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ピカレスク

作者: 藤村ひろと

 

「水……」



 つぶやきながら起き上がると、ずるずるとはいずって単車の元へ行く。


 サイドバッグからミネラルウォーターのボトルを取り出し、一緒に収めてあった炭酸水素ナトリウムの粉、まあ、つまり胃薬のことだが、その粉末をぬるい水で飲み下す。


 水溶液はゆっくりのどを流れ落ちて、胃の中へ。メントールのさわやかさに少し救われたところで、盛大なゲップ。


 ようやく胸のつかえが取れた。


 一息ついてあたりを見回すと、強烈な臭気が漂う裏通り。ごみためのようなアスファルトの上に、俺は吐しゃ物まみれになって寝ていたのだ。大きく息を吸って熟柿じゅくしくさい息を吐き出すと同時に、ようやく昨夜の記憶がよみがえってきた。


 もちろん、思い出さないほうがいくらか幸せだというたぐいの記憶だが。


 二日酔いにむかつく胃の上を押さえながら、ふらつく足で立ち上がる。


 ジーンズについた、誰のだかわからない吐しゃ物の汚れが目に付いた。ビルの裏に捨ててあった観葉植物の鉢から、やけに白っぽい砂をすくい上げ、半乾きのジーンズに擦り付ける。


 それでとりあえず鼻を刺す臭気は和らいだので、ようやくタバコをくわえる余裕が出てきた。


 100円ライターで火をつけると、胸いっぱいに煙を吸い込む。


 二日酔いのタバコというのは、とてもうまいものとは言えないのだが、なぜか火をつけてしまう。きっと俺だけではないだろう。


 上を向いて大きく煙を吐き出してから、くわえタバコでよろよろと相棒をまたぐ。


 相棒は傷だらけの車体を、細いサイドスタンドに不機嫌そうに寄りかからせたまま、夜露にぬれていた。


 イグニッションにキーを差し込み、インジケータが点灯するのを見てから、おもむろにセルを押す。



 きょきょきょきょ……



 セルモータが心細げに回り、俺の不安が高まる。


 と。



 バルルン!



 その不安を吹き飛ばすように、エグゾーストがえた。



「ちぇ、脅かすんじゃねえよ。てめえの馬鹿でかい図体を押して歩く羽目になるのかと思って、一瞬、血の気が引いたぜ?」



 酒臭い息でそう言うと、相棒は相変わらず不機嫌そうにヴーヴーとエンジンを唸らす。フュエルインジェクション仕様だから、暖まるまではオートチョークが効いて、エンジンの回転数が自動的に高くなるのだ。


 俺はタバコ一本を吸い終わるまで、そのまま相棒の機嫌が直るのを待っていた。


 やがてエンジンが温まり、オートチョークが戻って、アイドリングが安定する。



 ドッドッドッド……



 腹の底に響く重低音を股の下に感じるうちに、ボロ雑巾みたいだった気分が少しだけよくなった。


 我ながら、現金なものだ。


 朝の国道。混雑するのぼり車線を眺めながら、反対側をのんびり走る。


 音楽もなく排気音と街の喧騒をバックに走っていると、イヤでも昨晩のことが思い出されてきた。


 俺は不機嫌になってアクセルを開けた。


 



 ごんっ!


 目ン玉から飛び散った火花が、頭の周りを回る。


 マンガじゃあるまいし、ンなわけあるか! って思ったヤツは、強ぇヤツに鼻っぱしらをぶん殴られた経験がないに違いない。チカチカするだけじゃなく、平衡感覚がおかしくなって上手く立ち上がれない。立ち上がってもしばらくは、目の前に見える風景に色がつかない。


 モノクロの世界だ。


 やがて色がついてくると今度は、紫だの緑だの、カラー写真のネガフィルムのような、サイケデリックな色使い。目の焦点が合ってくると同時に、吐き気がわきあがってくる。意地でも吐くもんかと無理やりツラをあげて相手をにらみつければ、向こうは余裕のニヤニヤでこっちを眺めている。


 立ち上がるまでに、これだけ時間がかかれば、やつが勝利を確信したとしても無理はない。


 もっとも、こっちだってこのまま大人しくしてるつもりは毛頭ないのだが。


 事の起こりなんざ覚えてない。


 どうせ俺のことだ。睨んだだの、肩がぶつかっただの、くだらねえ理由に決まってる。酔っ払ってるとどうもいけねえ。もっとも経緯を覚えていないってコトは、向こうが因縁つけてきた可能性もあるわけで、俺ばかりが悪いってコトもないだろう。


 きっとそうだ。うん。


 まあ、 どっちにしろこうなってしまえば、どっちが良い悪いなんて目くそ鼻くそだしな。


 強いて言や、負けたほうが悪い。


 不意を突かれてイイのを貰ってしまった俺は、それで余計にトサカにきた。


 しらふなら、こういうときこそ冷静に状況判断することもできるんだが、酔っ払ってりゃそうも行かない。まあその前に、しらふだったらケンカなんかしないんだが。


 ちぇ、眉にツバつけるなよ。


 俺はヤツに飛び掛る。


 ヤツは狙い済ましたナックルを、俺の顔面にぶち込みに来る。が、今度はこっちだって予想しているから、やつの殴ってきた腕の下にもぐりこむことができた。


 だいたい、顔の大きさなんて、そう大きなものじゃない。しかも止まっているならともかく、標的が動いているんだ。実際に効果的な打撃を与えられるマトの大きさなんて15~20㌢もありゃ良い方だ。


 ボクサーだの空手家だの専門家ならともかく、そうそう綺麗にど真ん中を殴れるもんじゃない。って、ついさっき鼻っ柱を綺麗に殴れたやつのセリフじゃねえか。


 もぐりこんだ俺は、そのまま足を絡めて相手を引きずり倒す。


 後は楽なものだ。


 立ち技に比べ、寝技のほうがセンスより練習量の比重が多い。つまり、シロウトと専門家の差が出やすいのだ。ましてこちらはゲロ吐きながら覚えた寝技。負ける要素がない。


 TVででも見て知っているのだろう。ヤツはマウント(馬乗り)を嫌って後ろを見せる。Tシャツやタンクトップだとエリの強度が使えないので裸絞めするくらいしかないが、こいつはスーツを着ていた。


 ご愁傷様。鼻っ柱のお礼に、赤っ恥を掻かせてやらあ。


 俺は後ろからすいっと右手をエリに滑り込ませると、スーツの左エリをしっかり握って引く。同時に左手を相手の左わきの下から後頭部に回し、自分の右腕の下に思いっきり突っ込んだ。


 片羽締めだ。


 他の絞めと違って逃げれば逃げるほど、離れれば離れるほど深く食い込むので、実に実戦的な締めだ。俺がストリートで多用する絞めのひとつである。


 程なくしてヤツはぶくぶくと泡を吐きながら、失神ちた。ビクンビクン痙攣しているヤツの股間を見る。バッチリ失禁して、高そうなスーツのズボンに黒いシミが広がっているのを確認。ざまあ見やがれ。


 小便を漏らしたみっともねえザマを充分ギャラリーに確認させてから、やつの身体に乗っかって活を入れた。マンガやドラマでやっているように座らせて入れるより、こうして寝ているところに上から活を入れるほうが、簡単だし効果が高いんだ。


 10分以上オチていると脳に深刻な酸欠症状が起こって、場合によっては命にもかかわるから、オトしたらできるだけ速やかに活を入れたほうが良いぜ? そんなことしない? そりゃ失礼。


 目を覚ました男は、しばらくぼぉーっとしていたが、やがて頭の焦点が合ってくると飛び起きて、俺に向かって構えた。


 俺はタバコを咥えながら、余裕のニヤニヤで男の股間を指さす。



「しょんべん小僧。パンツ履き替えてから、かかってこい」



 男は自分の股間に視線をやり、一瞬、凍りつく。


 信じられないものを見た、といったていのツラに、俺は思わず爆笑する。俺に釣られて周りのギャラリーも失笑を漏らした。男はこめかみに血管を浮き上がらせながら逡巡している。


 股間を小水で濡らした男の頭の中では、今、ものすごい勢いで計算が行われているはずだ。


 このみっともない状況から逃げるか、小便なんかには構わずに俺を襲うか。


 ちなみに俺なら後者だ。


 赤っ恥かかされたまま逃げるくらいなら、どうせ小便しちまったんだし、開き直って襲い掛かるだろう。 ぶちのめした後、そいつのズボンをいただいて帰ればいいんだし。


 鼻っ柱をぶん殴られたお礼も済んだので、だいぶん機嫌を取り戻した俺は、煙をぷかぷか吐き出しながら、腕を組んで男の様子を見る。


 つってももちろん、油断は禁物。


 体重をつま先にかけつつひざの力を抜き、やつがどんな動きを見せても対応できるように準備した。ソコまで冷静にやれるならもうひといき冷静になって、ハナからケンカなんかしなきゃいいんだが、こればっかりはなぁ。


 男は俺が余裕こいているのを見て、さんざ迷った挙句、プライドを捨てるほうを選択した。


 と言っても、逃げ出したわけじゃない。


 俺は普段そういうことをしないから、最初からアタマになかったんだが、ヤツにはもうひとつ選択肢が残っていたのだ。携帯を取り出した男は、仲間に電話をかけた。


 ジーザスクライスト!  その手があったか。すっかりアタマになかったよ。


 余裕をこいていた俺は、一気に絶望的な気分になる。なぜって男が電話しているのを聞いて、こりゃヤバいと逃げ出そうとしたときには、すでにあちこちから男たちが数人、走りよって来るところだったのだから。


 すげえレスポンスだ。救急隊員にでもなれば、さぞかしヒトの役に立てるだろう。


 ヒトの役に立つなんて寝言でも言わなそうな男たちは、あっという間に俺を囲んだ。


 もっとも俺だってもちろん、ぼんやり眺めていたわけじゃない。 囲みの薄そうなところを狙って駆け出したのだが、囲みを破ったと思った瞬間、誰かに足を引っ掛けられて転んでしまったのだ。


 こいつらに時間差攻撃なんて高度な頭はないだろうから、ただの偶然に違いないだろう。


 少し遅れてきた連中が、仲間の追いかけてる俺を見て、とっさに脚を引っ掛けたのである。


 無駄に機転を利かせやがって。


 とにかく後はお定まり。


 だいたい相当強い男だって三人いたら手も足も出るもんじゃない。俺だって三人いたら絶対逃げる。 もし逃げられなければ、ほかのやつらに殴られようが蹴られようが、一人だけ集中攻撃してめちゃくちゃにし、ほかの二人がびびって引くのを狙うしかないだろう。


 が、相手はざっと見繕っても二十人からの大所帯だった。


 そんなもん相手にできるわけがねえ。


 俺はひたすら殴られ、蹴られ続け、地べたを転がる。


 警察がやってくるまで、頭とか目とか金的とかヤバいトコだけをかばって亀になり、ひたすら嵐が過ぎるのを待っていた。


 



 夕方まで眠って目を覚ますと、体中のあちこちが悲鳴を上げている。熱を持って腫れていないところを探す方が大変なくらいだ。


 それでも、むしゃくしゃしていたので、街に呑みに出ることにした。


 相棒に火を入れて、十分に温まるのを待つ。 それから低いシートにどっかりと腰を落とし、シフトを蹴りこんで乱暴にクラッチをつなぐ。相棒はリアタイアからスキール音を響かせながら、白煙を上げてダッシュした。


 しばらく国道でトッポい車や単車とやりあった後、繁華街に相棒の鼻先を向ける。裏路地の入り口、目立つ街灯の下に単車を停めて、一握りはあるぶっとい鎖でつないだ。


 昨日の騒ぎでからっケツになっていたんで、コンビニのキャッシュディスペンサーで金を下ろすと、痛む身体を引きずってネオンへ向かう。


 いつもならそのままショットバーへ入るんだが、ちっとばかりヘコんでいる俺の脚は、キャッチの兄ちゃんに誘われるままキャバクラ行きのエレベータに乗った。店に入って座りざまオシボリでごしごしと顔を拭いていたら、なかなかかわいらしい姉ちゃんが隣に座る。


 俺は親のかたきのように濃い水割りを作らせて、がばがばと胃袋に放り込みながら、ご機嫌で口説きだした。



「ふうん、そうなんだ。ところでさ、なんだかひどい顔だよ? どうしたの? ケンカしたの?」


「ひどい顔は生まれつきだぁな。いや、ケンカなんかするもんか。俺は平和主義者なんだ」



 地獄へ行ったら閻魔さんにベロ引っこ抜かれるのは確実なセリフを吐きながら、俺は水割りをごぶりとる。おねえちゃんは納得したのかしないのか、小首をかしげていたが、やがて安心したように話し出した。



「よかった。実はね、昨日この裏でケンカがあったんだけど、そのときボコボコにされた人がいるの」



 俺だよ。忘れてぇ話を、蒸し返すんじゃねえ。


 思いながら俺は、黙って話の続きを聞いた。



「それでさ、そのときその男がね、みんなが集まってくる前に、ある人を絞め落としちゃったんだって。そしたらさ、絞められたその人、おしっこ漏らしちゃったんだってさ、きゃははは」


「へえ、そりゃ面目丸つぶれだな」



 いい気味だ。



「だよね? でもさ、ヤバいよねぇ? おしっこ漏らしちゃったの、誰だか知ってる?」


「その話自体、今はじめて聞いたよ」



 二枚目のベロも抜かれるな。


 なんてのんきに思っていたら、お姉ちゃん、とんでもない爆弾を落としてくれた。



「グッドマンだよ? あの」



 頭の中が真っ白になっていく。ぐらりとめまいがするのをこらえて、何とか取り繕う。



「グッドマンって……」


「そう、この街の顔役、ケント・グッドマンの息子、テリー・グッドマン。なんかさ、ものすごい怒り狂ってるらしくて、あの男を絶対探し出せって、えらい剣幕らしいよ」



 俺の人生10大ニュースの中でもトップワンに入る、聞きたくない話だよそれ。


 胃の辺りが重くなってきた俺の気持ちなどにはカケラも気づかず、お姉ちゃんはきゃっきゃと聞きかじったニュースを教えてくれた。



「それで今、若い衆を集めて、その男を狩り出そうとしてるんだって。幸い、男の顔を写メに取った人がいたらしくて、おっかない連中が街中を探し回ってるらしいよ」


「そ、そりゃ凄いな。で? おめえも、その男の顔、見たのか?」


「ううん。まだ見てない」



 俺は安堵のため息をつきながら、浮かせかけた腰をどっかりとすえた。もっとも、俺の顔を知っていたなら、こんな話をする前に、とっとと連絡しているだろうが。


 しかし、参った。ヤバいったらないぜ。どうする?



「そんでね、テリーはほら、例の父親の事務所に陣取って、あちこちに電話を入れながら指示してるんだってさ。あのひと、そういう戦争ごっこみたいなの、大好きなんだね」


「へえ、そうなんだ。ってーかさ、例の事務所って、どこにあるんだっけ? 駅前の、なんだっけ」



 カマをかけてみると、おねえちゃんはあっさり乗ってくれた。



「違うよ。駅前のは本家スジかなんかのでしょ? ケント・グッドマンの事務所は、駅から国道に向かうメインストリートのどんつき、国道沿いのクリスマスビルだよ」


「ああ、1階のな」


「と思うでしょ? でもね、あれ、二階から上は偽装してあって関係なさそうに見えるけど、本当は全部グッドマンの持ち物なんだよ? 知らなかった?」


「そうなんだ? 知らなかったなぁ。で、テリーさんはどこで采配を振るっているんだい?」


「三階に高級サロンがあるでしょ? 本当は、ただのサロンじゃないんだけど、それはまあいいや。そこから組の連中に電話してくるんだって、さっき来たお客さんの、あそこの若い衆が言ってたよ。ブーブー文句言ってた」



 俺は聞きたい話を引き出し終わると、場内指名と飲み物の追加をねだるおねえちゃんを振り切って、店の外に出た。


 誰にも見られないように、すばやく駆け出すと、単車の停めてある街灯の下にゆき、エンジンをかけるが早いか電光石火、走り出した。


 腹は決まった。


 狩られる前に狩ってやる。


 俺は国道に向かって全速力で走ると、信号の変わり目に飛び込んで左折し、クリスマスビルの隣にある雑居ビルを回り込んで裏に停車した。


 繁華街で俺を狩りだすために、こっちは手薄になっているに違いないと思ったが、案の定だ。俺がビビって姿を隠していると思っているんだろうな。


 隣の雑居ビルのエレベータに乗ると、三階へ向かった。


 うまいことに、クリスマスビルに面した方に便所があったので、便所の窓から隣を伺う。


 どうやら向こうの便所らしき窓に見当をつけると、掃除用具入れの中からモップを取り出して、その柄を向こうの窓枠に引っ掛ける。二、三回失敗したあと、何とか便所の窓を開けると、今度はもう一本のモップも取り出して、向こうの窓に引っ掛けた。


 モップが届くくらいだから、たいした距離じゃないんだが、万が一バランスを崩したときのために足場を作ったのだ。


 窓から身を乗り出すと、窓枠に脚をかけ立ち上がる。


 それから向こうの窓につま先を伸ばした。下を見るとめちゃくちゃ怖いので、なるべく見ないようにしながら、そろそろ足を伸ばす。 いま、向こうの便所に誰か入ってきたらアウトだな、なんて他人事みたいに思いながら何とか窓を渡り終えた。


 便所の扉を開けて表の様子を伺うと、高級サロンとやらの扉に見当がつく。


 あれか。あの中に、居やがるんだな?


 昨晩ぶちのめしたテリーの忌々しい顔を思い出しながら、便所の床につばを吐いた。ぴしゃっと音がして思わず首をすくめる。それからゆっくり扉を出ると、サロンに向かって歩き出した。


 歩きながら、お姉ちゃんにサロンの間取りも聞いておけばよかったと思ったが、さすがにそれは知らないだろう。ま、知ってても、いまさら聞けるわけじゃないし、どうでもいいか。出たとこ勝負だ。


 サロンの扉の前で一回、大きく深呼吸。


 さて。


 俺はおもむろに扉を開けた。




 中からタバコの煙と、酒の匂いが流れ出してくる。


 キャッシャーみたいなところに居る男が、なんだ? といった顔でこちらを見た。つとめて冷静を装いながら、男に向かって顔を寄せ、さも大事な話があるといった風に、男に手招きした。男が寄ってきたところで、小さくささやく。



「テリーさんは? ちと、やばいんだ」


「奥だよ」



 言いながら男がそちらに視線を送ると同時に、俺は駆け出していた。


 走りながら店内を見渡すと、今日は通常営業ではないためだろう、店内は明るくなっている。 おかげでテリー・グッドマンを見つけるのに、たいした苦労はいらなかった。


 なにごとかと、こちらを見る人々。誰何すいかの声を上げる取り巻き。


 そのすべてを無視して、テリーに向かって走る。


 テリーと目が合った瞬間、俺は宙を舞う。


 思いっきり跳躍しながら、両脚をそろえて空中を飛び、足の裏をテリーの顔面に叩き込んだ。


 ドロップキックだ。


 笑うなよ。一回やってみたかったんだ。


 ぷぎゃあ! と 奇妙な声を上げて、テリーが顔を抑えたまましゃがみこむ。 周りの男たちが怒声をあげたときには、俺の手がテリーのふところに滑り込み、ヤツの拳銃を引っ張り出していた。



「こいつの頭、吹っ飛ばすぞ?」


「ヤロウ!」


「てめえ! ぶっ殺してやる!」



 気色ばんだ男たちに向かって、テリーはあわてて両手を振りながら叫ぶ。



「やめろ! てめえら、やめろ!」



 テリーはいきり立つ男たちを必死に止めた。俺が、銃口をぐりぐりとやつの頭に押し付けたからだ。


 男たちが一瞬収まるのを待って、そのスキに銃のセーフティ(安全装置)をはずす。


 ふう、危なかった。この瞬間がいちばんヤバいと思ってたんだ。セーフティさえはずせりゃ、こっちのもんだ。


 テリーは後頭部に押し付けられた銃口にビビって、俺がセーフティをはずしていないことに気づかなかったのだ。やつの唯一の勝機は去った。



「クソぅ……」



 歯軋りするテリーのアタマに銃の先をねじ込みながら、俺は低い、ことさら低い声で言った。



「サシのケンカに負けたからって、仲間を引っ張り出してフクロにしただけじゃ物足りずに、こんだオヤジの手下まで使って、たった一人を狩ろうってか? ずいぶん男らしいマネだな、テリーさんよ」


「てめえ、俺がテリー・グッドマンだって知っててケンカ売りやがったのか?」



 知ってたら手ぇ出すわけねえだろう、バカ。さっさと逃げ出してらあ。


 とまあこれが本音なんだが、もちろん口に出しては、



「それがどうした?」



 とカッコつけてみた。


 どうせここまで来たんなら、最初からギャングの息子って知っててケンカ売ったって話の方が、カッコいいからな。どっちでもバカには違いないって? 判ってるよ。


 俺はテリーを人質にして、ゆっくりとサロンを後にした。遠巻きに見ているやつらも、てめえンとこの大将の息子が人質じゃ、如何いかんともしがたいらしく、割合おとなしく言うことを聞いた。


 もっとも俺を見る連中の目は、もンのすごい殺気に満ちていたがね。


 やれやれ、これだから面子がどうのって連中は嫌いなんだ。


 連中を三階に足止めさせておいて、階段を使って下に降りた。エレベータなんて、止められたらそこで終わりだからな。


 階下におりて、連中が窓から見守る中、(動いたら、テリーの頭をぶっ放すって言ってあるんだ)俺はテリーをつれて単車の前までやってくる。


 エンジンをかけ、すべての準備が整ったところで、テリーに向かって満面の笑みを浮かべた。



「俺ぁ、もっと単純で、気持ちのいいケンカが好きだったんだ。それを台無しにして、こんな薄汚ねえケンカにしたのは、おめえの落ち度だぜ? なあ、そう思わねえか?」



 言いながら、銃口をテリーの額のど真ん中に向ける。


 俺の目ン玉を見て本気だとわかってくれたのだろうか。悪口雑言、罵詈雑言をぶちまけると思っていたテリーが、驚くほど真剣な顔で言った。



「判った。俺が悪かった。シロウトにここまでされちゃ、オヤジが帰ってきたら殺されちまう。この件はこれでチャラにしようじゃねえか。俺ももう、おまえを狩ったりしないから、これで終わりにしよう」


「あン? 俺は全身、ムラサキ色に腫れ上がるほど殴られたうえに、本物のギャングに狩られかけたんだぜ? その上、ここまでやっちまったんだ。どこの世界に、シロートにこんな事されて黙ったまま引っ込むギャングが居るんだよ?」


「本当だ! 絶対に手出しはさせない」


「ウソつけバカ。だいたい、恥かかされたのは、もう、お前だけじゃねえんだ。オヤジさんの兵隊どもが、このまま黙ってるわけねえだろうが。元々オヤジの威光を笠に着て威張ってるお前だ。ヤツら喜んで今回のことをオヤジさんにチクるぜ?」



 黙ってしまったテリーに向かって、俺は最後の言葉をかけた。



「じゃぁな、テリー。先に向こうで待っててくれ」



 テリーの瞳が驚愕に見開かれる。


 俺はにっこり笑いながら、引き金を引いた。



 ぱしゅっ!



 乾いた、存外まけな音を立てて、テリーの額に穴が開く。


 テリーは驚いた顔のまま、後ろ向きにぶっ倒れた。


 ぶっ倒れたと同時に、単車のシフトペダルを蹴りこんで、ロケットスタート。先ほどの銃声よりはよっぽどいかつい相棒の排気音の向こうで、ビルから鈴なりになって様子を伺っていた男たちの、悲鳴に近い怒声が聞こえたような気がした。


 が、もう、知ったことか。


 俺は走り始めちまったんだ。




 国道を南に向かってぶっ飛ばしながら、俺はいっそ、口笛でも吹きたい気分だった。


 ざまあ見やがれ!  いつかは狩られて殺されるかもしれない。 完全に逃げおおせるかもしれない。だが、どっちだって構うものか。そんなモノはお天とさんに任せた。


 答えは風に聞いてくれ。


 俺はもう、映画の主人公気取りで、ものすげえ愉快、爽快な気持ちのまま単車を走らせる。


 俺はヒーローであり、アウトローであり、自由と反逆の象徴なのだ。


 車の列が切れたところで、アクセルを一気に開ける。爆音と共に、相棒は蹴っ飛ばされたような加速をした。


 へへっ、最高だぜ、お前。


 と。


 いきなり目の前に、黒い影がよぎる。


 パニックでブレーキを思いっきり握り締めた瞬間、相棒はいやいやと女のように身をよじった。


 ガードレールが目の前に迫る。


 空白。


 



 激痛に目を覚ますと、俺は道路に放り出されていた。


 身体は1ミリたりとも動かせない。いや、首だけはどうにか動かせるようだ。


 首を持ち上げ、気が遠くなるような激痛の中で相棒の姿を探す。焦点が定まりにくい目ン玉を懸命に動かして、きょろきょろと周りを見回していると。


 居た。


 相棒はガードレールに突き刺さって、原形をとどめていなかった。


 その姿を見た瞬間、俺の胸に痛みが走る。 ごめんな? と心で謝る俺の視線の先で、 相棒は沈黙したまま、無残なかばねをさらしていた。


 と。


 俺の顔のそばに、影が落ちる。


 なんだ? と思ってそっちを見ると、一匹の小さな子猫が、俺の方を見て小首をかしげていた。



「なんだよ……おまえかよ……急に飛び出すやつがあるか、バカ」



 のどをせりあがってきた血塊を吐き出しながらつぶやく。


 と、子猫は小さくあぉんと鳴いて、トコトコ走り去っていった。



「ちぇ、愛想がねえな……だいたいよ、てめえのせいで……俺ぁこんなメにあってるんだぞ? 少しぐらいシッポ振ったって……バチは当たらねえだろうに」



 首を上げているのがつらくなって、アタマをアスファルトの上にそっと置く。


 能天気なくらい輝く星空と満月が、俺の目に映った。


 瞬間、何の理由もなく、理解した。



「ああ……俺……死ぬのか」



 妙におかしくなり、俺は笑った。


 ま、どうせ、どうでもいいと思っていたんだし、こんなのも悪かねえな。やりたいことはやってきたし、こんなモンだろう。


 ただ、テリーのバカに、「先に行って待ってろ」なんて言っちまったのはマズかった。いくらなんでも早すぎらぁ。向こうであわせる顔がねえよ、みっともねえ。


 くだらないことを色々考えているうちに、ふと、もっとくだらないことに気づく。


 気づいた瞬間、無意識に声を出していた。



「ああ、そうか……シッポを振るのは……犬だっけ」



 口に出してから、あんまりマヌケなんでおかしくなり、血だらけのまま乾いた笑い声を上げた。


 しかしまぁ、最後のセリフとしちゃ、わりと上出来かもしれねえな。


 気が狂いそうに美しい満月をまぶたに焼き付けながら。


 俺はゆっくりと目を閉じた。


 


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