サン・クルールの司祭 Ⅲ
◇ ◇ ◇
日が暮れ、宿に帰りついたとき、ゼフォールの全身からは疲れがにじみ出ていた。
それは、素敵な先輩のゲスさ加減が原因なのか、出会う傭兵たちが悉くゲスなことが原因なのか判然としないが、教戒師生活での疲れとは別物だった。
入り口にいた宿の亭主に挨拶をして二階へ上がる。飾りのない殺風景な廊下をゆっくりとした足取りで進み、一番奥の突き当たりにある自分の部屋に戻った。
宿に泊まるのは金がかかるため、そろそろ住む場所を考えなければならなかった。朝のお迎えをいつまでやることになるかわからないが、しばらく続くのならば、ラズリエルの家の近くに部屋を借りることで移動時間の節約ができる。
とは言え、本心ではこのまま彼女のための鶏代わりにされるのは御免だった。
気持が疲れに引きずられないよう、部屋の前で一度深呼吸をして気分転換を図る。
「ふう……!?」
ドアノブをつかむ直前にゼフォールに緊張が走った。部屋の中に人の気配を感じたのだ。もちろん誰かが堂々と訪ねてきたのなら宿の亭主が教えてくれたはずだ。それがないということは、十中八九が怪しい侵入者であろう。
教戒師は仕事柄戒めを与えた相手に恨みを買うこともある。しかし、今は仮面の剣士のことが脳裏をよぎった。
ここは相手に待ち伏せの余裕を与えないよう速攻をかけるのがよい。
ゼフォールは腰のポーチから薄革のオープンフィンガーグローブを取り出すと両手にはめた。そのグローブの掌には隠秘蹟の象徴印が描いてあり、ゼフォールは単語を数語呟いた。
この魔術は隠秘蹟独特のもので、通常の理法魔術にはない。そのため、大抵は虚を衝ける。
仕込み杖の柄をねじり、扉を開く。入室と同時に暗がりに人影を確認した。
ゼフォールの体がまるで突風に突き飛ばされたようにその人影に肉薄した。
「逸らないでください」
仕込み杖が抜かれるより早く声が聞えた。同時に声の主は大きく踏み出し、抜きかけの柄頭を押さえていた。想定以上の手練れである。
ゼフォールは眼前の人物に集中しつつ油断なく周囲の気配を探る。どうやら一人のようだ。
淡々とした声で誰何した。
「何者だ?」
「昼間お会いしたエリンです」
確かにそれは記憶に新しい女司祭の声だった。彼女から指を鳴らす音が聞えた。
燭台に灯が点り、二人の姿が浮かび上がった。エリンはサン・クルール教会で見たときと同じ白いローブと首から垂れる帯のある司祭服であり、腰のベルトにはゼフォールのものとそっくりな物入れがあった。
ゼフォールは柄から手を離すと驚いた顔で言った。
「あなたも隠秘蹟を使えるのですか」
「短い期間でしたが、私も『宵の教戒師』でしたから」
エリンはこともなげに言った。これは驚くべきことだ。『宵の教戒師』は簡単になれるものではなく、またその特殊性故に簡単に抜けられるものではないからだ。
だが、その驚きが去るとゼフォールの内には怒りが湧く。疲れているところにこんな真似をされて穏やかでいられるわけがない。
「人を試すような真似はやめてもらえませんか。それで、多忙を極める司祭様がわざわざ来られたのはどうしたわけですか?」
揺れるか細い炎に照らされた彼女の顔は不機嫌そうだった。
「もちろん『宵の仕事』が滞っているからです」
「それについては、教戒師としては仕事をしないとお伝えしました」
「ならば、教戒師の肩書きを使って、統轄教会に来ることも同様ではありませんか」
厳しく言い返されてゼフォールは言葉に詰まった。まったく彼女の言うとおりだからだ。カーツのことを恨めしく思うつもりはないが、傭兵団に入った時点で教会に足を向けづらいのは事実だった。
エリンは腰のポーチにくくりつけてあった筒を引き抜いた。
「これが告発状です」
と差し出す。これを受け取ったら終わりだ。受け取ることは、宵の仕事を引き受けることを意味する。
ゼフォールがまったく動かずにいると、それは元の腰に戻った。
そして話が続く。
「教会から見て目に余る悪事を働く男がいます。その男はある商会の主席ですが、その商会を隠れ蓑にして、ならず者の集団を操って犯罪行為を行っています」
商会というのもどうせ傭兵なんだろうとゼフォールはうんざりする。
「それは役場の仕事でしょう。犯罪なら治安役場に届ければよいのでは?」
「本来はそうすべき事件だとわかっています。しかし、表立って悪事は働いていないので、納得できる証拠がなければ、ただの言いがかりにすぎません」
ゼフォールの顔が不可解そうなものに変じる。
「そもそも証拠がないことが問題ではありませんか」
「提出できるような証拠はありませんが、教会に寄せられる多くの信徒の声を元に私自身が調査しました。自分の目と耳で裏を取ったのです。信用できませんか?」
辛辣な問いかけだ。
彼女は理法魔術が使え、裏の厳秘である『宵の仕事』にも携わっていた人物である。その仕事ぶりに異を唱えるつもりは毛頭ない。
ただ司祭が現場で自ら動くほど人手が足らないことが疑問だった。
ゼフォールの戸惑いを悟ったエリンは語り始めた。
「まずは説明をしましょう……」
最近、告解に訪れる者が増えているという。彼らは判を押したように自らの手で犯した犯罪を懺悔するのだ。それ自体はおかしなことではないが、多くが貧困街の住人で皆借金のかたに犯罪を強要されたと述懐したそうだ。
中にはそのままならず者となっていく者も多く、貧民街の多い南ブロックの治安は悪化の一途をたどっているらしい。すでに罪を犯した身の上なので役場は頼れず、藁をも縋る気持で教会を訪れたのだという。
話によると金を貸しているのは、とある商会。表向きは口入屋の態だが、よくある話で実際は無法者の集団である。
信徒から集めた情報によると、彼らは貧困層に金を貸して返せない者に犯罪行為や危険行為を強要して仲間に引きずり込む手口で勢力を拡大している。
そして、調査によって、彼らが大量の武器や交易キャラバンの情報をコアト族に提供して、山賊行為や密輸を行わせていることもわかった。
依頼を受けていないので実名は伏せられていたが、内容はよくわかった。だが一つ言えるのは、やはりこれは教戒師が解決すべき問題なのか、ということだ。
「さすがに話が大きいのではありませんか。役場かせめてリーシュ伯爵に報告すべきです。彼らもサン・クルールの司祭の言葉を無碍にはしないでしょう」
しかし、エリンは首を横に振った。
「告解した者たちには赦しを与えました。それによって真っ当な道に戻った彼らをいまさら犯罪者とするわけにはいきません」
確かに法の下に不正を正すのであれば、教会を頼った人々をもすべて裁かなくては法の筋が通らない。
ゼフォールもこの仕事の難しさに嘆息を禁じえなかった。
「なら、宵の仕事として片付けるだけですね。まさか統轄教会に『宵の教戒師』がいないわけではないでしょう」
「いないのですよ」
ゼフォールは耳を疑う。
「え?」
「現在、優秀な教戒師は王都アンルードに集められているのです」
「何かあったのですか?」
「それはわかりません。ですが、そのため、めぼしい宵の教戒師は出払っているのです」
表にせよ、裏にせよ、教戒師は基本的に単独で仕事をするため、人数を集める意味合いは薄い。
「そして、この商会は小癪なことに実績のある法定傭兵団を用心棒として雇っているのです」
「まさか」
法定傭兵団は無法者とは違う。なぜなら法で定められて身分を保証されているなら、法を破ればその身分を失うからである。
ただの傭兵団ならともかく、法定傭兵団がそんなことをしていると知られることは命取りのはずだ。
「はっきり言って、法定傭兵団の実力は侮れません。腕の立つ戦士が何人も警戒しているところへ潜入して戒めることができるほどの者は、今、サン・クルールにはいないのです」
ゼフォールの頬が曖昧な微笑を形作った。
「であれば、本部教会へ頼んでトップクラスの教戒師、『宵闇の教戒師』を派遣してもらうしかないでしょうね」
「それは無理でしょう。理由があって教戒師を一ヶ所に集めているわけですから」
つぶらな瞳がゼフォールを見据える。
「ですが、ゼフォール氏なら可能だと、私は考えています」
「それは買いかぶりです」
エリンは思案にふけるような仕種をして言った。
「たった一年だけのことですが、私も『宵闇の教戒師』だったことがあります。ちょうどそのとき、入れ替わるように宵闇の教戒師から抜けた人物がいると聞きました。その方は大変優秀で、宵の教戒師として多数の仕事をこなし、半年ほどで宵闇の教戒師となったそうです。その後、彼はアンリエット王国の中枢から声がかかって宮廷での仕事をするために抜けたという話です」
「それが私と何か関係ありますか」
「いえ、あなたなら、この難しい仕事もその方と同じように手際よく片付けられるのではと思っただけです」
「言ったでしょう。買いかぶりです」
冷たく言い返す声に変化はなく、エリンは溜め息を洩らした。
「これだけ窮状を訴えても受けてもらえませんか?」
曖昧な微笑がついに氷結しそうな冷気を発した。
「申し訳ありませんが」
「わかりました。あなたに引き受けてもらえないなら、棚上げするしかありません。宵の教戒師は貴重ですから、むやみに死地には送り出せません」
彼女の表情は辛そうで、また疲れているようにも見えた。
「受けない以上、この告発状は持ち帰ります。気が変わるようならいつでも言ってください」
「気が変わるなら」
素っ気ない返事にエリンは早足で部屋の外へ出るが、暗い廊下を歩きかけて踵を返した。扉を閉めようとしたゼフォールに軽蔑した眼差しがぶつけられた。
「ゼフォール氏、あなた、性根は冷血漢ですね」
「ええ」
笑顔でいなすと扉が勢いよく閉められた。
ゼフォールは素早く引っ込めた手を撫でる。嫌われたかな、とその手で頭をかいた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆




