アーガイヤ区
「空中散歩のお時間だ、オラァ!」
「いやあ!?」
アーガイヤ区に入った途端、ジークはナディムの襟を掴み、上空に向かってぶん投げた。人間の力で投げられたとは思えない勢いで、ナディムは宙を舞う。
次の瞬間、ジークが地面を踏み砕きながら突進する。ナディムのように宙を飛んでいるわけじゃないが、猛スピードでジークの着地地点に回り込み、落ちてきたナディムをキャッチした。リリアーヌはその一部始終を口をあんぐり開けて、見入ってしまった。完全に人間業じゃない。
「これでよし」
ジークの言葉に返事する者はいない。宙を舞った恐怖で、ナディムは失神してしまっていた。というより、いきなりあんな目にあったら、失神で済むとは思えなかった。
「と、とんでもないですね………」
慌てて追いかけたリリアーヌは、肩にナディムを担いたジークに声をかける。それと同時に、絶対に敵に回してはいけないリストの、最重要人物にジークをチェックした。リストインはとっくに済ませてある。
「比較的軽く投げたんだけどな」
とてもそうとは思えない飛びっぷりだった。そもそも人が人を投げる時点でおかしいのだが。
「キュウ………」
リリアーヌの魔物であるカーバンクルも、足元で震えていた。
「さて、俺達はこれからハンター本部に顔を出す。リリアーヌも難民として申請するから付いてきてくれ」
俺達、とは言っているが、ナディムは失神しているので実質は1人である。しかも区内に戻ってからの失神、という大変な不名誉を背負っていた。最も、区外で失神したらそのまま死亡する可能性が非常に高いのだが。
「あ、はい!」
リリアーヌはジークの後ろを付いていく。その際に少し、後ろを振り返った。そこにはナディムの魔物である、オーガがいた。こちらを見送ってからノシノシと小屋へと入っていく。主人をぶん投げられたのに、無反応だった。
「別にナディムが嫌われているわけじゃないぞ。お互い、慣れてるからこんな反応になってるだけだ。蟲が相手なら、あいつも遠慮しない」
何を思ったのか、ジークがオーガの反応に関して説明してくれる。だからと言って、ここまで雑な反応をしていいのかと思わなくもないが、リリアーヌには何も言うことはなかった。
「アルンガムとは雰囲気が違うか?」
「………はい。なんと言いますか、少しアーガイヤ区の方が暗い気がします」
ジークの質問にリリアーヌは少し迷いつつも答える。
「そうか。まあアーガイヤ区はハンターが多いからな。蟲の強さを、恐怖を何処よりも深く知っている。それが雰囲気として現れている可能性がある、か」
リリアーヌの返答にジークが呟く。
「そんなにハンターが多いんですか?」
「ああ。人口の1割くらいがハンターだ。その分防衛力はその他の区より高いが………アルンガム区の“あれ”を狩るのは無理だぞ。第一、あの蟲は一度行動を起こすと、数年は動かん」
リリアーヌが一瞬、目を鋭くしたのに気づいたジークは、何か言い出す前に釘を刺す。
「ギガント・ヒル。あいつは手を出さない。お互いにな。動くのは数年に1度、あいつが食事する時だけだ。それも都市を狙うとは限らないから、世界中で被害が出るのは10年に1度、あるかどうかだ。そんな天災みたいな存在を突こうとは誰も思わない。逆鱗に触れて暴れ回った方が被害が広まるからな」
ジークは自分が聞き及んでいる内容を口に出す。ギガント・ヒルというのがアルンガム区を滅ぼした蟲の名前だ。たった数秒、それだけでアルンガムの街の半分以上を食いちぎって姿を消した、天災に等しい蟲。普段は蟻の巣などを丸ごと飲み込むのだが、稀に人の街を食いちぎる。この場合、まず生存者は残らない。アルンガム区が半壊で済んだのは、ギガント・ヒルの一口より街の規模が大きかっただけに過ぎない。上位に位置する蟲の1つだが、数年に1度しか動かない上、動くと基本的に蟲を盛大に食い散らかしてくれるので、あまり危険視されていない。
仮にリリアーヌが街を食い散らかしたギガント・ヒルを狩りたい、と申し出ても、誰1人としては力を貸すことはない。そっちの方が危険だからである。そもそも姿を消してしまったので、追いかけることもできやしない。
「………わかってます」
小さくリリアーヌが呟く。ギガント・ヒルを間近で見てしまったリリアーヌからしても、あれを狩るのが無理だというのは頭で理解できる。理解できるが、心は納得していなかった。
「と、ここがハンター本部だ。ついてきてくれ」
ジークがリリアーヌに対し、肩で一際大きい建物を示す。そこに吸い込まれるようにジークが中に入っていく。リリアーヌも無言でその後を追う。
「そらっ、お土産だ!」
中に入った途端、ジークが思い切りナディムを投げる。気を失ったままのナディムは直進して治療室のドアにぶつかった。
「こらジーク!あんたまた無駄な怪我人増やしただろ!やるならしっかり息の根止めとけ!」
すると治療室から罵声が飛んできた。女性の声だった。ジークは手をひらひらと振ってその場を離れる。唖然とするリリアーヌを置いて。それに気づいたリリアーヌが慌てて後を追う。
「区周辺の調査だけど、一箇所新しく蟻の巣ができてた。流石に俺とナディムの2人じゃ荷が重いんで手を出してない」
そのまま何故か空いていた受付に話しかける。
「それと蟻に襲われていた人を1人、保護した。アルンガムの生き残りだそうだ。その途中で蟻に襲われたらしい」
「あら、それは大変だったわね。了解したわ。私の方で上に報告書あげとくわね」
リリアーヌが思わず足を止める。新しい場所で怖気付いたわけじゃない。今頼りにできるのはジーク1人なので、一緒に受付の人と話をするのが正解だということも理解している。
その上で足を止めた。足を止めざるを得なかった。受付をしていたのが、どこぞのボディービルダーを疑わせるようなスキンヘッドのマッチョだったのだ。その癖、出てきた言葉は女言葉。足元にすり寄っていたカーバンクルは速攻でリリアーヌの体をよじ登り、フードの中に隠れてしまった。リリアーヌ自身、頭の中でひどく警鐘がなっているのを自覚した。関わるな、と。
「あいつが保護したリリアーヌだ。魔物のカーバンクルを連れてるから医療班として雇ってやれないか?」
「あら、可愛い子ね」
逃げることを本気で検討しているうちに、ジークがリリアーヌのことを紹介してしまう。マッチョの視線がリリアーヌを正確に捉えた。
「おい、またラーファスの犠牲者が出るのか………?」
「いや、あれは正真正銘の女の子だろう。ラーファスの守備範囲外のはずだ」
「つーか、なんでジークはラーファスと普通に話せるんだよ………」
「気が合うんだろ、マッチョ同士。ラーファスよりジークの方が強いから自衛できるし」
「つーか、いつまでラーファスを受付に回してるんだよ、ハンター本部さんよ………」
そんな囁き声がリリアーヌの耳に届く。
「あら、そこの人達、私好みのなかなか良さそうな顔ね。んふ♡」
同様に囁き声が聞こえていたのか、ラーファスと呼ばれた受付がこちらをチラチラと見ていた男性人に投げキッスをする。すると蜘蛛が散るように逃げていった。リリアーヌも逃げ出したかった。
「あら、失礼しちゃうわね」
「安心しろ。これは女に興味示さないから」
ラーファスが体をくねらせながら怒る。そんなラーファスを軽く叩いてジークが動けないリリアーヌに声をかけた。
「あ、あの………」
「あなたがアランガム区の生き残りの子ね。辛かったでしょう」
戻るに戻れなくなってしまったリリアーヌが近付くと、ラーファスはリリアーヌの頭に手を伸ばす。その恐怖にリリアーヌの体が強張った。
「てめえは自分の外見見てから行動しろ。びびってるだろうが」
それをジークが止める。
「あら、私はこの子を慰めようとしてあげただけよ?」
「てめえのようなマッチョオネエのインパクトを考えろって言ってんだよ」
ジークとラーファスがお互いを抑え合う。すぐにその均衡は崩れ、ジークがラーファスを強く押し込んだ。
「ほんと、ジークの力は異常よね。私がこれだけの力を得るのに、ここまで肉体改造しなくちゃいけなかったのに、ジークはそこまで肉体改造せずにここまでの力を出せちゃうんだから、もう」
力負けしたラーファスがプンプン怒る。
「俺はもうちょいインパクトある外見になりてえよ。魔物がいなくて線が細いから舐められること多くて困ってんだ」
ジークは大きくため息をついた。確かにジークの見た目であの力は詐欺だ、とリリアーヌは納得した。
「それで難民は受け入れてくれるよな?魔物もカーバンクルだから医療従事者として本部勤めができると思うぞ」
それからジークがリリアーヌの頭を軽くポンポンと叩く。それを見たラーファスは困ったような顔をした。
「確かに治癒ができる魔物を連れてる子を受け入れるのは普段なら大歓迎なんだけど………。ごめんなさいね、今保証人のいない難民を受け入れるのは無理なの」
その言葉にリリアーヌは目を見開き、ジークがラーファスの胸ぐらを掴む。
「事情を説明しろ。納得のできるように」
「簡単よ。アルンガム区からの難民が多く流れてきてしまって、今手続きや受け入れ所がパンク状態なの。アーガイヤ区で受け入れられる限界人数を超えちゃってるの。元々食料が足りなくなることが多いのはジークも知っているでしょ?少しくらいなら受け入れられるけど、それはもう埋まっちゃってるの」
それを聞いたジークが唸る。それからラーファスから手を離した。
「医療従事者としての枠は別途であったはずだ。そこに入れるのは?」
「それも難しいと思うわ。いくら治癒の魔物の中で高い能力を持っていても、生存率の低いカーバンクルだと戦力として見られないことが多いから」
その言葉にジークの口からギリッ、ととんでもない音が聞こえた。歯軋りなのだろう。近くにいたリリアーヌが引いてしまうほど大きな音を立てていた。
「あ、あの、もし受け入れてもらえなかったら、どうなるんですか?」
リリアーヌからも質問をする。
「そうねえ。1週間なら観光、ということで許可することはできるわ。その間に別の区に移動するための手段を整えるか、あなたの身元を保証してくれる人を探す、あなたがこのアーガイヤ区で優先的に受け入れるべきだと判断される実績を残す、のどれかになると思うわね。もし許可なく滞在するようなら強制的に取り押さえることになっちゃうから、気をつけてね」
ラーフィスがリリアーヌに向けてウインクする。リリアーヌはそれで背筋に寒気が走った。
「ちなみにジークに身元を保証してもらうのは無理よ。そこまでする義理はないでしょうし、保証できるのは身内くらいですから。ジーク自身、アーガイヤに流れてきた人ですから、身元を保障されるべき立場の人よ」
「確かに身元保証人になるまでの義理はないな。俺自身、ナディムの実家を後ろ盾にしてる部分があるし。それなりに金は持ってるから、最低限別の区に移動するための資材を用意してやるくらいはできるが、それくらいだ」
ラーフェスの言葉に、ジークは舌打ちしながら答える。
「それより私としたら、ジークがそこまでこの子に入れ込む理由が知りたいわ。今まで浮いた話なんて1つもなかったのに」
ジークの発言を聞いたラーフェスがジークを肘で突く。ジークは軽くそれを手で払うと、その右腕が消えた。ヴォン、という轟音と共にラーフェスが吹っ飛んだ。
「少し事情があるだけだ。下手に放り出すのは俺の寝付きが悪くなる。それと1つ言っておくが、俺はまな板に興味はない」
その言葉を聞いたリリアーヌは、ほぼ脊髄反射でジークの足を踏んづける。リリアーヌは背こそ女性としたら高めだが、胸に関しては全く発育が見られなかった。
「っっ!」
それからリリアーヌが蹲った。人の足を踏んづけたつもりだったが、返って来た感覚は鋼鉄を思い切り踏んづけたものだった。想定外の硬さにリリアーヌの足が逆に悲鳴を上げた。
「己の筋肉を武器としているハンターなら、ブーツすら武器だ。鉄板くらい入れるのが普通だぞ?」
呆れたようにジークが呟く。鋼鉄ほどジークの体が硬かったわけじゃなく、予想していなかった鉄板を踏んづけてしまっていたらしい。
「その事情は気になるけど、い ま は 聞かないでおいてあげるわね」
何事もなかったかのようにラーフェスが受付に戻る。こっちもこっちで規格外の人間だった。
「それでリリアーヌちゃん、あなたはどうするの?」
ラーフェスがリリアーヌに今後の身の振り方を尋ねる。リリアーヌは痛む足を無視して立ち上がった。
「決まっています。私達には他の区に行くための余力はありません。私の血縁者もこの区にはいません。ですから、1週間で私達がこのアーガイヤ区で役に立てることを証明します」
「キュッ!」
リリアーヌの言葉にカーバンクルが顔を見せ、鳴く。それからリリアーヌの肩に乗った。
「じゃ、私達はそれを見守らせてもらうわね。ジーク、公平に彼女のことを判断してね」
「へいへい」
リリアーヌの決意にラーフェスが応じ、ジークに話を振る。ジークは片手でそれに答えた。