第103話
私は掴まれたままだった腕を引く。あっさりと離してくれたので、そのまま浴室へ行った。
疲れた……。もうシャワーで済ませたい気もするけど、こういう日ほどしっかり湯船につからないと疲れは取れない。
再びリビングへ戻ると、お姉ちゃんはソファに戻っていた。寝てる? まあそれでもいいか。最低限の準備として空いている部屋にお姉ちゃん用の布団を敷いておく。この人が手伝うはずがない。そういう人だから。
「私はあんたが羨ましかった」
パタパタ動き回っている時、突然お姉ちゃんの声が聞こえた。
え? なんか言った?
「おとなは皆、あんたを褒めるのよ。それが私は辛かった」
下を向いて喋ってるからよく聞き取れないが、確かにそう言ったのが聞こえた。
想像だにしなかった言葉に、私は立ち尽くす。
「お母さんがなんであんたをあんなに避けるのか、私も理由は知らない。ていうか理解出来ない。頭良くて素直で可愛くて、確かに子どもの時から一人でいることが多かったし何考えてるか分からないところあるけど、どうして千早が褒めてもらえないんだろうって、思ってた」
私は布団を抱えたまま座り込んだ。そこは、お姉ちゃんのすぐ近くだった。
「私を褒めてくれるのはお母さんだけだったから、私はお母さんまであんたに取られるのが怖くて、先手打ってただけよ。あんたのいいところを全部潰して、私のほうがいい子だって思わせてやろうって。学校でも先生達はあんたを褒めたわ。私のクラスの担任なのに、お前の妹はすごいなって」
どんどんお姉ちゃんの声がか細くなる。昼間、病室で今野さんと言い争った時とはまるで別人だ。
「好きな人も……、向こうから話しかけてくれたと思ったら、何だと思う? あんたのこと紹介してくれ、って。あんまり腹が立って惨めだったからあんたの欠点でっち上げて噂バラまいてやったわ」
見たことも無いほど頼り無げな顔で、こちらを向いた。
「私こそ……あんたが羨ましかった。あんたになりたかった……。あんたをひっぱたいたり、あんたの悪口を言うたびにどんどん自分を嫌いになって……あんたなんかいなければいいって思っ……」
お姉ちゃんの両頬に幾筋も涙が滑り落ちる。唇が震えているのが分かる。でも目はしっかりとこちらを見続けている。
「あんたは誰にも嫌われないよ……。一番近くにいた私が言うんだから、信じなさいよ。……あんたを嫌う人間なんて、お母さんと私だけよ……」
気が付けば、私も泣いていたらしい。
大っ嫌いなお姉ちゃんの手を握りながら。
◇◆◇
「え、私ここで寝るの?」
折角用意してあげた寝室を見て、お姉ちゃんが文句たれる。ほんとさー、文句ばっかだよね。
「なんで? だめ? お布団クリーニングしてあるよ」
「いや、そうじゃなくて……」
何でモジモジしてるの。気持ち悪いな。
「あんたの部屋でいいじゃん。布団敷くスペースくらいあるでしょ」
そういうと、勝手に布団を抱えて私の部屋へ入って行った。
えええええーーーー……。
私は自分のベッドで、その下にお姉ちゃんが布団を敷いて横になった。
落ち着かない……。人がいるのに本を読むわけにもいかないし、そもそもお姉ちゃんだ。枕並べて寝るなんて、幼稚園以来じゃないだろうか。
寝るに寝られず無理やり目を瞑っていると、下から声が聞こえた。
「私これから、どうしたらいいのかなぁ」
それ独り言? でも無視したら怒られそうだな。返事しなきゃダメなやつかな、これ。
「とりあえず仕事探したら」
昼間病室で、仕事を辞めたと言っていたことを思い出す。実家に戻るにしたって転職活動はしたほうがいい。これだけ痛い目みたなら、次の会社で同じことはしない……と思いたい。
「あんたは今何の仕事してるのよ」
珍しい、私に興味持つなんて。
「経営コンサルタント。顧客から依頼受けて新規事業の手伝いしたり、企業買収したり、社内のシステム改善一緒にやったり、とか」
「……あんたにそんなこと出来るの」
「一人じゃないよ、チーム組んでやるから。皆仕事出来る人ばかりだからね」
「あんたは、アシスタント?」
「今は役職ついてるから、もうちょっと大変かな。あ、お父さんとも今担当してるお客さん先で会ったんだよ」
「なんか……大変そうね。でもだからこんな部屋にも住めるんだ」
私は苦笑する。そもそもこんな部屋に住む羽目になったのは誰のせいだと思ってるんだ。
「仕事かぁ……。見つかるかなー。もうあの派遣会社は使えないしなー」
「派遣じゃなくて、普通に転職活動すればいいじゃん」
「正社員ってこと? 今更無理でしょ。大体私に出来ることなんて無いしさ」
私はため息をつく。嫌なことからすぐ逃げる性質だけは、私とお姉ちゃんはそっくりらしい。
「じゃ、やりたいことは? 職種でも業種でもいいけど、やりたいこと探してみたら?」
「思いつかない」
早いわ。
「今決めろって言ってないよ。ちゃんと考えてみなよ。お父さんに相談したらどこか紹介してくれるかもしれないし」
「……お父さん、苦手なんだよね」
「なんで?」
「あんたとそっくりだから」
「……そんなに似てるかな」
会社の人にも言われたけど、自分じゃそう思わないんだよね。
下でお姉ちゃんが起き上がる気配がした。
「そっくりじゃん。顔も性格も考え方も、一人でずっと本ばっか読んでるのも。似すぎてて気持ち悪いわ」
そこまで言うか。
「お父さんはお姉ちゃんが相談すれば、助けてくれるよ、きっと」
バフっ!
いきなりお姉ちゃんから枕が飛んできた。なにすんだ。
「コミュ障が、悟ったようなこと言ってんじゃないわよ」
「痛いじゃん!」
私も起きて枕を投げつける。何度かボフボフぶつけあって、そして二人同時に大笑いした。
「さっき電話してた彼氏、正月の時のアレ?」
いきなり話が飛んだ。うん、アレです。
「今度会わせなさいよ」
ええーー……。
「いいけど、来人、お姉ちゃんのことめっちゃ嫌ってるよ、私を虐めてる現場見てるから」
「分かってるわよ。……ちゃんと謝るわよ」
そう言って、唐突に布団をかぶって寝てしまった。
いや、お姉ちゃん、来人より先に私に謝ってよ。