宵の仕事2 Ⅴ
黒衣の魔女を見て恍惚派の魔法使いは火を押しつけられたように遠ざかった。そこには怯えが見てとれる。どんな戦いが繰り広げられたかはわからないが、期待通りゲスな魔女のほうが上手であったらしい。
ゼフォールの顔は再び表情のないものに戻った。宵の仕事に就く無慈悲な教戒師の仮面である。
抑揚のない声でラズリエルの無事を確認する。
「怪我はないか」
「ひっどーい。あたしがあんな変態にちょっとでも傷つけられると思ってたわけ?」
ついに変態扱いかと細めた目をその魔法使いに向ける。衣服だけでなく、中身もまさに息も絶え絶えな状態。
左腕の象徴印は全体がかすんで役に立たなくなっており、右腕の象徴印も半ばまで消えかかっていた。理法剣士のような不完全な変形魔法陣ではないことが幸いして、腕が動かない状態ではないようだ。
「どうして魔法使いは自分の体に魔法陣を書きつける? バカなのか?」
疑問を投げかけると同時におまえも同類なのかと視線を送る。
ラズリエルはまさか、と唇を尖らせて反論した。
「それは恍惚派だけ。あたしはそんなことしませ~ん。あいつらは自傷行為が原理の一つなの。その痛みに耐えて得られる恍惚の境地こそが魔法の真の源だとする教え。それがあれば、呪文、魔法陣はおろか、究極的にはどんな様式もいらない」
「だから、自分を痛めつけるような真似をするのか」
ゼフォールは自分が葬った理法剣士の死に様を思い返した。剣に施した理法魔術は攻撃のためだけではなく、次の魔法のための布石でもあったわけだ。
自分を追い込む過酷な手法の割りにお粗末な攻撃。それが宵の教戒師の感想だった。
あれなら、普通に剣で勝負を挑まれたほうが手強かった。己に魔法使いであることを強いたが故に彼は死んだ。
ならば、本職の魔法使いはどうなのか。やられっぷりからも法定傭兵団の技術顧問に圧倒されていることがよくわかる。もはや恐るべき相手には見えなくなっていた。
「大層な態度から魔法使いというものを警戒したが、過大評価だったようだ」
「言っときますけどね、あたしは恍惚派のヘボとは違いますからね」
さんざんなことを言われ、恍惚派の魔法使いは怒りに顔をどす黒く染めた。怒りの力で立ち上がると、後生大事に持っていた黒い金属の箱を高々と突き上げた。
「ここからが私の本当の力だ! 貴様らを待つのは、残酷な死のみだ!」
力強いながらもどこか怯えのある声だ。奴は反撃を口にしながら不安に駆られている。
そこへ思いもしない方向から人の声が聞こえた。乾いた響きをもつ女性の声だった。
「とうとう人間をやめるのか」
離れた屋根の上に目を向けると新たな人影があった。見てくれは剣士姿だが、フォルムは見るからに女性のもので、顔面には見慣れた仮面が張りついていた。恍惚派のものと同じデザインだ。ただし、その仮面には金の象眼が施されており、その女性が特別な地位であることを示している。
恍惚派の魔法使いはヒビの入った仮面で見上げ、舌打ちした。
「チッ、花嫁の付添役か。この案件は私が任されたものだ。横槍はやめてもらいたい」
「それは好きにしろ……。だが、借りた従者をやられては、混沌の花嫁に顔向けできまい」
恍惚派の魔法使いは答えに詰まり、吐き捨てる。
「あ、あいつは……。クッ、あんな未熟者のことなど知るか!」
「落とし前をつけるんだな」
味方とおぼしき女にまで追い込まれて恍惚派の魔法使いは歯を食い縛った。
暗い夜空に黒い箱『万能箱』が再度掲げられた。うっすらと燐光をまとっているかのように箱の形が浮かび上がる。
そして、自分の顔から白い仮面を剥ぎ取った。眉が細く顎も尖り、神経質そうなご面相だった。
「く、くそぅ! や、やってやる。やってやるぞ!」
どもるのは、緊張のせいか、恐怖のせいか。ただ大きな重圧がのしかかっていることは容易に想像できた。
奴は右手にもった万能箱を胸の高さまで下ろすと左手にぶつけるように押しあて、両手でつかみ直した。それから、ゆっくりと呪文を唱え始めたが、その言語は聞いたことがなく、発音そのものが困難な母音と子音が組合わさっていた。
ゼフォールは聞いたことのない言語だ。いや、そもそも言語なのかも定かではない。
もの問いたげに顔を向けると、ラズリエルの冷めた目が恍惚派の魔法使いからゼフォールに向いた。彼女の声音はその視線以上に冷たかった。
「あれは混沌言語よ。恍惚派の上位者である混沌の貴族どもが使う言葉で、その弟子達も師匠のお残りに預かるときに使うのよ。逆を返せば、あれを使える奴は混沌の貴族の弟子ってこと」
『混沌の貴族』や『混沌言語』という単語に聞き覚えはなかったが、恍惚派における階級や独自の魔法様式であることは理解できる。
恍惚派においては『混沌』が一つのキーワードであるらしい。
ゼフォールの頭に、長らく思い返すことのなかった神学校での講義内容が浮かんだ。
混沌は灰光教の中では暗色光と表現される。暗色の光の世界から神が秩序を構築した後、この世に残ったのが灰色光であり、物質であるのだ。
とは言え、魔法使いが暗色光と関係するという話は隠秘蹟の講義にも出てこない話だった。
ゼフォールが先に手を打たなくてよいのかと尋ねようと口を開いたとき、その口が動かなくなるような驚くべき出来事が起こった。
魔法使いの腕が少しずつ万能箱の中に吸い込まれていったのだ。その黒い箱の表面を血が伝って流れ落ちていく。
突拍子もない光景に目を奪われていたが、何かを咀嚼する音がゼフォールの注意を惹いた。しかもそれはクッチャクッチャと気持ち悪い音だ。
ゼフォールがあれはまさか、と先輩を見る。ラズリエルは不快げに眉をひそめてこそいたが、こういう展開となることが薄々わかっていたようだった。
「あれはなんだ? 何が起こっている?」
それを説明させるのか、と彼女はため息をつき、それでも説明をしてくれた。
「わかってると思うけど、人間に魔力なんてものはない。だから、恍惚派は己の体に魔法陣を刻みつけて擬似的に魔力を宿そうとするの。例え、そのせいで身体がボロボロになってもね。だけど、これはプロセスにすぎないの」
「プロセスとは何だ」
「通過儀礼といってもいいわ。あの万能箱は混沌の貴族の作ったもので、あれには魔法陣によって破損した身体を補う万能義肢を造り出す機能があるのよ」
「身体を補う機能だと? むしろあれは食わせているようにしか見えないぞ」
ゼフォールの指し示す先では、魔法使いが苦痛の叫びを上げ、その左腕は肘までなくなっていた。
ひと際大きな苦鳴が響いた。黒い箱の表面に赤い光が走り、金属のこすれる音がした。箱が形状を変えようとしていた。
直方体に歪曲面が生まれ、細長く伸びる。多層構造の表面は滑腕を形成した。その形状はゴツゴツとして内部構造らしい金属突起が所々に飛び出した。ただその突起類には赤い光の筋が血管のように走っていた。
「いったい何のためにあんなことをするんだ?」
不条理な行動に苛立ちを覚えたゼフォールの質問に対して、ラズリエルは少し笑みを含む見下した顔で答えた。
「もちろん、魔力を得るためのよ。万能義肢は混沌の貴族謹製でその構造自体が魔法陣と同等の効力を有するの。つまり、前より強力な魔法が使えるってこと」
とんでもない回答をさらっと言われて一瞬戸惑った。奴の万能義肢が完成すれば、間違いなく不利になる。
ゼフォールは剣を構え直した。
「なら、何故黙って見ている。仕掛けるぞ」
「もう、せっかちねえ」
ラズリエルは斬り込んでいくゼフォールを見送った。




