第104話
「じゃ、今週もお疲れ様」
私がグラスを上げると、来人が笑って頷き返す。
「お疲れ様。特に千早」
私は苦笑いし、そして乾杯した。
疲れているだろうからと、来人が連れてきてくれたレストランは最近オープンしたばかりのホテルにあって、周りは外国人客だらけだった。
「なんか高そうなお店」
「そういう無粋なことは気にしないの。……で? どうだった?」
来人が話を変えた。そう、大変だったのだ……。お店のいい雰囲気に呑まれて忘れるところだった。
◇◆◇
お姉ちゃんがうちに泊った翌朝も私は仕事なので普段通り起床する。身支度を整え朝食を作り終えたところで、お姉ちゃんを起こす。いきなり不機嫌だった。
「ちょっとー……、うそ、まだ六時じゃん!」
「でも私はもうすぐ家出るから。お姉ちゃんも起きて、ご飯食べて、一緒に出て」
「会社、近いんじゃなかったの?」
「近いよ。電車で三駅」
「あんたの会社何時に始まるのよ?!」
「九時始業。でも早出して仕事始めるのが日課だから。ほら、起きて。お布団はそのままでいいから」
ぶつぶつ文句を言い続けるお姉ちゃんを追い立てるようにして洗面所へ連れていく。着替えを手伝い、まだ眠そうな顔のまま食卓へ座らせる。
いい大人が、なんでこんなに手がかかるんだ。そして私がずっと怯え続けた人の実態はこれか。お姉ちゃんが、というより、無駄に怖がり続けた自分が馬鹿みたいだ。
「そうだ、連絡先教えなさいよ」
は? なんで?
「なんで、って。姉妹でしょ。ほら、私のはこれだから後で登録してね」
既に何かの紙片に書きなぐってあった携帯番号とSNSのIDを突き付けられる。仕方がない、とりあえず受け取っておこう。登録だけしておいて……。
「着拒とかブロックとか許さないからね」
……なんで分かるかな。
ぐずぐずするお姉ちゃんのせいでいつもの電車は乗り過ごした。無理やり引きずるように駅まで一緒に行く。お姉ちゃんはこのまま実家に帰るから逆方向だ。
「じゃ、お母さんによろしく」
「無理しなくていいわよ。あんたは、あんたのことだけ考えてればいいから。お母さんのことは……気にしなくていい」
私は驚く。三十年生きてきて、お姉ちゃんが私を気遣う言葉を初めて聞いた。
「何よその顔……。そうだ、今年のお盆は帰って来なさいよ」
まさかのお姉ちゃんからの帰省依頼に再び驚きを隠せない。私が帰ることを、一番望んでいない人だったはずなのに。
「大分先だね」
「ゴールデンウィークじゃ早すぎるでしょ。夏には来れるように、あんたも心づもりしておきなさい」
「お姉ちゃん、キャラ変わりすぎ」
「キャラとか言うな、アニオタめ」
恥ずかしそうに横を向いて悪態をつく姿に、私は思わず笑った。
「分かった、夏、ね」
私がそう頷くと、やっと満足げに笑って、反対側のホームへ歩いて行った。
◇◆◇
「本当に人格変わりすぎだろ。正月のあの騒ぎは何だったんだ。俺には本気で鬼に見えてたぞ」
「うん、私もずっとお姉ちゃんは鬼だと思ってた」
でもそれは、お姉ちゃんも、かもしれない。私のことを血のつながった妹だとは思えなかったのだろう。
確かに逆らったり反撃することはなかった。かといって、愛情を示すようなこともしなかった。事実、恐怖や不快感を抱きこそすれ親愛の情などこれっぽっちも感じていなかったのだから。
お互いがお互いをどういう目で見ていたか、どんな思いで過ごしてきたかの一片を共有出来たことが、こんなにも関係性に影響するとは思わなかった。
来人が私のグラスにワインを注いでくれる。お礼を言う必要性を感じないくらい、この状況を私は自然なものだと感じていた。
「病院でね」
私の言葉に、来人が目を上げる。
「突然お姉ちゃんが来て、条件反射みたいに逃げ出したくなった。怖くて怖くて……。でも来人の声が聞こえたの」
窓の外の夜景がやけに眩しく見える。
「何かあれば頼っていいって言ってくれたでしょ、あれ。……そしたら頑張れた」
窓外から、来人へ視線を戻す。
「ありがとう」
「失敗した……」
とても優しく微笑んでくれたと思ったら、来人が一転して頭を抱えている。
「え、何が?」
「いや、こっちの話……。うん、俺はいつでも千早の味方だからな」
テーブルの中央で、そっと手を握り合う。嬉しくて力を込めると、倍以上の力で握り返された。
「っ、だから、痛いって!」
「あ、ごめん、つい。まあ、俺の愛情表現だと思え。……でもそれも切ないな、いつでも俺ばっか強いってことじゃん」
すいませんね、まだそのレベルに達してなくて。
あ、そうだ。
「お姉ちゃんがお盆には帰って来いって。で、その時来人も連れて来いって」
「……それ、お姉さんが言ったのか?」
うん。
「……分かった。よし、今までの千早の分たっぷり仕返ししてやるから、楽しみにしてろ」
もういいってば。
お姉ちゃんも根性無しだから。来人にやり込められたら可哀想。