第100話
「百花、落ち着いたか? ……話してくれるか、どうしてこうなったか、これからどうしようと思っているのか」
お父さんの言い方はいつも通りとても優しかったけど、否と言わせない力があった。それはお姉ちゃんも感じたようで下を向いたまま話始めた。
―――
武さ……今野課長は派遣先の上司なの。っていっても、私は契約解除されちゃったから元上司、かな。
私、派遣でも仕事が長続きしなくて、派遣会社の担当からもこの会社が最後だって言われちゃって、だからどうしても続けたくて初日から必死だったの。必死になる分……ミスしちゃって、名前覚えられるより先に怒られてばかりで、もう本当に嫌だった。
その時、今野課長が優しくしてくれたの。ミスしても怒らないでカバーしてくれたり仕事教えてくれたり……、好きになっちゃうの当然でしょ。
奥さんいるのは知ってたよ、指輪付けてるし。子どもさんは……付き合うまでは知らなかったけど。でも私が頼れるのは課長だけだったの。課長が味方になってくれたら仕事も切られることないかなとか、そういう打算も無くは無かったけど……。
奥さん、全然武さんのこと大事にしないんだよ。だってメッセージとか、すぐ帰ってこいとかアレ買ってこいとか命令ばかり。会社でどれだけ疲れてるかも知らないで全然労わらなくて。そんな人、武さんに相応しくないと思わない?
私だったらどんな仕事しててどんなふうに大変なのかもわかるから、愚痴も聞いてあげられるし……もっと優しく出来る。武さんを大事に出来る。子どもだって産める。私のほうが、奥さんよりずっとずっと好きだもん……! だから、武さんは私と一緒にいるべきなのよ。私だって、武さんが好き。お母さんやお父さんに反対されたっていい、大人だもん。二人の許可は要らないでしょ?
―――
お姉ちゃんはひたすら、自分がどれだけ今野さんを好きなのかを力説したが、その間もずっと下を向いたままだった。その必死な姿が、この前見た今野さんの奥さんの姿と重なって見えた。
二人とも、全然幸せそうじゃない。
それなのに……。
私はいたたまれず、全員分のお茶のお替りを淹れるために立ち上がった。そのタイミングでお父さんのベッドがきしむ音がした。
「それは分かったが……、で、どうするつもりだ? 百花だけじゃなく、今野さん、あなたも。何より一番の中心はあなたなのだから」
話を向けられて、今野さんは丸くなっていた背を更に曲げる。お姉ちゃんはじっと見つめるだけで何も言わなかった。
「妻は……離婚する気は一切ないそうです。息子も受験を控えていますし、親のもめ事で勉強の邪魔をするわけにはいかないと」
お父さんはゆっくり頷く。想定していた返事なのだろう。
しかしお姉ちゃんは、信じられないというように首を振った。
「でも……離婚するって、言ったじゃない……。家に帰りたくないって、奥さんに愛情は無いって、私と一緒にいるって!」
「それは……ごめん」
「ごめん?! ごめんって何? 嘘だったってこと?!」
再びお姉ちゃんの声が大きくなる。個室で良かった。同室の人がいてもきっと同じように金切り声になったはずだから。
「奥さんだけの問題じゃない。お子さんもいるんだ、分かるだろ」
お父さんが今野さんの代弁をするように言い聞かせるが、お姉ちゃんは全く聞く耳持たない様子だった。
「お父さんは関係ない! 私と武さんの問題だもん! 私たちが幸せならそれでいいのよ!」
お父さんは深くため息をついて今野さんを一瞥する。私も横目で様子を伺うが、とても困っているようだが慌てている感じはしない。きっとこの話をするといつもこうなるのだろう、お姉ちゃんは。
「お前は今、二人が幸せなら、って言ったね。百花はそれでいいのかもしれないが、今野さんはどうなのか考えたことはあるのか?」
お父さんの言葉に、お姉ちゃんはハッとしたように今野さんを見た。そして、お姉ちゃんと目を合わせないようにしている姿を見て、再びその顔が崩れた。
「今野さんもお前と同じ気持ちなら、裁判でもなんでもして争えばいい。ただ……そうじゃないなら、ここで決断しなさい。お前が本当に、彼を愛しているなら」
お前が本当に彼を愛しているなら。
きっとお姉ちゃんも、その言葉を繰り返したのだろう。心の中で、何度も。
どれくらい続いたか分からない沈黙の後、突然立ち上がると、お姉ちゃんはすごい勢いで今野さんの頬をひっぱたいた。
「出てって! もう二度と私の前に現れないで!」
そして手あたり次第に、近くにあったタオルやらお父さんのパジャマやら文庫本なんかを投げつけ始めた。私は慌てたけどお父さんは『放っておけ』と目で言っていたので、黙って見ていることにした。
投げるものが無くなると、お姉ちゃんがもう一度今野さんをビンタした。そして病室から飛び出していった。
◇◆◇
お姉ちゃんが出て行くと、一気に息をするのが楽になった。それは今野さんも同じらしかった。
ゆっくりと立ち上がると、お父さんと、そして私にも深く頭を下げた。
「色々とご迷惑と、お世話になりました。改めてお詫びに伺います。本当に……ありがとうございました。もう、お嬢さんとは二度と会いませんので」
お父さんもゆっくり頷いた。
「そうしてください。娘にも、二度とお宅とは接触を持たないよう言い聞かせます」
そしてもう一度頭を下げ、静かに帰って行った。