月夜の蝶
霧深い森の奥、一人の少年がいた。
森には不思議な力が宿っており、夜になると木々の葉や森に生える草花が青白く淡い光を纏う。少年はその不思議な景色を見るために、月の光も届かないような森の奥まで一人でやってきたのだった。
少年は感嘆し、その美しい光景に声も出なかった。しかし、ざわざわという森のざわめきに、自分がいまどこにいるのかを思い出した少年は、しだいに泣きそうな顔になっていく。
「明るいのに、くらい…きれいなのに、かなしい」
ぽつりと少年はそう言葉をこぼす。慌てて手で口をふさぎ、きょろきょろとあたりを見まわす。そして、周囲に誰もいないことを確認すると、安堵の息を吐いて
「は〜……こんなところに、ひとなんているわけないんだし、何をやってるんだぼくは」
そう、ここにひとはいない。いるわけがない。
生き残った人々は、もう誰も、この森には訪れようとしないのだから。
月虹蝶、そう呼ばれるいきものが人の眼で見ることができるようになってから、世界は変わった。
月虹蝶が飛んだあとには白い虹が靄のようにかかり、その靄は人や自然にも影響した。靄を吸ったものは、淡く発光するようになった。月虹蝶は人々に神格化され、靄を吸ったものたちも、人々に崇められ、崇拝されるようになるのにそう時間はかからなかった。しかし、そのものたちはみな等しく、靄を吸ってから数年で無くなった。
人々は、神々のもとへ帰ったのだ、とよりいっそう神聖視するようになった。人々は不思議なものを目の当たりにして思考を放棄していたのだと、少年は思う。
人々はもっと、月虹蝶というものについて考えるべきだった。けれど、もう全てが終わったあとの始まりに少年は生きている。
少年は、終わりをもがきあがいたものたちによって生かされている。
「この森が、月の化身さまたちの上にあるだなんて、悪夢でしかないよね」
月虹蝶や月虹蝶の靄を吸ったものたちを、人々は月の化身さまと呼んだ。化身さまは無くなるとき、白い靄となるので、人々は靄を一つの場所へ集め、崇めた。
人々はきっと、無意識に自分たちが月の化身さまになってしまう可能性を恐れたのではないだろうか。だから靄を集め、その場を神聖なものとし、崇め、不浄のものが立ち入ることを禁じた。立ち入ることがゆるされるのは神職についている人のみで、それだって、靄の中には入らなかったという。そうやって、わざわいから逃れようとしたのだろう。
「目を背け続けた人々は、靄が木々となり、森へと変わっていくのに気づくのが遅れた。森からは霧となって靄が外へ溢れ出して、人々はつぎつぎに消えていく」
森の幻想的な景色に惑わされたのか、それとも大切なものに会うために自ら森へ入ったのか、どちらかはわからないが、ふらふらとおぼつかない足取りで森へ入っていくものもいたという。
「そうしてとうとう滅ぶだろうというときに、ふしぎなヒトがあらわれる。そのものは月虹蝶と戯れ、靄を吸ってなお、永く生きた」
もしかしたらほんとうの月の化身さまだったのかもしれないし、そもそもそんなひと、最初からいなかったのかもしれない。けれど確かに、そのもののおかげでいま僕らは生きている。
「もう、霧は街までは来ませんよ。けれど夜には月虹蝶が外を飛び回って遊んでいるでしょうから気をつけてくださいね―――それが最期の言葉だった」
月虹蝶はいまもぼくの眼に見えている。
けれどぼくには靄が視えない。月虹蝶はぼくの眼には淡い青色に発光して視えるけれど、これは普通ではないのだそうだ。
靄は見えないが、霧は視える。
ぼくは靄を吸ったのに、永く生き続けている。
「そのもの無きあと、なぜそのものが永く生きたのか、研究がされた。研究は幾度となく失敗し、失敗するたびに森は成長した。しかし、そのうち、ただひとり成功例ができた」
森は静かに朝を迎える。深い霧は徐々に晴れていき、視えていた月虹蝶は段々と透明に、周りのけしきにまぎれていく。
「でも、その成功は不運を招いた。成功例の周りには月虹蝶が集まり、研究に参加していた人々はつぎつぎに無くなった。そうして森はまた大きくなる」
ふわりふわり、透明になってゆく月虹蝶がぼくの周りを取り巻いて、きえていく。なんだか喜んでいるようにみえる。
「森が大きくなってしまったからか、霧は再び街まで近づいてきていた。人々は森を恐れた。人々は成功例となったものをかわいそうだ、あわれだと、いう。成功例は月虹蝶について学び、月の化身様につかえる神職についた」
仲間が増えるのは嬉しいの?
最初の月虹蝶は、なにものだったのかな。
ヒトがどうして、月虹蝶が飛び回って遊んでいる、なんて表現をしたのか、いまならわかるよ。
「きみたちは、心なんだね。なくなったときに、きっと全てがきれいに、無垢になってしまったんだ。でもね、無垢なだけでは面白くないんだよ」
ああ、それでも、汚いよりはいいのかな。
汚れたままであるよりは、きれいであるほうがいいのかな。
「ねぇ。ぼくがずっとここできみたちといるよ。ぼくは人が嫌いなんだ。だから人でなくなったきみたちの仲間になるよ。だから、ねぇ」
もう街には行かないで。ぼくに、森になんていかないでと泣い
てくれたあのこのもとに、心を奪いにいかないで。
「ぼくがそばにいるから。きみたちも、ぼくをひとりにしないで」
たとえきれいなほうがいいのだとしても、あのこがこの世界でわらううちは、すべてを洗い流すことは、したくないんだ。
たとえ、すべてを洗い流し、すべてをいちから始めることがいまの人々の願いでも。
その願いから生まれたきみたちの想いが今を形作っていても。
「ぼくは、淡く光り輝くかなしくて、さびしいこの森が、どんなにぼくを絶望に落とした原因でも、苦しいもの、かなしいものの始まりでも。すべてを含めて憎めないし、嫌いになりきれないんだ」
だって、それらすべてを含めてぼくはいきているのだから。