宵の仕事2 Ⅰ
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その夜、モルゲントルンには季節が戻ったかのような冷たい空気が流れた。
ここは西の大門に程近い細い路地である。丘の西裏へ続く表通りほど高い建物はなく、空にかかるのは新月で明かりはない。
大きな通りには公共のランプが掲げられているものだが、ここは奥の裏通りにすぎなかった。
レンガ造りの建物の前を滑るような足取りで歩く人影があった。闇に紛れる黒いコートに身を包み、細い黒杖を手にした背の高い青年。淡い金髪が辛うじて彼の存在を主張している。
青年の足が止まる。そこは平屋の商家の前だった。煉瓦積みの壁には古ぼけて文字のかすれた看板が掛けてある。
ストラ商会。それは告発状に記載されていた名称だった。青い瞳がさらに周囲を確認してから正面に戻る。
そこへ漆黒のドレスで着飾った女性か現れた。
「はろはろ、お坊さん。説教にはいい夜ね」
着衣とお揃いのトンガリ帽子を目深にかぶり、大きく開いた胸元には白く大きなふくらみが見える。妖艶と形容したいが、そこはかとなく漂うぶりっ子臭とゲス感がそれを許さない。
ゼフォールは声の主を見もせずに抑揚のない声で言う。
「私は説教師ではない」
「あらら、折檻師だっけ?」
彼女が期待したツッコミはおろか、リアクションすら返らない。
低い声が夜気を静かに震わせた。
「ラズリエル、これはあなたの仕事ではない」
「そうね。だけど、見物ぐらいはいいでしょ。先輩なんだしぃ」
「邪魔はするな」
「もちろんよ」
説明がないにも関わらず、先輩は訳知り顔で後ろに付き従った。相も変わらず人を食った言動だ。
普段なら嫌がるところだが、ゼフォールは気にする素振りも見せずに呪式譜を一枚取り出した。それから一言呟いてドアノブをつかむ。すると、何種類かのかすかな音が鳴り、施錠などないかのように扉は開いた。二人はあっさりと中に入ることができた。
質素な外観に反して、内装には金がかかっていた。柱には彫り物が施され、玄関ホールは待合所を兼ねてか、不揃いな大きさの椅子が数脚並べられている。
また、深夜にも関わらず屋内にはオイルランプが灯されていて、人が起きていることを示唆していた。寝ずの番がいるのだ。
玄関ホールからは左と奥に伸びる廊下が見える。左手の廊下の手前には扉があった。ゼフォールは迷うことなくその部屋へと入っていった。
教会で教わった通り、その部屋には三名の男がいた。宿直室は狭く、丸椅子が車座に置いてある。男達は椅子の一つを卓代わりにしてサイコロを転がし、賭博に興じていた。
最初は出目に熱中して誰も顔も上げなかったが、やがて一人がのんびりとした動作で扉を見た。しかし、そこにいたのは仲間ではなく、見知らぬ黒衣の青年だ。
彼らが動く前にゼフォールの右手が閃いた。仕込み杖が抜かれて二人の喉を裂き、左手に持つ鞘が端の男の口に突き込まれる。その男は喉の奥を潰され首の中程までが破壊された。
宵の教戒師の動きは素早く、血が飛沫となる前にその部屋を後にしていた。迸る血の噴水が扉口を越えて壁を染める。
それを見たラズリエルから一言。
「いやだわー。あなた、本当に聖職者?」
「教戒師だ」
教戒師は聖職者に含まれる。しかし、否定ともとれる返答であった。
ゼフォールの顔には一切の感慨もなく、ただ曖昧な表情の読み取れない仮面だけがある。それは作業として人の命を奪う冷たい仮面でもあった。
ゼフォールは頭に入れた地図に従って事務室を抜け、広間に到達する。そこに明かりはなく、次に隣接する台所を探るが、そこにも人はいない。もう起きている者はいないだろう。
今のところ用心棒は現れていない。手練れの傭兵を相手にするのは面倒だ。できれば、このまま静かにことを進めて隠密のまま戒めの秘蹟は終了させたい。
二人は足音を忍ばせて寝室へ向かった。寝室にはストラ商会の頭目がいるはず。奴には罪状を読み上げ、自分の犯した罪を理解させてから、彼の魂を灰の光へと送り出すだけのことだ。
寝室の前につくとゼフォールは音を立てないよう慎重に扉を開ける。
「よう、残念だったな。血の臭いには敏感なんだ」
下品な声が耳を汚した。
寝室にはオイルランプが灯されていた。部屋の中央にある大型ベッドには寝た形跡こそあるものの誰も寝ていない。
代わりに三人の傭兵がベッドの縁に腰掛けていた。三人は立ち上がり、ゼフォールとラズリエルを見る。その一人が驚いた声を出した。
「うん? まーたカラス野郎かよ……。おほっ、今日はカーツの乳繰り人形もいるな」
その男は異様にデカい顎の持ち主。ルロイ傭兵団の傭兵である。これで三回目の邂逅だった。
ラズリエルはさも驚いた風に口許に手をあて、言い返す。
「あら、カスが三人もいるわ。あたしの美的センスが見るのも嫌がってるから、戻ってるわね。じゃ、頑張ってねー」
フフッと笑って彼女は廊下の向こうへと消えた。何をしたいのかよくわからないが、これで足手まといはなくなった。
ゼフォールは無感動に意識を室内に戻す。室内にストラ商会の頭目がいないことは一目瞭然だった。
黒杖をねじり、ゆっくりと引き抜いた。その口調に変化はなく、ただ沈み込むような低い声で尋ねた。
「グレゴルー・ストラはどこだ?」
「身の危険を感じて逃げたわ。真っ当な商売人なのに逆恨みされてあぶねー奴に襲われたらたまんねーもんな」
顎デカ男は同意を求めるように肩をすくめる。
「その言い様、奴の所業を知っているな」
「さーな。俺達はただの雇われ用心棒だ。それより、おまえこそ何なんだ? 夜中に押し入るなんて、教戒師のやることじゃねえな!」
非難とともに奴の手斧が投げつけられた。
それを素早い剣捌きで弾く。答える声は淡々としていた。
「おまえは教戒師のことを知らない」
手斧の落ちる音が合図となり、三人は得物を振り回して襲いかかってきた。
一人は標準的な長剣で、もう一人は二本の棍棒、顎デカ男は顎のように大振りな刃をもつ戦斧だ。
広めの寝室とはいえここで戦えば乱戦となり、地の利はない。三人は無造作だが連携のとれた動きで、瞬く間にゼフォールを囲んでしまった。
多数と戦うなら、狭い場所が最も適している。細い通路なら背中を気にせず目の前の敵に集中できるからだ。また、体力に勝る場合、広い場所なら走って敵を分散させることもできる。
だが、このように中途半端な広さは論外だ。ゼフォールは相手に狙いを絞らせないよう前後左右に細かく動いた。
右後方からの棍棒を逃れつつ、頭頂を狙う長剣に対しては素早く踏み込んで膝裏を蹴り飛ばす。体勢を崩した隙を衝いて斬りつけたが、斬撃は顎デカ男の戦斧に阻まれた。
「ケケッ……」
デカい顎が不気味に笑う。
エリン司祭の言葉通り、ルロイ傭兵団は侮るには危険な相手だった。
ゼフォールは剣を引いて、廊下へ逃れようとする。しかし、狙いすましていたかように同時に三方から追いすがられた。長剣が、双棍が、そして戦斧がゼフォールを襲う。
決して避けきれないタイミングだった。翻ったロングコートの裾が絡まるように己の腕に巻き付き、もはや仕込み杖で受け流すことすらままならない。
三人は勝利を確信した。それと同時にバスンと妙な音が響いた。
腕に絡まったロングコートが幕のように広がり、三方向からの凶刃を受け止めていた。黒い布地の向こうから両手で裾をつかむ教戒師の顔が覗いた。
隠秘蹟を唱えたばかりの口は閉じる途中で、表情のない顔は唯一目だけが笑っているかのごとく。
次の瞬間、ゼフォールの体が回転し、傭兵達は瞬く間に斬り伏せられた。
二人は喉を裂かれて絶命し、顎のデカい顔馴染みは腕を切り落とされて倒れた。
傭兵は痛みに泣きわめいた後、ゼフォールを見上げた。切り株のようになった腕から赤い血がドクドクと流れ続けている。
「クソッ……とんでもない教戒師が……いたもんだ」
傭兵の呼吸は荒く、先は長くない。
「それで、いいことしてる……つもりかよ。……教戒師のくせに……人を、殺しやがって……つッ……」
「善悪は関係ない。おまえたちは人々の弱味につけんで道を踏み外させた。教会の意向に背いて」
「そうか、教会の……遣いってことか。てっきり、カーツの横車だと……」
「これはもう一つある『戒めの秘蹟』だ」
「ケッ、ついてねえ……。こんなことなら、俺は……つつッ……外してもらうんだった……。なあ、俺はこれでも、信心深い、ほうなんだ。末期に……懺悔するからよ、赦しちゃくれねーかい……」
ゼフォールが微動だにせずに黙っていると、傭兵は嘆願するように言った。
「なら、せめて……ひと思いに楽にしてくれ、カラスのにーちゃん」
「グレゴルー・ストラはどこだ?」
問い質す声には冷徹さが溢れ、傭兵の苦悶は苦悩へと変わった。
「チッ……それを言ったら、さすがにクズすぎらぁ。アアッ……くそぅ、いてえよぉ……。わかった、代わりに一つ教えてやる。……ルロイ傭兵団は、雇われて……ストラ商会の、後ろ盾をしてる。雇っているのは……角のある、仮面の、連中だ」
顎の大きな顔には死相が浮かんでおり、苦しそうに何とか言い切った。
「なあ……。これで、少しは……罪が軽くなったか?」
「教戒師は告解を受け付けない」
剣先が胸に滑り込み、心臓を貫いた。傭兵は寂しそうな顔のまま顎を胸につけて死んでいった。
寝室を出ると、血臭は廊下にまで漂っていた。思ったより時間がかかっている。
早くグレゴルー・ストラを探し出さなければならない。ただし、すでにこの屋敷の外へ逃げている可能性が高い。
ゼフォールが足早に玄関へ向かうと玄関ホールの床に伏せた男がいた。
男の体つきは細く、とうに七十は超えていると思しい年の頃。落ち窪んだ目が恨めしそうに周囲を見回している。白い寝巻き姿なのは深夜という時間にはふさわしいが、玄関の汚れた床はベッドではない。
グレゴルー・ストラは腕を立て、起き上がろうとして果たせなかった。女物の黒い靴に踏みつけられていたからだ。
靴の持ち主はラズリエル・サリメイル。
「遅かったわね、教戒師さん」
先輩が足をどけると、ゼフォールはストラ商会の頭目から見やすい位置を占めた。
ストラは体を起こすと、黒ずくめの二人から目を離さずに出方を窺っている。怯えた様子はなく、むしろ腹を据えたようにあぐらをかいた。
ぜフォールは淡々と尋ねる。
「グレゴルー・ストラか?」
沈黙は長く続かず、ストラは重々しく口を開いた。
「……わしに何の用だ」
「おまえは告発された」
「意味がわからんな。いったい誰が告発した。それにおまえは何なんだ。役人には見えん」
「私は教戒師だ。これはおまえを告発する告発状だ」
と巻かれた紙を広げて見せる。
「フン、知らんな」
頭目は目もくれず、そう吐き捨てた。
「ストラ商会は貧しい人へ金を貸し、その借金のカタに仕事の口利きをしているな?」
「それで借金を返せるのだから何が悪い?」
質問返しに、さらに質問返しで応えた。
「その仕事が犯罪でもか?」
ストラの皺の寄った顔は年期の入ったふてぶてしい表情を浮かべた。海千山千の古強者といった風貌は元傭兵であることを連想させた。
「そうなのか? 本当に犯罪をおかしているのか? だとしても、それはわしの知ったことではない。それは取立てを任せた傭兵団のしでかしたことではないのか? もし、それが理由なら、貴様は告発する相手を間違えている」
「では、それはルロイ傭兵団によるものだと主張するのだな?」
「さあて、何傭兵団だったかな。わしは彼らに借金の取立てを依頼した。彼らはそれを遂行する上で智恵を絞ったのじゃろう。確実に金を返せるよう、仕事を斡旋したんじゃないのか。取り立て額に応じた報酬じゃからのう」
宵の仕事で何度も目にした皮肉のある笑みがストラの面上に浮かんだ。盗人猛々しいという言葉がよく似合う。
傭兵時代に貯めた金で金貸しを始め、馴染みの傭兵団に仕事を回す。そういう構図が容易に連想できる。それがモルゲントルンの発展に一役買っているのだろう。
確信犯はたとえ懺悔したところで本心から悔い改めることはない。こういう輩には戒めを与えるしかない。そして、その秘蹟を担うのは教戒師なのだ。
ゼフォールの刃が有無を言わせずグレゴルー・ストラの胸元を狙い、老人は恐怖に顔を歪めた。
唐突にゼフォールは息を呑み、飛びすさった。同時にストラの体は炎に包まれる。
悪徳金貸しは悲鳴を上げる間もなく焦げた肉の塊と化してしまった。
「あら、あたしじゃないわよ。でもね……」
掌をゼフォールに向けて否定するラズリエル。彼女はおもむろに振り返った。
開いた玄関の先に仮面の理法魔術師、いや、恍惚派の魔法使いの姿があった。
炎に照らされた白い仮面の額には小さな角があり、額から垂れる黒髪を左右に分けている。仮面の下部から覗く唇には嫌な笑みをたたえていた。
「くっさい悪玉がようやくのご登場ね」




