた……」
「俺、結婚式はばあちゃんしか呼ばないから。もう家も出てるし成人してるし、関係ないだろ親なんて」
「あんたはそれで良くても……千早ちゃんはなんて言うてる?」
「えーっと……、実はまだちゃんとプロポーズしてなくて……」
成瀬弁護士に挨拶した時も、千早は結婚そのものを否定はしなかったからうっかりしていたのだ。
案の定、ばあちゃんの呆れまくった目線が痛い。
「何してるん……、あれじゃあ、断られるかもしんないね」
「ばあちゃっ……! そんなわけないだろ!」
「分からんよ、女の人にとって結婚は一大事だいね」
そう言うと、急須にお湯を足してお茶を注いでくれた。
「結婚したらどんな女の人も主婦になる。家を預かるんだ。昔は家のことだけに専念出来たけど千早ちゃんは立派にお仕事していなさるんだろう。両立はどうする? 子どもが出来たら? 男の人は結婚しても何も変わらんけど、女は名前も生活も何もかもが変わるんだよ。好きの嫌いのだけじゃ決められんて」
「今時、そんな……」
「今も昔もちがわんよ。そりゃ、家事を分担したり子育てを一緒にしたりって、色々変わってきてはいるけど、産むのは女だよ。世間の目も、家の主人は奥さんだって思ってるよ。そんなに簡単に変わらんよ」
俺はふわふわしていた自分の将来像が急速に縮こまるのを感じる。二人の合意さえあれば簡単だと思っていた、結婚なんて。
「千早ちゃんがどうしたいのか、ちゃんと話し合うんだよ」
それだけ言うと、ばあちゃんは俺たちが持ってきた土産の和菓子に手を伸ばした。
それと同じタイミングで、居間で悲鳴が上がりバタバタと慌ただしい足音がした。
「あのっ! ごめんなさい、私……!」
転寝から目が覚めた千早がテンパって台所に駆け込んできた。左頬に服の跡がしっかりついていて、俺は思わず吹き出した。
「あらあら、おはよう。ゆっくり寝れた?」
ばあちゃんはそう言うと、笑って千早の分のお茶を淹れてくれた。