希釈峡
2008年に別のペンネームで書いた作品です。
昔、備後の国の山奥に久蔵という名の木こりが住んでいた。久蔵は口数の少ない男であったが、仕事を怠けたことはなく、村での評判は悪くはなかった。ただこの男は、体のどこかがちょっとでも痛いと山の向こうの町医者のところまではるばる行って、明日にも死ぬのではと大騒ぎするのだった。久蔵の血筋は先祖代々、五十路に足を踏み入れたことがない。男はちょうど四十になった朝から、そのことをずっと気に病んでいた。
その日も町医者は少し脈を診ただけで、後がつかえているからと久蔵を追い払ってしまった。
石畳の険しい山道が果てるところ、町と村の境に『鬼投岩』と呼ばれる平たい大岩がある。鬱蒼とした木々の中にあってその岩の周りだけはなぜか山肌が禿げ上がっていて、見晴らしがよかった。久蔵はその平岩の上で昼寝するのが常だったのだが、今日は先客があった。
老人はまるでこの世のものとは思えぬ奇っ怪な旅装束を身につけていた。
久蔵の背中に冷たいものがはしった。なにしろこの真っ昼間に、衣の模様が星のまたたく本物の夜空なのだ。この老人、噂に聞く『彗仙』にちがいない。
空から降ってきた石を不思議な水に溶かして不老長寿の妙薬を作り、彗仙は千年、あるいは二千年生きているともいわれている。
彗仙らしき老人は今、平たい岩の上で昼寝をしている。その傍らには小鍋ほどの大きさの壺があった。
あれはもしや……。久蔵の心の中から煙がどろりと上った。
抜き足……差し足……岩に近づくと、さっと壺を手にして山を駆け下りた。
それから何日かは彗仙の仕返しを恐れ、久蔵は廃寺の本堂に隠れてすごした。暖かな春の日が続いた。そこには猪一匹、訪ねてはこなかった。
彗仙は諦めたにちがいない。暗がりにいた久蔵は草深い庭へ出ると、盗んだ壺のふたをついに開けた。粉なのか練りなのか、どんな色形の秘薬が入っているのかと中をのぞくと、ひからびた獣糞のような、茶色いものが底にこびりついているだけだった。臭いはまったくなかった。とりあえずなめてみるかと、指を突っこんでほじり出そうとしても、茶色いものは瓦のように硬く、どんなに爪でかいても耳垢ほどの屑も取れなかった。お堂の太い柱に叩きつけて中身だけいただこうとしても壺は割れず、腐った柱のほうが先に折れてしまった。
銅や鉄には見えないが……。いったい何でできているのかと、壺をまわして調べていると、底になにか彫ってあるのが目に入った。読むとそれは妙薬の能書きだった。
『このままでは毒にしかならぬ。薄めて使うべし』
そこで近くの川へ行き、壺の中に少しずつ水を注いでいった。少しは薄まったであろうかと壺を傾けてみると、出てきたのは入れたばかりの冷たい水だった。
久蔵は人並みには根気のある男だった。壺に水を満たして三日待った。やはり水だった。十日待った。水は水だった。湯を入れた。酒を入れた。酢を入れた。妙薬の塊は泡一つ出さなかった。
それから家に帰り、もうたくさんだと酒に浸っていると、日が落ちてすっかり暗くなった頃になって一人の美しい女が訪ねてきた。
「使いの途中で道に迷ってしまった。一晩、夜露をしのがせてはもらえまいか」
孤独な男は一も二もなく女を招き入れた。聞けば、女はこの辺りを治める名士の末娘だとか。はじめは疑ったものの、二三の息差しでそれが偽りでないことを察した。男の荒ぶ下心はあっけなく潰えた……かに見えた。
囲炉裏で鍋をつついていると、女はふと壁ぎわに転がっている壺に目をやった。
妙薬のことはすっかり諦めていた久蔵は、拾った壺のことを、どうせ信じるわけはないと、べらべら口にした。
女は静かに耳を傾けていた。男が話を終えると、ためらいがちにこう言った。
「東の山を五つ越えた先に『希釈峡』という険しい谷がある。そこを流れる水は、この世のどんなものでも薄めてしまう不思議な力があるそうで、万一そこに刀を落としたときは、それがどれほどの業物であっても諦めるしかないと、家臣の者が話しているのを耳にした」
次の朝、目覚めてみると女の姿はどこにもなかった。
久蔵はかまわず身支度を整え、東の山へ向かった。山で育ったこの男は、坂を歩くことにかけては疲れを知らず、御来光を二度おがんだだけで、女の言っていた通りの谷にたどり着いた。
崖も水量もまずまずの荒さではあるが、腕っぷしに覚えのある男なら下っていけぬこともない。この国の山奥にはありふれた深みだった。
さてはかつがれたかと訝りながらも、せっかく来たのだからと、川岸の大木にくくりつけた縄を伝って谷底へ下りていった。
久蔵はごつごつした河原に立った。やはりなんのことはない清流だ。美人の話はもう信ずまいと一度は思ったものの、人並みには未練がましいところのあるこの男。じっと流れを見つめながら背負ってきた袋からおもむろに妙薬の壺を取りだすと、しぶきのかかる川べりに寄っていくのだった。
するとどうしたことか、辺りにもうもうと乳色の霧がたちこめ、岩壁も木々も空も、なにも見えなくなってしまった。
久蔵はぎっと歯を剥きだした。驚き恐れたのではない。箍の外れた喜びのせいで、つまらぬヘマをせぬよう、己に言い聞かせていたのだ。
男はじゃぶじゃぶと進んで、大きな平岩の上をすべりゆく透き通ったものを壺の中の塊にふくませた。手を突っこんでよくかきまぜ、冷たいものをすくってみると……やはりただの水だった。
怒った久蔵は、流れの中にどぼんと壺を投げ捨てた。こんなことなら欲など出さず、家で酒でも飲んでいたほうがましだった。さっさと帰っていつもの仕事に戻らねば、老いだの病いだのという前に、飢え果ててしまうではないか。
久蔵はじゃぶじゃぶと返して河原に出た。辺りはまだ霧の中。晴れるまで待つしかないと、乾いた石の上に腰を下ろしたときだった。
男は両足をもがれた落武者のような叫びをあげた。いや本当のところ、足首から先がなかったのだ。
少しして落ち着いてみると、足の痛みは幻であることがわかった。ほっとするのもつかの間、男は足の応えが一切なくなっていることに気づき、ぞっとした。例の女の顔が頭に浮かんだ。彼奴、たしかこんな事を言ってはいなかったか。
『そこを流れる水は、この世のどんなものでも薄めてしまう……』
しばらくして霧は晴れた。男は足を失ったせいで、その場から離れることができない。ましてや崖をよじ登り、何里も離れた村落まで救いを求めに行くなど叶わぬ夢。男は川の水をかきまぜたせいで、利き手の力も失っていたのだった。
なによりも体の苦しみ痛みを恐れていた久蔵は、こんな寂しいところで一人朽ち果ててしまうくらいならと、川に身を投げてしまった。
男の体は溺れるよりも早くたちまち希釈まっていき、やがて川の水となり海の水となり、天地をめぐる常久となった。