仮面の暗殺者2 Ⅱ
もはや時間的猶予はなく、多少の手傷は覚悟して包囲の輪を突破するしかない。そう決断したときだった。
「あっ、手が滑った!」
声とともに丸い大瓶がカリーナのすぐ前に飛来し、そこで炎に包まれた。割れて落ちた後には液体が広がり、アルコールの炎を立ち上げる。その青い色合いから相当度数の高いお酒とわかった。装飾の凝り具合は高級酒であることを示している。
銘柄はわからないが、もったいないことだとカリーナは目を細めた。
「ごめんねえ、カリーナ。あなたと飲もうと思って持ってきたお酒だったのにダメになっちゃった」
とぼけた声の主が後ろの影の中から現れた。気取った感じにトンガリ帽子をかぶり、スミレ色のドレスをまとい、腰のベルトにはポーチを備えた女性。つまり、ラズリエル・サリメイル。
杯を交わすような仲かとツッコミを入れたくなったが、そこは我慢して重要な問いかけをする。
「ラズリエル、念のための確認だが、この炎はおまえの仕業ではないんだな?」
うんざり調の問いかけにも自然とホッとしたものがまざった。悔しいことに返す言葉にはそれに気づいたような調子があった。
「もちろんよ。あなたのお楽しみを邪魔をするつもりはないんだけどぉ……。ひょっとして助けてほしい?」
「別に。あの程度、どうとでも料理してみせる」
「あら、やだ。お料理なんかしないくせに~」
手を口に当てる仕種が何とも腹立たしい。
「それはお互い様だ。それより、やる気満々にしか見えないんだけど?」
「あら、わかる? 実はあっちの角あり仮面が目障りなのよ。このモルゲントルンに『恍惚派』だなんて」
「それは、つまり?」
「手を貸すってことよ!」
ラズリエルはスカートの裾を払い様、腰のベルトポーチからメモ帳を抜き取った。
仮面の下の唇から見下すような笑みが消える。理法魔術師は建物を離れて二人を包囲する輪に加わった。が、その内側へは入ろうとしない。
想像より高い声だった。
「また邪魔をする気か?」
ラズリエルはメモ帳を扇子のように鼻先で振る。
「邪魔はしないわ。ただ、恍惚派のくっさ~い臭気を嗅がされると頭が痛くなるの。だから、このクソまみれみたいな臭いの元を絶ちたいだけ」
彼女は仮面の男達を前にしていささかも臆することはない。いつもは角を突き合わせる相手だが、このときばかりはカリーナも心強く思った。
対して相手も強気だ。
「譫妄の徒は相変わらずうわ言を垂れ流すものだ。二度は退かない。スコーデルともどもここで命を落とすがいい」
「威勢がいいこと。でも、あたしとやるには不足よね」
「何が不足だ? 呪式譜か?」
と腰を叩く。そこには分厚いメモ帳があった。そこには間違いなく呪式の類や象徴印が記されている。それも攻撃的なやつが。
自分の手にあるメモ帳の薄さを恨めしげに見比べるラズリエル。
「な、何言ってるの。量より質に決まってるじゃない。枚数より、書いてある象徴印と魔術定理の高度さのほうが……」
何とも心許ない負け惜しみにカリーナは心配になった。
「おい、本当に任せて大丈夫なのか?」
「ッッッツたりまえじゃない! 魔法使いの真似事しかできないようなクズカス野郎の相手は超絶美形魔女であるこのラズリエル様が……」
下品な言葉遣いで辟易するような発言が返ってくる。
ところで、カリーナは意味のない時間が嫌いだった。
「シッ!」
鋭い吐息とともに最も手前にいた男は神速の斬撃に腕を斬られた。剣を落とし、慌てて後退する。残りの男たちは素早く下がって剣を前に突き出し、威嚇の声を発して気勢を上げた。
ちなみにラズリエルは、最後まで聞かない態度にブー垂れている。
その様を鼻で笑い、カリーナは呟くように言った。
「さて、無駄に使った時間を返してもらうか」
膠着が解けるや、仮面の理法魔術師の詠唱が始まった。
「やるぞ、譫妄派! 太陽理よ。異邦巨人の鋭き眼光は大地を焦がせり。その炎熱をして……」
理法魔術師の喚く言葉の意味するところはわからなかったが、カリーナにも一つはっきり理解できることがあった。それは、奴がラズリエルを意識しており、彼女が面倒な奴をひき付けておけるということだ。
隣ではラズリエルが呪式譜を一枚引き抜き、伸ばした指に挟んだまま詠唱を始めている。
何がどうなるのかは想像もできないが、彼女に任せておいて問題ないとカリーナは判断した。
「着火しろ!」
理法魔術師の唱える結句に合わせて、ラズリエルも素早く呪文を唱え終わる。
「吹き飛びなさい!」
一瞬、炎が見えたが、それは瞬時に吹き飛ばされた。
舌打ちをした仮面の理法魔術師は新しい呪式譜を引き抜いて次の呪文を唱える。が、ラズリエルは挑発するように手の呪式譜をヒラヒラさせて、別の対抗呪文を唱える。
ラズリエルの周囲に火柱が立ったが、つむじ風のようにあっさり空中へ消え去った。
なかなか頼もしい活躍であるため、スカートがまくり上がった際の悲鳴は聞かなかったことにした。
二人の詠唱に割り込むように罵声がカリーナの耳に届いた。
「死ねよ!」
二人が挟むようにカリーナに殺到する。左右から刃が振り下ろされた。左肩を狙うのは幅広の段平、右脇を狙うのは短めの長剣。
段平をかわしつつ長剣は剣で受け流し、直線的に前に出る。すると、そこには次の斬撃が待ち受けていた。そして、その背後からさらに追撃の切っ先が覗く。計算しておかれた致死の刃だ。
だが、それはカリーナの想定内だった。そして、彼女の体捌き、足捌きは敵にとって想定外だった。
相手は半歩踏み込む途中でカリーナの強烈な体当たりを受け、体勢を崩す。男の喉は短剣に裂かれた。
同時に背後の男は驚愕した顔で自分の喉元を見つめる。鋭い剣尖が前の男の脇をくぐり、顎の下から貫いていた。
カリーナは短剣を右手に長剣を左手に駆け抜けた。背後の殺気がふくれ上がったが、振り返った途端にそれは気圧される。というのも、それ以上に強い殺気が現れたからだ。
カリーナのオレンジ色の赤毛からゆらめくような殺気が立ちのぼる。
残った男達は余裕なく剣を構えた。数の優位はまだなくなっていないが、武力の差が大きく開いたのを感じたのだ。
カリーナ・スコーデルはモルゲントルンで一、二を争う傭兵団の団長であり、剣の腕で知られた傭兵もある。だが、暗殺者達は襲撃をするまで所詮は女だと侮っていた。五人がかりでやるほどの相手ではない、と。
しかし、彼女の動きは素早く、動作は鋭い。その上、剣技では遠く及ばない。数に任せて先に手傷を負わせれば充分に勝機があったのだが、その考えは甘かった。おそらく倍の人数をもってしても難しかっただろう。
化粧栄えする顔に凄惨な微笑が浮かび、暗殺者達は恐れおののいた。
一方、微笑の後ろでは呪式譜が幾枚も舞っていた。そこに書かれた象徴印や魔術定理はすでに滲みきっている。
優勢が確定したところでラズリエルの小バカにした声が響いた。彼女は相も変わらずコケにする台詞をのたまう。
「あーら、グズな恍惚派さん、メモ帳の厚み比べは負けたけど、呪式譜の象徴印はあたしのほうが上等なようね。あたしの一枚はあなたの三枚分よ。フフフ……」
「それは逆を返せば、私は先におまえの強い呪式譜を消費させたわけだ」
「ものは言いようね」
「メモ帳の厚みは同じぐらいになったが、私は弱い理法魔術から使った。まだまだ強いものが残っているぞ」
理法魔術のことはよくわからないが、この台詞は強がりなのか、聞き逃すことのできない事実なのか。万が一を考えてカリーナはラズリエルに合流した。
恐るべき殺気から解放された男達は同じように理法魔術師の元へと集った。
「大丈夫か、ラズリエル」
心配無用だとラズリエルの手が元々薄いメモ帳を振ってみせる。しかし、指摘は事実なようで彼女は口を尖らせてうそぶいた。
「あたしも弱いやつから使いましたー! これから使うやつはもっと強い呪式譜なんですー! だから、あんな奴の理法魔術は押し切れちゃうんですー!」
仮面の下でむき出しの口が吐き捨てるように言い返した。
「愚かな女め。理法魔術の強さは、描かれた象徴印と魔術定理による。所詮は、書かれた呪式次第だ。結局こんな紙切れに頼るようでは、譫妄派も大したことがない」
そして、仮面の理法魔術師は二の腕まで袖をまくり上げた。
「そろそろ児戯は止めだ!」
浅黒い二の腕には複雑な魔法陣が刻まれていた。その象徴印がかすかに発光する。
「あら、ちょっとは上等そうだけど、またまた太陽理なの。芸がないわねえ」
「五大公理で最大の出力を誇る公理で必殺を期するのだ。それに他の公理との並行運用だ。多少対抗魔術が得意でも、複数の効能を簡単には打ち消せまい」
と袖をまくったほうの手に呪式譜が現れた。
「あわわ、もうおぢまいよ~、カリーナぁ!」




